第十八話 雪解け
ブルースターのネックレスを手に入れた。これを使って、何とかイルメリとの仲を修復する――切っ掛けを掴みたい。しかしながら、それを実行する為に、解決必須の難題が有った。
どうやってイルメリにネックレスを渡せば良いのだろう?
イルメリと顔を合わせる機会は、それなりに多い。しかし、俺が直接声を掛ける訳にはいかない。近付くことさえ難しい状況なのだ。だからこそ、プレゼントという搦手を用意している。しかしながら、「どこかに置いておけば良い」という訳にはいかないだろう。イルメリに渡せなければ意味は無い。
この問題について考えると、俺が取れる手段は大きく二つ。
他人に頼む。或いは、イルメリの視界に入るところに置く。
考え抜いた結果、俺は後者を選択した。
起床後、俺はイルメリより先に執務室に入った。念の為、中に誰もいないことを確認した。更に念を入れて、廊下側に誰もいないことを確認した。誰かがやってくる気配も無い。
今ならば、誰にも気付かれない。
俺は奇妙な後ろめたさを覚えながら、素早くイルメリの執務机に接近した。続け様に懐から細長い箱を取り出した。
青いリボンで丁寧にラッピングされた白地の箱。その中身は言わずもがな。
俺はネックレスケースを机上のど真ん中に置いた。その際、箱の上に小さな紙片を添えている。そこには短いメッセージを掻き込んである。その内容は、たったの五文字。
〈愛する妻へ〉
メッセージが視界に入った瞬間、俺の顔が焼けるほどに火照った。正直、ほんの少しだけ後悔の念を覚えている。
メッセージの内容に付いては、かなり悩んだ。無難に「日頃の感謝の気持ち」と書こうかとも考えた。しかし、俺は最終的にこちらを選んだ。
イルメリの気持ちを知るには、これが一番効果的だろう。
そもそもの話、俺はイェマに骨を埋めるつもりでやって来た。ここに来ると決めたときから、俺の全てをイルメリに捧げる覚悟は決まっている。しかし、その想いを伝えることには躊躇いを覚えてやまない。
イルメリに、その気がないなら迷惑でしかないからな。
俺は敢えて名前を書かなった。イルメリ自身に送り主のことを想像させたい。しかしながら、これを見たイルメリの反応を考えると、俺の頭が重くなった。
現状、俺はイルメリに避けられている。その事実を鑑みるほどに、最悪の可能性ばかりを想像してしまう。
箱毎捨てられるってことは――無いよな?
最悪の可能性を想起すると、俺の右手がネックレスケースに伸びた。それを懐に仕舞い込みたい衝動に駆られる。しかし、俺の右手は途中で止まった。
俺が怖気づいた際、脳内でプレゼントにかかわった人達の顔や言葉が次々閃いた。それら一つひとつを意識すると、頭の重みが軽減されていく。
皆の励ましに、俺も応えよう。
俺は「ふぅ」と大きく息を吐いた後、ネックレスケースをそのままに、自分の執務机に移動した。
暫くの間、俺は一人で仕事をしたり、本棚の資料を読んだりしていた。しかしながら、俺の意識はそちらに向いていない。何をやっていてもネックレスのことが頭から離れない。
最終的に、俺は革張りの執務椅子の背もたれを軋ませながら、何もせずに茫洋と虚空を見詰めていた。その最中、執務室のドアが押し開かれた。
イルメリが――来た。
俺の心臓がドクンと跳ねた。以降、ドクドクと激しく脈打ち続けている。それ亜也に苦しい。しかし、普段と違う態度は取れない。
俺はイルメリに怪しまれないよう、必死に平静を装った。
「おはよう」
俺は中に入ってきた人物に向かって挨拶しながら、そちらに視線を向けた。その直後、見慣れた姿が目に飛び込んだ。
後頭部で結い上げられた白銀の髪。見惚れるほどの美貌は、普段通りに氷像の如き冷淡な無表情。細い体にまとった衣装も、普段通り青い簡素な執務用のドレス。
見紛いようもない、イルメリだ。
執務室に余人の姿は無い。俺とイルメリの二人きり。室内も静かだ。俺の挨拶は、イルメリの耳にも届いていただろう。それでも、
「…………」
イルメリは無言。完全に俺を無視している。
イルメリは、俺の方を見ようともせず、真っすぐ自分の執務机の方へと歩いていく。俺の前を通り過ぎるときも、真っ直ぐ前を見詰めたままだ。このあからさまな反応を目の当たりにして、俺の胸が激しく軋んだ。
俺、イェマから出ていった方が良いのかな。
俺の目に涙が滲んだ。今直ぐネックレスケースを回収したい衝動に駆られた。しかし、時既に遅し。
イルメリは、俺の前を通り過ぎ、彼女の執務机の手前で――止まった。その際、彼女の視線は机上に向けられている。その反応の意味は、それを見た瞬間直感した。
イルメリがネックレス(ケース)を見た。
俺は必死に平静を装いながら、イルメリの様子を観察した。
視界に映った白銀髪の美女は、氷像そのものと化したかのように固まった。息すら止めているようだ。俺は最悪の可能性を想像して、声を掛けたい衝動に駆られた。
思わず椅子から腰を上げている。
その直後、俺の視界に映った氷像の首が回った。
「!」
俺は思わず息を呑んだ。腰を上げた状態で固まってしまった。中腰の状態を維持しながら、ジッとイルメリを見詰めている。
俺の視界に映ったイルメリは――真っ直ぐ俺の方を見ていた。その為、俺達の視線は思い切りかち合った。しかし、それだけだ。
「「…………」」
お互い無言で固まっていた。
何て言ったら良いものか? 俺の脳内に適当な言葉が閃かない。イルメリの方も言葉が無い。冷淡な無表情で俺を見詰めている。
暫くの間、俺達は無言で見詰め合った。声も音も無い。しかし、動きは有った。
イルメリの白い右手が机上に掲げられた。その人差し指が、机上の青いリボン付きの箱を指し示している。その行為を見て、俺は――何も言えなかった。未だ適当な言葉が閃かない。しかし、言葉は無くとも意思表示はできる。
俺は無言でコクリと頷いた。
俺の反応は、当然ながらイルメリの視界に映っている。彼女は俺から視線を外して、再び机上のネックレスケースを見た。それを暫く見詰めた後、再び顔を上げて俺を見た。
イルメリは、暫く俺と執務机の上を交互に見ていた。最終的に、彼女の視線は机上のネックレスケースに固定されている。その状態が一分ほど続いたところで、予想外の事態が起こった。
氷像が――壊れた。
イルメリの眉が「八」の字に歪んだ。それに併せて眉間に深い皺が刻まれていく。口は「へ」の字を経て、山形に歪んだ。それは、今まで見たことの無い表情だ。
「え?」
俺の顔に、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような表情が浮かんだ。その変調を意識した瞬間、俺の耳に聞いたことの無い声が飛び込んできた。
「うぅ……うぅぅ……」
地獄の底から響いてくるような、恨めしげな唸り声。それを耳にした瞬間、俺の背骨に氷柱を刺し貫かれたような悪寒が奔った。生きた心地が全くしない。生命の危機すら覚えた。
俺は、イルメリが怒る可能性を想像していた。しかし、俺の視界に映った光景は、俺の予想外の反応だった。
俺の視界に映ったイルメリの目から水滴が溢れた。
イルメリが――泣いた!?
イルメリは唸り声を上げながら泣いていた。こんな出来事は、ウガリット大学の頃を含めても一度も無い。当のイルメリも困惑している様子。しかし、彼女の涙は止まらない。その様子を見て、俺は――動けなかった。
ど、ど、ど、どうしよう?
俺は立ち上がったまま固まっていた。その最中、イルメリの体がガクンと崩れた。その様子を目の当たりにしたところで、漸く俺の体が動いた。
「イルメリっ!」
俺は声を上げながら、イルメリに走り寄った。続け様にしゃがみ込んで彼女の体を支えようとした。しかし、できなかった。
俺がイルメリに近付いたところで、イルメリの細い両腕が俺の首に伸びて――抱え込んだ。
「!?」
俺は思わず息を飲んだ。イルメリに首を絞められて殺される可能性を想像した。しかし、それは全くの杞憂だった。
イルメリは、俺に抱き付きながら俺の胸に顔を埋めた。その状態を堅持しながら、呻き声をあげて泣き続けた。その反応を目の当たりにして、俺は――
「よしよし」
イルメリを落ち着かせるべく、彼女の背中に回して優しく撫でた。それ以外、何もできない。
俺の脳内は、今も「?」で一杯だ。慰めの言葉など全く閃かない。
俺は、イルメリが泣き止むまで、「よしよし」と声を掛けながら彼女の背中を撫で続けていた。
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