第十九話 初めて見る顔
イルメリが泣き出してから、どれくらい経っただろう。俺の体感では五時間ほど。実際には小一時間と言ったところだろうか。その間、俺も、イルメリも、石のように不動の状態だった。それも、余人の目を憚りたくなるような格好で。
俺達は、イルメリの執務机の傍にしゃがみ込みながら抱き合っていた。
イルメリは、俺の首に腕を回したまま、俺の胸に顔を埋めて泣き続けていた。
俺は、イルメリを落ち着かせようと、彼女の背中に両手を回して撫でていた。その間、俺の顔にも泣き出しそうな複雑な表情が浮かんでいる。
俺がイルメリを泣かせた。
現況を鑑みる度、俺の心底からヘドロのような罪悪感が込み上がってくる。吐き気もする。しかし、俺の脳内は「?」で一杯になっていた。
何故、イルメリは泣いたのか?
イルメリは、周囲から「氷の女王」と呼ばれるほど感情を表に出さない。殆どの者が「彼女には感情が無い」と思い込んでいるだろう。彼女の近親者、イリアナ子爵婦人も、イルメリの表情が乏しい事実を嘆いている。
尤も、何事にも例外は有る。この国に現存する人間の中には、イルメリが感情を露にしたところを見ている者がいる。言わずもがなの俺、マティス・エルス・イェマだ。
俺はイルメリが怒ったり、不機嫌になったりしている様子を、日常茶飯事と言って良いほど目にしている。滅多に無いが、笑ったところも見ている。
しかしながら、そんな俺でも見たことのない表情が一つ有った。
まさか、あのイルメリが泣くなんて。
俺はイルメリが泣いたところなど見たことが無かった。ウガリット大学生時代を含めても、一度も無い。
後で知ったことだが、イェマの人々も同様のようだ。
イルメリの父ベリアンの葬儀でも、母王イスタリアの葬儀でも、イルメリは泣かなかったと聞く。その為、誰も彼もが「イルメリには涙腺が無い」と思い込んでいた。 イルメリの涙は、イェマの七不思議に上がるほどの珍事中の珍事。俺でなくとも対処に困る。
そもそも、前例がない事に対処法など有るはずもない。しかも、俺にはイルメリが泣いた理由が分からない。しかしながら、原因だけはハッキリ分かっている。
俺が贈ったブルースターのネックレス。それは今も箱に入ったままイルメリの執務机の上に乗っている。箱が開いてない以上、イルメリが中身を知っているとは思い難い。しかし、その贈り物には付属物が一つ有った。
俺のメッセージを書いた紙片。そこには短い言葉が記されている。
〈愛する妻へ〉
たったの五文字。しかし、その言葉がイルメリを泣かせた。その可能性を想像すると、俺の頭が重くなる。胸にドンヨリとした暗雲が立ち込める。
まさか、こんなことになろうとは。
今更ながら、「別の言葉にすれば良かった」と自責の念に駆られた。しかし、時すでに遅し。
俺は脳内で良い訳の言葉を考えながら、俺に抱き付いて泣きじゃくるイルメリの背中を擦り続けている。当然ながら、互いの仕事は放置されたままだ。
結局、午前中は仕事にならなかった。このままイルメリが泣き続けていたならば、俺達は明日の朝までしゃがみ込んで抱き合っていただろう。しかし、それは杞憂に終わっていた。
イルメリの背中を撫で続けている内、いつの間にか、俺の胸元から上がっていた地獄のような呻き声が収まっていた。その事実を直感した瞬間、俺は反射的に声を上げた。
「ひふめひ?」
我ながら奇妙な発音だ。それもそのはず、俺の口はイルメリの白銀の頭髪によって防がれている。
しかしながら、幾ら意味不明であろうとも、俺の声自体はイルメリの耳に届いている。そのはずだ。ところが、
「…………」
イルメリからの返事は無い。何故か? 俺は不思議に思って首を傾げようとした。尤も、今の俺の首はイルメリにガッチリ抑え込まれている。
俺は眉間に皺を寄せながら、もう一度声を掛けようと口を開き掛けた。その矢先、俺の胸元から微かな呼吸音が伝わってきた。
「すぅ……すぅ……」
イルメリの寝息。毎晩同衾している為、聞き違えるはずも無い。
どうやら、イルメリは泣き疲れて寝てしまったようだ。その事実を直感するや否や、俺はイルメリの体を抱えたまま立ち上がった。
こんなところで寝かせておく訳にはいかない。
俺はイルメリをお姫様抱っこしたまま執務室を出て、俺達の寝室へと向かった。




