第二十話 新たな役目
石の回廊の中を、二十代後半の男女が移動している。その際、石の床を踏んでいる足は、男性のものが二つ。女性の足は宙ぶらりん。
男が女を抱えて歩いている。それも、お姫様抱っこで。その事実について考えると、男性――俺、マティス・エルス・イェマの顔に苦笑が浮かんだ。
一国の女王を、お姫様抱っこで運ぶ。王配に許された特権だな。
俺の表情は、俺の腕の中にいる女性――イルメリ・イェマの瞳には映っていない。瞼がしっかり閉じられている。彼女の意識は夢の中だ。
どんな夢を見ているのやら?
良い夢なのか? 悪夢なのか? イルメリの頬に残った涙の後を見ると、後者を想像する者は多いと思える。尤も、そこまで意識を向けられる者は殆どいない。実際、俺達とすれ違った者は、例外なく目を開いて息を呑んでいる。
イルメリを知る人間にとって、「イルメリが泣いた」という出来事は、自分の目と現実を疑って余りあるほど有り得ないもの。俺も初めての経験で、大いに戸惑っている。だからと言って、イルメリを放置したり、他人任せにする訳にはいかない。
イルメリを泣かせたのは、俺だからな。
俺は誰の手も借りずに眠るイルメリを寝室に運んだ。彼女を起こさないよう細心の注意を払いながら、その体をベッドに横たえた。
青い簡素なドレスに包まれた体が柔らかな布団に沈んでいく。その様子を見て、俺は小さく息を吐いた。気持ち的には国家の大任を果たしたと言ったところか。
尤も、肉体的には大して披露していない。イルメリの体が存外に軽い。しかし、予想外の事態に見舞われたことも有って、精神的には相当な疲労を覚えている。叶うならば、俺も布団に沈みたい。しかし、それを躊躇う事情が有った。
仕事が残っている。
俺はイルメリの様子を確認した後、踵を返して執務室へ向かった。
俺としては、今日やるべき仕事を片付けるつもりだった。ところが、俺の手が動かない。俺の脳内は先の出来事、イルメリの泣いている様子ばかりが閃いている。
気になる。何で、イルメリは泣いたんだ?
全く仕事に集中できない。だからと言って、サボる訳にはいかない。俺は頭を振って雑念を散らしながら、昼食抜きで自分の職務に奮励努力した。
暫く、凡そ二時間ほど頑張った。偶に手が止まるものの、それなりに処理は進んでいる。このまま頑張れば、午前中の遅れを取り戻すことができる。そう思った。
その直後、廊下が騒がしくなった。何かが近付く気配がした。それを意識した直後、執務室のドアが勢いよく開け放たれた。
「!?」
俺は思わず息を飲んだ。俺の視線は執務室の出入り口に釘付けだ。その際、俺の大きく開いた視界には、青い簡素なドレスをまとった白銀髪の女性が映っていた。その正体は、彼女の姿を見た瞬間直感していた。
「イルメリ――」
俺が名前を呼ぶと、イルメリは一瞬、俺の方を見た。しかし、直ぐに視線を正面、自分の執務机に向けている。
イルメリは、寝室に担ぎ込んだときと同じ格好をしていた。しかし、後頭部でまとめた髪が乱れている。どうやら、起きて直ぐに執務室へとやってきたのだろう。その行為の理由を考えると、俺の意識はイルメリの執務机に吸い寄せられる。その思念の波動が、イルメリにも意識できた――かもしれない。
イルメリの体が、吸い込まれるように執務机に近付いていく。しかし、椅子には座らない。
イルメリは、執務机の傍らに立ったまま、ジッと机上を見詰めている。その様子を見て、俺の脳内に彼女は泣いている姿が閃いた。それと同時に、俺の頭がズンと重くなった。しかし、俺が覚えた不安は杞憂に終わった。
イルメリは泣かなかった。机上に両手を伸ばして、そこに乗った《《何か》》を両手で掴み上げた。
それは、青いリボンで丁寧にラッピングされた白い箱――ネックレスケース。
イルメリは、箱を大事そうに胸に抱きながら、俺の方を向いた。俺も彼女を見ていた為、思い切り目が合っている。俺の視界に、俺を真正面から見詰めるイルメリの顔が映りこんだ。
イルメリの顔は、いつもの無表情ではなかった。眉を「八」の字に曲げて、切なげな表情を浮かべている。未だ涙の跡が薄っすらと残っている為、俺は、「今度こそ泣くのではないか」と不安を覚えた。しかし、それも杞憂に終わった。
俺がじっと見つめていると、イルメリの可憐な口が僅かに開いて、そこから掠れた声が上がった。
「あの」
イルメリの方から声を掛けられた。何日振りのことか? 俺の脳内で、これまで幾度となく避け続けられていた記憶が走馬灯のように閃いた。それらの出来事を想起する度、自分の耳を疑いたくなる。しかし、先の声が幻聴でないことも、良く分かっていた。
「これ」
イルメリは、胸に掻き抱いていた箱を、ユックリ眼前に掲げた。その際、箱に添えられていたメッセージの内容が、俺の視界に飛び込んだ。その瞬間、俺の顔が紅潮していく感覚を意識した。
〈愛する妻へ〉
自分で書いた台詞だ。それを見ていると、顔の赤みが増していく。イルメリの瞳に映った俺の顔は、完熟トマトそのものだ。その事実を意識するほどに、逃げ出したい衝動に駆られた。しかし、逃げ出す訳にはいかない。
俺は極力メッセージを見ないよう、視線をイルメリの顔に固定した。その直後、見詰める先の可憐な口が開いて、泣いているような震える声を上げた。
「何?」
簡潔に過ぎる質問だ。それを聞いて、俺は直感的に閃いた言葉を告げた。
「ネックレス」
俺は箱の中身を伝えた。すると、イルメリは「ネックレス」とオウム返しに繰り返した。続け様に、震える声を上げて質問を重ねた。
「何故?」
これまた簡素に過ぎる。俺は少し考えて、言葉の意味を想像してから声を上げた。
「贈り物」
我ながら素っ気ない返事とは思う。尤も、イルメリの質問も似たようなもの。俺は彼女に合わせているに過ぎない。だからと言って、「これで良いのだ」とも思っていなかった。
もう少し、気の利いたことを言うべきか?
俺はイルメリの声音を含めた様子から、彼女が情緒不安定になっている可能性を想像していた。脳内では適当と思える台詞が幾つも閃いている。それを告げようと口を開いた。
その矢先、イルメリの声が上がった。
「何の為に?」
また質問。それを聞いて、俺は自分の台詞を飲み込んだ。
今は、イルメリのペースに付き合ってやろう。
俺は用意していた台詞を消去して、イルメリの質問に対する回答を幾つか考えた。その中で、無難と思えるものを告げた。
「日頃の感謝――かな?」
感謝。実のところ、その理由は正答ではない。本当はイルメリとの仲を取り持つ切っ掛けのつもりだった。その役目は、十全に果たされているような気もする。
質疑応答ばかりとは言え、イルメリと会話することができた。
今日の出来事を切っ掛けに、以降も会話をする機会を得たいところ。その展開を期待しながら、俺はイルメリからの質問に答え続けた。その成果は、目に見えて分かる形で具現化した。
暫く質疑応答が続いた後、イルメリは箱を前に突き出しながら、俺に向かって役目を申し付けた。
「付けて」
「!」
一瞬、俺は自分の目と耳を疑った。しかし、俺は即応している。この好機を逃す訳にはいかない。
「仰せのままに」
俺はイルメリからネックレスケースを受け取って、中身を取り出した。すると、俺とイルメリの視界に細い銀鎖と、小さな青いサファイヤの花が映り込んだ。
ブルースターのネックレス。
花と鎖に施された精緻な意匠が、それぞれを美しく輝かせている。尤も、それらは決して華美ではない。月光のように控えめなものだ。
俺は両手にネックレスを掲げながら、一層イルメリに身を寄せた。その際、イルメリは逃げなかった。
イルメリは、俺と密着することも厭わず、俺に背中を預けた。その行為にドギマギしながら、俺は彼女の首にネックレスを付けた。
イルメリの首から胸に掛けて、細い銀鎖の煌めきが奔った。その先端、ネックレスのヘッドに咲いた青いサファイヤの花が、青いドレスの中で淡い光を放っている。その控えめな輝きは、イルメリの美しさを一層際立たせていた。
ネックレスを付けたイルメリの姿を目の当たりにした瞬間、俺の口から素直な感想が零れ出た。
「綺麗だ」
俺の言葉は、イルメリの耳にも入っていた。彼女の耳が真っ赤に染まっている。その変調を直感した瞬間、イルメリの弾んだ声が耳に飛び込んだ。
「これ、これから其方が――」
イルメリは何事か言い掛けて口を噤んだ。しかしながら、黙っていた時間はほんの一瞬。直ぐに口を開いて、続きの言葉を告げた。
「貴方が私に付けて」
貴方。イルメリの口から初めて聞く呼称だ。その変化に加えて、イルメリは俺に新たな役目を与えた。
何か、良い流れが来ているような気がする。
俺が覚えた予感は、この日以降の生活で劇的と言えるレベルで具現化することになった。




