第二話 氷の女王
イェマの女王イルメリ・イェマとエルス王国の第三王子マティス・エルス、即ち俺との婚姻は、たった一枚の紙きれで完了した。
互いに署名した婚姻誓約書を、両国の国教であるウガリ神教の教皇に提出して、それが受理された。只それだけ。
尤も、教会側としては「これで済ませたい」とは思っていない様子。
「是非、教会で盛大な結婚式を」
結婚式。互いの立場を鑑みれば、それなりに大規模なものになる。それなりに金も動く。場所を提供した教会にも、それなりにお布施を払うことになる。教会が強固に推奨したくなる気持ちも分かる。
しかし、受け入れるかどうかは当事者達が所属する王族次第。エルス王国の王マーエル・エルスはにべもなかった。
「マティスは婿入りした。イェマの王族となった。式のことはイェマに一任する」
父王はイェマに丸投げ、使者も送らないとのこと。この事実は、俺の心に暗い影を落としている。
しかしながら、必ずしも厄介払いされたという訳ではなかったようだ。この判断の裏には父王の親心が有った――かもしれない。
俺が国を出る際、父王は俺に激励と思える言葉を伝えていた。
「お前はイェマの人間として生きた方が幸せになれるだろう。この国のことは忘れて、イェマで幸せになるが良い」
父王は、俺がエルスに未練を残さぬよう、敢えて突き放した。そのように解釈しておこう。
別れ際、後ろをそっと盗み見した際、俺の視界に父王の目から涙が零れた様子が映っり込んだ。それが悲しみの感情由来ものか、別の感情由来のものかは、正直分からない。何れにせよ、父王の涙を見て俺は改めてイェマの人間として生きることを決意した。
かくして、俺の結婚式はイェマで執り行うことになった。そのはずだった。
ところが、当のイェマの方もまた、教会の期待に応えようとはしなかった。
「当面のところ結婚式は執り行わない」
結婚式の開催を保留、いや、もしかしたら拒否したのかもしれない。式が無いとなれば、余計な荷物も不要。
俺はお気持ち程度の結納品と僅かばかりの衣類を持って、イェマから来た使者の馬車に乗り込んだ。
俺と使者を乗せた青い馬車が街道を駆け抜けていく。
北方の小国イェマまでは早馬で二十日ほど。馬車となれば、それなりに時間がかかるだろう。その退屈な時間をキャビンの中で過ごさなければならない。
俺は体にまとった緑色の外套の袖を弄びながら、茫洋と外の景色を眺めていた。
このとき、俺は馬車の進行方向を向きながら、革張りの長椅子に腰掛けている。俺の対面の長椅子には、青いコートをまとった男性の姿が有った。
イェマの使者、シャム・ダンテ男爵。
ダンテ男爵の体躯は筋骨隆々。騎士と錯覚するほど逞しい。その偉丈夫然とした男が、巨躯を縮めて、申し訳なさげに声を上げた。
「私が口にすべきことではありませんが、本当に宜しかったのですか?」
ダンテ男爵の言葉に、俺は思わず苦笑した。
ダンテ男爵は、女王の使者にしてイェマの王族に仕える下級貴族。その立場で主君の婚姻に異を挟むことは、それなりに危険な行為だろう。それでも、俺の意思を確認したくなる理由が、彼らの女王には有った。
イルメリ・イェマ。俺と同い年で、もう直ぐ三十歳になる。しかし、これまで浮いた話は一つも無い。自国からも、他国からも、彼女を妻にと望む声は上がっていない。イルメリ自身も望んだことは無く、例え勧められても断っている。
唯一の例外が、今回の俺。その事実を鑑みると、俺の首は斜めに傾ぐ。
そもそも、イルメリとは如何なる女性なのか?
イルメリは、生まれたときからイェマの女王を宿命付けられていた。
イルメリの母はイェマの前女王イスタリア・イェマ。父は婿入りした南方クムラン王国第二王子ベリアン・クムラン。
イルメリが生まれて間もなく、虚弱体質であったクムランは病没している。イスタリアは彼に操を立て続けて、再婚することは無かった。その為、女王候補はイルメリ唯一人。
イルメリはイェマ全ての国民の期待を一身に受け、それに応えることを第一義として育てられている。その想いと彼女自身の努力が結実して、十代後半で世界最高峰の知識を収めた「ウガリット大学」に入学した。しかも、主席を争う好成績を残している。
因みに、ウガリット大学の「ウガリット」とは、この世界の名前でもある。序に言えば、俺達が住む陸地は「ウガリット大陸」という。
ウガリット大学は「創世の最初期から存在している」と言われる最古の教育機関であり、創世当初から現代にいたる情報を集めた「知の宝庫」でもあった。その為、入学希望者は存外に多い。
しかし、大学の規模は有限。入学できる者を選抜せざるを得ない。
要するに、入学できるだけでもかなり優秀。その頂点に立つ生徒は「ウガリット随一の天才」と呼ばれることになる。その事実を鑑みると、イルメリの優秀さが窺えるだろう。まあ、この話は彼女と主席を争った学生に対しても言えることだが。
大学卒業後、イルメリは母を支えるべく帰郷している。その直後、彼女の人生で最大の悲劇に見舞われた。
女王イスタリア、病没。実際のところ、これまでの心労が祟った過労死であった。この出来事は、イルメリの心に大きな影を落とした。
親孝行ができなかった。せめて、母の代わりに女王の役目を全うしたい。
イルメリは、イスタリアの跡を継いでイェマの女王となった。健気な彼女を支えたいと思う者は、存外に多い。しかし、彼女は頑なだった。
イルメリは生まれたときから女王と期待されていた。それに応える為に全てを費やしている。個人的な幸せは後回し。今更望むべくも無い。その想いは、彼女の態度に如実に表れていた。
冷淡、冷酷、無感情、無慈悲。
イルメリに対する世評に付いては、同門の徒であった俺も頻繁に耳にしている。当時の出来事を想起した瞬間、俺の口から当時耳にした呼称が零れ出た。
「氷の姫――っと」
氷の姫。学生の頃のイルメリの異名だ。言い得て妙と思わなくも無い。しかし、今となっては妥当ではない。
「今は『氷の女王』と呼ばれているのか」
俺の言葉に、ダンテ男爵はコクリと頷いた。
氷の女王。そう呼ばれる所以は、世間的には性格九割、容姿一割といったところ。前者に関しては、先に述べた通り。後者、容姿に関しては――イルメリは幻想的なまでの美形だった。
遠目でも目立つ天の川のような白銀の髪。それに覆われた顔は天才彫刻家の最高傑作と断言できるほど整っている。体形も、異性が心奪われるだけでなく、同性が憧れるほど。
しかしながら、積極的にイルメリにかかわろうとした者は殆どいない。どれだけ見た目が良くとも、恐怖の対象に近付きたいと思う者は存外に少ないのだ。その中に俺も含まれている。そのはずだった。ところが、
「マティス殿下は、我らが女王陛下のご学友――で、ございましたな」
ご学友。ダンテ男爵の言葉を聞いて、俺は苦笑した。
俺とイルメリはウガリット大学で顔を合わせている。何を隠そう、彼女と主席を争った学生は俺だ。
その為、俺はイルメリと比較されてばかりいた。彼女と顔を合わせる機会も、それなりに多い。その上、何故かイルメリの方から絡まれている。
当時の出来事を想起するほどに、俺の顔に浮かんだ苦笑が一層歪んだ。尤も、イルメリを知る人間にしてみれば、俺は例外中の例外だろう。
俺の記憶では、イルメリが自分から話し掛ける人間は――俺だけ。彼女に話し掛ける学生も、俺だけ。
最初に絡んだときは、どちらからだったか? 俺? イルメリ? 何れにせよ、最終的には顔を合わせる度に議論を戦わせるようになっている。
その際、イルメリの言葉は錐のように辛辣だ。殺意を覚えるほど攻撃的だ。尤も、それも例外中の例外と言える反応だろう。他の生徒に対しては無視、無言、或いは冷淡。
当時のイルメリの様子を想起すると、俺のことを憎んでいるとすら思う。そんな俺を、何故彼女は配偶者に選んだのか?
イルメリの真意を想像すると、俺の首は斜めに傾いだ。その反応の意味が、俺の口を衝いて出た。
「何故、イルメリ――女王陛下は、私を指名したのでしょうか?」
俺は真正直にイルメリの意図を尋ねた。すると、ダンテ男爵の厳めしい顔が、一層に申し訳なさげな渋面になった。その直後、「へ」の字に歪んだ口が僅かに開いて、
「その、マティス殿下が、その――」
ダンテ男爵は、俺に気を遣ってか、とても言い難そうに俺の疑問に対する回答を告げた。
「エルスで不遇であることを、我らの陛下はお気に病んでおられまして」
「!」
俺が兄王子達から疎まれている話はイェマにまで届いていた。尤も、イェマにとっては飽くまで他国の話。それなのに、
「まあ、陛下の言葉をお借りしますと、マティス様ほどの才能を埋もれさせるには惜しいとのことですが」
今回の婚姻は、イルメリとしては「飽くまで才能の利用」なのだとか。しかしながら、それを告げたダンテ男爵の表情は一層渋くなっていく。その顔を見ていると、「真意は違いますよ」と言われているように錯覚した。気になる。確かめたい気持ちも沸く。しかし、俺は彼を問い詰めなかった。
「まあ、陛下本人が、そうおっしゃるのなら」
イルメリの真意は、それなりに重要だろう。しかし、それが如何なるものであれ、俺には縁談を断る気は毛頭無い。
今回の件のお陰で、俺は兄王子達の魔の手から脱することができた。その事実こそが、今の俺にとっては何にも代えがたい幸運にして恩恵だ。尤も、イェマに行っても同じ目に遭わないとは限らない訳だが。
「鬼が出るか、蛇が出るか」
俺は独り言を漏らした後、顔を上げてキャビンの天井を見詰めた。そこに浮かんだ染みを数えながら、脳内で今後の展開、イェマでの生活に思いを馳せていた。
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