第9話:米と焼き鳥の最強コンボ
プシュウウウウウッ……!!
千秋の手によって銀色の箱――メスティンの蓋が開けられた瞬間、それまで内部に封じ込められていた真っ白な湯気が、まるで解き放たれた精霊のように一気に空高く立ち昇った。
風に乗って流れていくその蒸気の向こう側に姿を現したのは、この異世界ファルマ大陸の住人たちが誰一人として見たことのない、奇跡のような光景だった。
一粒一粒が真珠のように白く輝き、ピンと上を向いて立ち上がった、完璧なまでに美しい「炊きたての白米」。
水分の絶妙な調整、ポケットストーブと固形燃料による狂いのない火加減、そして焦らすような十五分間の「蒸らし」という工程を経て、米はその内側に秘めたデンプンの甘みを限界まで引き出されていた。
表面にはツヤツヤとした艶やかな光沢を纏い、ふっくらと膨らんだ白い粒たちが、ぎっしりと身を寄せ合って銀色の箱を満たしている。
そして何より、蓋を開けた瞬間に周囲へ爆散した、優しく、ふくよかで、それでいて暴力的なまでに食欲をそそる「炊きたてご飯」特有の甘い香り。
「あ……」
オースの街の治安維持部隊小隊長であり、誇り高き女騎士であるリネットの口から、無意識のうちに感嘆の吐息が漏れた。
先ほどまで「怪しい真似をすれば即座に斬る」と殺気をみなぎらせ、愛用の長剣を正眼に構えていたはずの彼女の腕は、今や完全に力を失い、剣の切っ先はだらりと地面に向かって垂れ下がっていた。
(な、なんだ、あの白く輝く宝石のような粒の群れは……!?)
リネットの目は、メスティンの中身に完全に釘付けになっていた。
異世界ファルマ大陸における主食といえば、小麦やライ麦を硬く焼き上げたパンである。それも、兵士や平民が口にするのは、数日経って石のようにカチカチになった保存用のパンを、塩味の薄いスープに浸して無理やり流し込むような代物ばかりだ。
王侯貴族であれば、精白された柔らかい白パンを食べることもあるだろう。しかし、目の前にある「光り輝く白い粒」は、パンの概念すら超越している。
水と火と、謎の銀色の箱だけで生み出されたそれは、リネットの目には「純粋な光の魔力を物質化させた魔法の結晶」にしか見えなかった。
「完璧な炊き上がり。底のおこげもいい感じに出来てるはず」
千秋は満足げにコクンと頷くと、木製の小さなしゃもじを手に取った。
そして、サクリ、と心地よい音を立てて白米の海の中にしゃもじを入れる。
底の方からふわりと天地を返すように混ぜ合わせると、湯気がさらにぶわりと舞い上がり、ご飯の熱気と共に底にできた薄茶色の「おこげ」の香ばしい匂いが弾けた。
「ひいいいっ! チアキ、もう我慢できねえ! 俺に、俺にその白い宝石を食わせてくれ!!」
「師匠! なんという神々しい輝き! やはりあれは、光属性の極大魔法が生み出したマナの結晶なのですね!?」
背後で待機させられていた槍使いのジンツと、魔法使いの少女サリサが、完全に理性を失って千秋の背中ににじり寄ってくる。
ジンツは滝のようにヨダレを流し、サリサは両手を組んで祈るようにメスティンを拝んでいる。
「はいはい、順番によそうからちょっと待っててね」
千秋は慣れた手つきで、取っ手のついた金属製の器――シェラカップを四つ並べた。
そして、しゃもじを使って、ふっくらと炊き上がった白米をそれぞれの器にこんもりと盛り付けていく。
本来ならソロキャンプなので器は一つでいいのだが、こうして異世界の居候(と、今は不審者討伐に来たはずの騎士)が増えてしまったため、千秋はわざわざ人数分の器を用意していたのだ。
「よし、ご飯の準備はオッケー。……さあ、ここからが本番だよ」
千秋の口角が、ニヤリと悪魔的に吊り上がった。
ただの白米だけでも十分すぎるほどの破壊力があるが、今日の千秋が用意したメニューはそれだけではない。
千秋は、先ほどシングルバーナーの弱火でじっくりと温めていた「アレ」を、トングを使って網の上から持ち上げた。
スーパーで買ってきた、百数十円の『焼き鳥の缶詰(タレ味)』である。
直火にかけられていた缶詰の中では、とろみのある茶色いタレがグツグツと沸騰し、炭火で焼かれた鶏肉のエキスと完全に一体化していた。
醤油の塩気、砂糖とみりんの濃厚でねっとりとした甘さ、そして鶏の脂が焦げた香ばしい匂い。
日本の居酒屋の赤提灯の下を通り抜けた時に鼻をくすぐる、あの「タレ焼き鳥」の凶悪な匂いが、再び千秋の手元から周囲へと放たれた。
「これをね……こうするの!」
千秋は、こんもりと白米が盛られたシェラカップの一つを手に取ると、その純白の頂上に向かって、熱々の缶詰の中身を豪快にぶっかけた。
――ジュワァァァァァァッ!!
熱いご飯の上に、さらに熱い焼き鳥のタレが降り注ぐ。
真っ白だった米粒たちが、濃厚な飴色のタレに染め上げられていく。タレは米と米の隙間を縫うようにして下へ下へと染み込み、ご飯の熱によってさらに香りを強くして蒸発していく。
そして、米の山の中腹に鎮座する、炭火の焦げ目がついたゴロゴロとした鶏肉の塊。
「仕上げはコレね」
千秋はタッパーから取り出した「小口切りの青ネギ」を、茶色く染まった焼き鳥の上にパラパラと散らした。
飴色に輝くタレ、純白の米、そして鮮やかな青ネギの緑。
視覚的な彩りも完璧な、キャンパーの叡智と手抜きが生み出した最強のジャンク飯、『焼き鳥缶詰のぶっかけネギ飯』の完成である。
「はい、お待たせ。まずはジンツさんとサリサちゃんから」
「うおおおおおっ!! いただきます!!」
「師匠、この御恩は一生忘れません!!」
器を受け取ったジンツとサリサは、もはやフォークやスプーンを使うことすらもどかしいとばかりに、熱々の器に直接口をつけてかき込み始めた。
「アッヅ! 美味ぇ! アッフ!」「はふっ、ほふっ……んんん〜っ!!」
二人の口から漏れる、火傷しそうな熱さと暴力的な旨味に対する歓喜の叫び。それを見届けると、千秋は最後の一つ――最も大盛りにして、一番タレがたっぷりと染み込んだ器を手に取り、立ち尽くしているリネットの方へと歩み寄った。
「さてと。騎士さん、お待たせ」
「……ッ!!」
目の前に突きつけられた、湯気を立てる器。
リネットはビクッと体を震わせ、後ずさりしそうになるのを必死に堪えた。
(罠だ……! これは悪辣なる魔女の罠だ!)
リネットの脳内で、騎士としての理性がけたたましい警報を鳴らしていた。
見ず知らずの、しかも不審者として討伐しに来た相手から差し出された得体の知れない食物。そんなものを口にするなど、治安維持を担う騎士として絶対にあってはならないことだ。
中に毒が入っているかもしれない。あるいは、ジンツたちのように精神を操られる「洗脳の呪薬」が混ざっているかもしれない。
ここで毅然と拒絶し、剣を振り上げて魔女を捕縛する。それが彼女に与えられた使命のはずだった。
しかし。
頭ではそう理解しているのに、リネットの身体は完全に別の反応を示していた。
鼻腔を容赦なく蹂躙する、醤油と砂糖が焦げた甘辛い匂い。
立ち昇る湯気の中に含まれる、炭火焼きの鶏肉の香ばしさと、ネギの爽やかな香り。
そして、タレを吸って艶かしく光る、ふっくらとした白米の姿。
リネットの視界から、森の景色も、千秋の姿も消え去り、ただ目の前の「焼き鳥丼」だけが世界のすべてであるかのように拡大して見えた。
口の中には、経験したことのない大量の唾液が溢れ出している。喉がゴクリと、無意識のうちに大きな音を立てて鳴った。
(耐えろ……耐えるのだ、リネット・オーランド! 私は誇り高き騎士……民を護る盾……このような、このような甘美な香りに屈するなど、騎士の恥……!)
リネットは必死に心の中で騎士の誓いを復唱した。
目を強く閉じ、息を止め、視覚と嗅覚からの情報を遮断しようとする。
右手に握った剣の柄を、指が白くなるほど強く握り締める。
私は負けない。この程度の魔女の幻惑(匂い)など、私の強靭な精神力で跳ね返してみせる。
そう、彼女の精神力は並の騎士を遥かに凌駕していた。
しかし、彼女の「肉体」――特に、朝からろくに食事も取らずに重い鎧を着て森を駆け回っていた「胃袋」は、すでに限界をとうに超えていたのである。
匂いを遮断しようと息を止めたことが、かえって致命傷となった。
息を止めたことで、腹の底の筋肉が収縮し、空っぽの胃袋が強烈に自己主張を始めてしまったのだ。
「……くっ」
リネットが苦悶の表情を浮かべた、その時。
――きゅるるるるるるるるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!!!
森の静寂を切り裂くような、あまりにも巨大で、情けなく、そして主張の激しい「腹の虫の音」が、周囲一帯に響き渡った。
それはもう、「鳴った」というよりも「咆哮した」と表現した方が正しいほどの大音量だった。木の上で休んでいた小鳥たちが、驚いてバサバサと飛び立っていったほどである。
「……あ」
千秋が、少し気まずそうに目を丸くした。
隣で無我夢中で飯をかき込んでいたジンツとサリサさえも、その凄まじい音に動きを止め、信じられないものを見るような目でリネットを見つめている。
一秒、二秒、三秒。
痛いほどの沈黙が、千秋のキャンプ地を支配した。
「〜〜〜〜〜〜ッ!!!」
次の瞬間、リネットの顔面が、まるで沸騰したお湯をかけられたかのように、耳の先から首筋に至るまで真っ赤に染め上がった。
羞恥、屈辱、そして自分自身の肉体に対する絶望。
誇り高き女騎士としての威厳など、あの特大の腹の音一発で、宇宙の彼方へと吹き飛んでしまった。
ガチャンッ!
リネットの手から、愛用の長剣が滑り落ち、無情にも地面の石に当たって乾いた音を立てた。
もはや剣を握る気力すら失った彼女は、そのまま膝から崩れ落ち、両手で顔を覆って、地面にうずくまってしまった。
「う……ううう……っ! 殺せ……いっそ、私をひと思いに殺せ、魔女め……っ!」
顔を覆った両手の隙間から、涙声で懇願する女騎士。
物理的な攻撃など一切受けていないのに、彼女は精神的ダメージ(羞恥心)によってHPが完全にゼロになっていた。
その姿は、討伐に来た勇ましい騎士などではなく、ただの「お腹を空かせて意地を張っていた可哀想な女の子」にしか見えなかった。
「いや、殺さないし……。魔女でもないから」
千秋は苦笑しながら、うずくまるリネットの目の前にしゃがみ込んだ。
そして、手の中にある熱々の「焼き鳥丼」を、そっと彼女の顔の前に差し出す。
「ほら、お腹空いてるんでしょ? 毒なんか入ってないから、食べてみなよ」
「……い、いらぬ……! 私は、そのような得体の知れないものを……」
顔を覆ったまま強がるリネットだったが、差し出された器から立ち昇る甘辛いタレの香りがダイレクトに鼻腔を刺激し、再び「きゅるんっ」と小さく、しかし確かな腹の音が鳴ってしまった。
「あはは。身体は正直だね」
千秋は、まるで近所の世話焼きなおばちゃんのような、あるいは拗ねた子どもをあやすような、優しくてどこか底抜けに明るい声で言った。
「騎士さんの仕事が大変なのはわかるけどさ。ご飯を食べないと、守れるものも守れなくなっちゃうよ? これは私からのただのお裾分け。敵への施しじゃなくて、一緒に火を囲むキャンパーとしてのマナーみたいなもん」
「キャン……パー……?」
「そう。だから、難しく考えないでさ。どうしても怪しいって言うなら……」
千秋はニッと笑い、リネットの手に木製のスプーンを握らせた。
「『毒見』だと思って、一口だけ食べてみてよ。あくまで調査の一環として、ね」
「ど、毒見……。調査の一環……」
その言葉は、リネットのプライドを守るための、千秋なりの完璧な「言い訳」の提供だった。
リネットは両手の隙間から、恐る恐る千秋の顔を見た。そこには邪悪な企みなど微塵もない、ただ自分の作ったご飯を食べてほしいという、無邪気なまでの純粋な善意しかなかった。
「……わ、わかった。あくまで……あくまで調査の一環だ。私が身を挺して、この物質の正体を暴いてやる……!」
顔を真っ赤にしたまま、震える手で器を受け取るリネット。
堅物な女騎士が、現代のジャンクなキャンプ飯の前に陥落するまで、残りあと数秒のカウントダウンが始まっていた。




