第二十一話 規約破棄
俺がイルメリにネックレスを贈って以降、俺達の関係は劇的に変わった。
イルメリは、これまで避けていたことが嘘のように積極的に俺とかかわるようになっている。俺に対する呼称(二人称)も「其方」から「貴方」に変わっている。その呼称を使う対象は、どうやら俺だけのようだ。その事実は、彼女が俺を特別扱いしているという明証だった。まあ、その言葉を聞かずとも、普段の生活からハッキリそれと分かる訳だが。
朝、俺が目を覚ますと視界一杯にイルメリの顔が映り込んだ。その光景を目の当たりにする度、俺は心中で「規約はどうした」とツッコミを入れている。その想いが口から出たことも有った。その度に、イルメリは口を「へ」の字に曲げて言い訳をする。
「貴方の顔が勝手に私の視界に入ってきたの」「見ているだけなら規約に反しないわ」「細かいことは気にしないで」「貴方の体調を確認しているだけよ」
イルメリの言い訳は、どれもツッコミどころ満載だ。何か言ってやりたい衝動に駆られる。しかし、朝から女王の機嫌を損ねるほど、俺は勇者でもなければ暇人でもない。
「さいですか」
俺はぞんざいに返事をしてから、早速俺だけに与えられた役目に取り掛かった。
俺はベッドの傍の棚からブルースターのネックレスを取り出して、イルメリの首に付けようとした。その際、イルメリと一緒にベッドを離れて、部屋の奥に置かれた鏡台の前に立った。
人間大の鏡台だ。その鏡面は白いレースのカバーに覆われている。それを取り外すと、青いネグリジェ姿のイルメリの姿が映り込んだ。
俺はイルメリの背後に立って、両腕を彼女の肩越しに前に突き出して、彼女の首にネックレスを巻いた。
このとき、俺の視線はイルメリの後頭部に向いていた。少なくとも、イルメリはそのように思っているだろう。彼女は、全力で油断していた。その事実は、俺達の前に有る大きな鏡面で確認できた。
鑑に映ったイルメリの顔に、顔面神経痛を疑いたくなるほどの歪で不気味な笑みが浮かんでいる。必死に抑えようとしているようだが、その努力は実っていない様子。その表情は、実は俺の視界の端にバッチリ映っている。何か言ってやりたい衝動にも駆られた。しかし、
「…………」
俺は何も言わなかった。敢えて気付かない振りをしている。兎にも角にも、朝から面倒事は避けたいからだ。尤も、突っ込みたくなる出来事は、朝に限った話ではない。
午前中、俺が自分の執務机に座って仕事をしていると、何度もイルメリから声を掛けられた。その度に、俺は顔を上げて返事をしている。ところが、
「…………」
イルメリは何も言わない。黙って俺を見ているだけ。暫く待ってみても、何も言わない。その奇行を目の当たりにして、俺は「用件が有るなら言ってくれ」と催促をした。すると、
「何でもないわ」「(要件を)忘れちゃった」「たった今、解決したわ」
例によってツッコミどころ満載の言い訳をする。それらの言葉を聞く度、俺は「さいですか」と気の無い返事をして、再び仕事に取り掛かっている。
正直、面倒臭いと思う。その想いに加えて、このような意味不明な出来事に毎回対応できる訳ではなかった。
偶に呼ばれたことに気付かず、返事をしないことも有った。すると、イルメリは俺の傍まで寄ってきて、至近から俺を見詰め――いや、睨んだ。その鋭い視線に気付いて顔を挙げると、イルメリは眉を「八」の字に、口を「へ」の字に曲げて、
「何故、返事をしないの」
俺を非難した。その奇行を目の当たりにして、俺は頭を抱えた。しかし、これらは未だ序の口。午後になるとイルメリの奇行は加速度的におかしくなる。
昼食時、以前なら王宮の大広間を使っていた。しかし、ネックレスの件が有って以降、専用の食堂で摂るようになった。まあ、それは構わない。問題は、互いの距離が近過ぎることだ。
先ず、食事用のテーブル自体が小さい。一人用かと錯覚するほどだ。その猫の額ほどの空間に、俺達は二人並んで座った。当然のように密着状態。それを意識する度、俺の脳内に婚姻規約に書かれた内容が閃いた。
「適切な距離を取るんじゃなかったか」
適切な距離。イルメリ曰く「手が届かない距離」だ。しかし、それを決めた当の本人はというと、堂々と理不尽な理由を告げた。
「仕方ないでしょ。テーブルが狭いの」
イルメリは、意図的に用意した状況を理由に、頑なに現状維持を主張する。それを聞かされる度、俺は場所移動を主張している。しかし、
「ここでも食事はできるでしょ。何も問題無いわ」
イルメリは頑として譲らない。何を言っても暖簾に腕押し馬耳東風。俺の方も嫌という訳でもないので、
「さいですか」
呆れながらも付き合っている次第。しかしながら、イルメリが俺に密着してくる奇行は昼食時には止まらない。
昼食後、俺が中庭のベンチに座って寛いでいると、イルメリは荷物を持って現れて、
「私も座る」
俺と反対側に荷物を置き、態とベンチの上を狭くしてから、俺の隣に座った。結果的に密着することになっている。この奇行に対して、俺は直ぐに「規約違反」と文句を言った。しかし、イルメリは頑なに譲らない。
「荷物が有るの。これが適切な距離」
余りに強引な言い訳を聞いて、俺は眩暈を覚えた。当然のように、夕食時も、就寝時も、万事が万事以下同文。ここまでされると、流石の俺も考えを改める。
或る日の就寝時、俺はイルメリのネックレスを外しながら、予てから疑問に思っていたことを告げた。
「婚姻規約。もう、意味無いのでは?」
そもそも、規約は俺達の距離を隔てる効果を企図していた。しかし、それを決めた当人が、全力で距離を詰めている。
一体全体、「対面を取り繕うだけ」と言ったのは誰だったのか? 俺にはイルメリが全力で俺を攻略しに来ているようにしか思えない。その事実を、当のイルメリ本人が理解しているのか否か? 俺はネックレスを外しながら、注意深く彼女の様子を窺った。すると、
「そう――ね」
イルメリは頷いた後、首を傾げて考え込んだ。その際、彼女の顔は普段通りの無表情。しかし、その氷像然とした口から出てきた言葉は、僅かばかり熱が籠っていた。
「邪魔――いえ、意味は無いのかもしれないわね」
かくして、イルメリが定めた規約は当の本人によって殆ど破棄された。尤も「何かあったらイルメリに報告」の条項だけは、夫婦間の不文律として残されている。その事実に対して、俺は少し不満を覚えた。その想いも口に出している。
「イルメリの方も、何か有ったら俺に言って欲しい」
「分かった」
イルメリは俺の要望をアッサリ聞き入れてくれた。この不文律は、思いがけず互いの想いを伝え合う機会にもなった。
かくして、俺達を隔てるものは無くなった。それに伴って、イルメリの奇行も増々おかしくなっていく。その果てに、これまで無用とされていた婚姻にかかわる一大イベントが執り行われることとなった。
そう、結婚式だ。




