第10話:デレる騎士と食材調達ルートの確立
「……ど、毒見だ。あくまで調査の一環として、この怪しげな物質の正体を暴くために食べるだけだからな!」
静かな森の中に、震える声が響き渡った。
オースの街の治安維持を担う女騎士、リネット。彼女は今、千秋から手渡された木製のスプーンと、熱々の『焼き鳥缶詰のぶっかけネギ飯(通称:焼き鳥丼)』が盛られたシェラカップを両手に持ち、必死の形相で自分自身に言い訳をしていた。
顔は耳の先まで真っ赤に染まり、スプーンを握る手は微かにプルプルと震えている。
誇り高き騎士としての意地と、空っぽの胃袋が発する強烈な食欲。その二つの間で引き裂かれそうになりながらも、千秋が与えてくれた「調査の一環」という完璧な大義名分(逃げ道)に、リネットはついに縋り付いてしまったのである。
「うんうん、そうだね。しっかり毒見して、正体を暴いてね。熱いから気をつけて」
千秋はローチェアに腰を下ろし、まるでお遊戯会で頑張る我が子を見守るような、生温かい慈愛の目でリネットを見つめていた。
すでに自分の分の焼き鳥丼を秒速で平らげたジンツとサリサも、「隊長、早く食わねえと冷めちまうぞ!」「あの神の味を知らないなんて、人生の半分を損していますよ!」と外野から煽ってくる。
(くっ……こいつら、完全に魔女に洗脳されおって……! 私が、私がこの手で魔術の正体を暴いてみせる!)
リネットはギリッと奥歯を噛み締めると、木製のスプーンを器の中に突き立てた。
飴色のタレが染み込んだ純白の米と、炭火の焦げ目がついたゴロゴロとした鶏肉の塊。そして、鮮やかな緑色の青ネギ。
それらをバランスよくスプーンに乗せると、リネットは大きく深呼吸をし、意を決して口へと運んだ。
――パクッ。
その瞬間、リネットの世界から「音」が消え去った。
風の音も、鳥の声も、ジンツたちの騒がしい声も、すべてが遠くへ追いやられ、ただ口の中から脳髄へと直接突き抜ける「圧倒的な情報量」だけが、彼女の全存在を支配した。
まず襲いかかってきたのは、タレの「甘辛さ」だった。
日本の食品メーカーが英知を結集し、醤油、砂糖、みりんを完璧な黄金比でブレンドして作り上げた、とろみのある濃厚な甘辛ダレ。異世界の単調な塩味しか知らないリネットの舌にとって、それはもはや暴力と言っていいほどの複雑で奥深い旨味の奔流だった。
次に、鶏肉の弾力。
缶詰の中でじっくりと煮込まれ、味が芯まで染み込んでいるにもかかわらず、肉の繊維はしっかりと歯ごたえを残している。噛むたびに溢れ出す鶏の脂と、炭火で炙られた香ばしい風味が、鼻腔を突き抜けていく。
そして、何よりもリネットを驚愕させたのは、それらすべての強烈な味を受け止めている「白い宝石」――ふっくらと炊き上がった『白米』の存在だった。
一粒一粒がしっかりと自立し、噛みしめるほどに優しいデンプンの甘みが口の中に広がる。タレの濃い味を白米が中和し、逆に白米の甘さがタレの旨味をさらに引き立てる。無限に続く味覚の永久機関。
さらに、時折シャキッとした食感とともに現れる青ネギの清涼感が、口の中をさっぱりとリセットし、「もう一口」へと強制的に誘導していく。
「あ……ぁ……」
リネットの口から、もはや言語とも呼べない吐息が漏れた。
なんだ、これは。
これが、食べ物なのか? 私が今まで食べてきた、あの硬いパンや味の薄いスープは、一体なんだったというのだ。
騎士としての誇り? 魔女への警戒? 毒見?
そんなちっぽけな理性は、この焼き鳥丼という名の「神の食べ物」の前に、たった一口で完全に粉砕されてしまった。
カチャッ、カチャカチャッ!
気がつけば、リネットの右腕は彼女自身の意志とは無関係に、高速で動き始めていた。
スプーンでご飯と肉を掬い、口に放り込み、咀嚼し、飲み込む。その一連の動作が、一切の無駄を省いた完璧なループとなって繰り返される。
「んむっ! はふっ、くぁっ……!」
言葉にならないうめき声を上げながら、リネットはただひたすらに器の中身をかき込んだ。タレが口の端につくのも構わず、髪が乱れるのも気にせず、まるで何日も餓えていた野生動物のように。
底の方に隠れていた「おこげ」のパリッとした食感と香ばしさに当たった瞬間には、あまりの美味さに無意識のうちに涙がボロボロとこぼれ落ちた。美味すぎて泣く、という経験を、彼女は人生で初めて味わっていた。
「隊長……すげえ食いっぷりだ……」
「騎士様が、まるで餓鬼道に落ちた亡者のように……」
「こらこら、二人とも静かに。ご飯に集中させてあげなよ」
呆気にとられるジンツとサリサをたしなめながら、千秋は自分の分のコーヒーをゆっくりとすすった。
千秋にはわかっていた。どんなに気丈に振る舞っていても、美味しいご飯の前では人間は無力だ。特に、現代のジャンクで計算し尽くされた味付けは、異世界人の舌には劇薬に近い。一度この味を知ってしまえば、もう二度と元の質素な食生活には戻れないのだ。
カチッ……カチャカチャ、カチャッ。
金属の器の底を、スプーンが必死に擦る音が響く。
リネットは最後の一粒、タレの一滴までをも残さず掬い取り、口に含んだ。
そして、ゴクリ、と力強く喉を鳴らして飲み込むと。
「ぷはぁっ……!!」
大きく息を吐き出し、空になったシェラカップを両手で持ったまま、その場にへたり込んでしまった。
放心状態である。
彼女の脳内は、圧倒的な満足感と幸福感、そして血糖値の急上昇による心地よい気怠さに満たされていた。胃袋の底から、ポカポカとした熱が全身に広がっていくのを感じる。
「……ごちそうさま。お粗末さまでした」
千秋が優しく声をかけると、リネットはビクッと肩を揺らし、ハッと我に返った。
そして、自分が握りしめている空っぽの器と、口の周りについたタレの感覚、そして「美味すぎて涙を流しながら一心不乱に飯をかき込んでいた」という事実を、冷静な脳の処理回路が認識し始めた。
「あ……あ、ああ……っ」
リネットの顔が、先ほどよりもさらに深い、熟れたトマトのような赤色に染め上がった。
やってしまった。
あろうことか、討伐対象である不審者から差し出された飯を、獣のように貪り食ってしまった。しかも、最後は一滴のタレすら惜しむように器を舐め回さんばかりの勢いで。
騎士としての威厳は完全に地に堕ちた。もしこの光景を騎士団の部下たちに見られていたら、即日辞表を提出して修道院に引きこもるレベルの失態である。
「食後のコーヒー、飲む? 少し落ち着くよ」
千秋はそんなリネットの内心の葛藤など気にも留めず、新しいマグカップにブラックコーヒーを注いで差し出した。
リネットは震える手でそれを受け取ると、両手で包み込むようにして口元へ運んだ。
ズズッ、と一口すする。
焼き鳥の甘辛いタレで満たされていた口の中を、コーヒーの深い苦味と焙煎の香りが、さっぱりと、そして優しく洗い流していく。食後のこの一杯が、いかに完璧な計算の上に成り立っているかを、リネットの身体が本能で理解した。
「……どう? 毒見の結果は。私の怪しい魔法の正体、わかった?」
千秋が悪戯っぽく尋ねると、リネットはうつむいたまま、マグカップを持った手をギュッと強く握りしめた。
そして、深く深く、諦めのようなため息を吐き出した。
「……私の、負けだ」
ポツリと、か細い声が森に落ちた。
それは、誇り高き騎士が、ただの「キャンパーの作る飯」に完全に敗北を認めた瞬間だった。
「どのような魔法を使ったのか、私には理解できない。あの白い宝石(白米)も、あの芳醇で甘美な香りを放つ肉も、この黒くて苦い薬湯も……私の知る常識の、遥か外側にあるものだった」
「魔法じゃないんだけどなぁ……まあ、いいや」
「ジンツやサリサが、貴様に心酔する理由が……嫌というほどわかってしまった。あんなものを知ってしまえば、もう騎士団の兵舎で出る塩茹での豆など、豚の餌にしか思えなくなる……」
リネットは自嘲気味に笑いながら、地面に落ちていた愛用の長剣を拾い上げた。
しかし、その顔に先ほどまでの殺気や敵意は微塵も残っていなかった。完全に毒気を抜かれ、ただ「美味しいご飯を食べて満足した一人の女性」の顔になっていた。
「チアキ……と言ったな。貴様が邪悪な魔女ではないこと、そしてこの森に危害を加えるつもりがないことは、私の騎士としての『勘』と、この『胃袋』が保証しよう」
「それはどうも。わかってもらえてよかったよ」
「だが……!」
リネットはバッと顔を上げ、千秋を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、かつてないほど真剣な光が宿っている。
「私だけがこのような思いをするのは、あまりにも不公平だ! それに、治安維持を担う者として、貴様が森で勝手な行動を起こさないよう、定期的に『監視』を続ける必要がある!」
「えっ、監視?」
「そうだ! 決して、あの美味い飯をもう一度食べたいからなどという不純な理由ではない! あくまで任務として、毎週末、私がこの場所に通って貴様の動向をチェックさせてもらう!」
リネットはビシッと指を突きつけ、顔を真っ赤にしながら言い放った。
それはどう聞いても、「来週もご飯を食べに来る口実」でしかなかったが、千秋は持ち前の図太さで「ふーん」と軽く受け流した。
「別にいいけど。でも、私だって毎回お肉やご飯をタダで振る舞えるわけじゃないからね。ジンツさんは薪割り、サリサちゃんは洗い物っていう労働をしてくれてるからご飯をあげてるの。騎士さんは、私に何をしてくれるの?」
「うっ……! そ、それは……」
痛いところを突かれ、リネットは言葉に詰まった。
騎士である彼女に、薪割りや洗い物といった雑用をさせるわけにはいかないだろうというプライドが邪魔をする。しかし、このままではあの「神の飯」にありつけない。
少し考え込んだ後、リネットはハッとして顔を上げた。
「……食材だ。私が、地元の新鮮な食材を持参しよう!」
「食材?」
「ああ。オースの街の市場には、近隣の農村から採れたての野菜や、狩人が仕留めた新鮮な魔獣の肉(食用)が集まる。騎士団のコネクションを使えば、質の良いものを手に入れることができる。それを私が持参するから……貴様のその、不思議な道具と技術で、美味しく調理してはくれないか?」
リネットの提案を聞いた瞬間、千秋の脳内で「キャンパーとしての打算」が高速で弾き出された。
千秋はいつも、日本のスーパーで食材を買い込んで異世界へ持ち込んでいる。しかし、それはあくまで「日本の味」であり、せっかく異世界に来ているのにファンタジーな食材を楽しめないのは、少しもったいないと思っていたのだ。
かといって、自分で森の中で狩猟をしたり、見知らぬ街へ行って買い物をしたりするのは面倒くさい(言葉は通じても、通貨の問題などがあるため)。
(……つまり、この騎士さんが、毎週新鮮な『異世界産の食材』をデリバリーしてくれるってこと? 私はそれを好きに料理して、みんなで食べるだけ。……えっ、最高じゃない?)
千秋の口元が、再び悪魔的にニヤリと吊り上がった。
「……いいよ。交渉成立。騎士さんが美味しいお肉や野菜を持ってきてくれるなら、私はそれを最高に美味しく料理してあげる」
「ほ、本当か!? やった……! あ、いや、コホン。あくまで監視業務の一環としての正当な取引だからな、勘違いするなよ!」
リネットは嬉しさを隠しきれない様子で咳払いし、無理やり威厳を保とうと目を逸らしながらデレた。
完全にチョロい。この女騎士、驚くほどチョロい。
「それじゃあ、改めてよろしくね、リネットさん。私は千秋。しがない事務職OL……じゃなくて、キャンパーだよ」
「ああ、よろしく頼む、チアキ。……次からは、私もエプロンくらいは持参した方がいいだろうか」
すっかり毒気を抜かれ、すり寄ってくる女騎士。
その様子を見ていたジンツとサリサが、「これで俺たちの飯の量が増えるぜ!」「さすが師匠、騎士団の隊長さえも一撃で陥落させるとは……!」と謎の感動に包まれていた。
こうして。
異世界の森に迷い込んだ週末ソロキャンパーの千秋は、労働力である「薪割り担当の槍使い」と「洗い物担当の魔法使い」に加え、新たに「新鮮な異世界食材を調達してくる女騎士」という、極めて強力なコネクション(飲み友達)をゲットしたのである。
彼らの胃袋を完全に掌握したことで、千秋の「誰にも邪魔されない、かつ、面倒な作業はすべて自動化された最高の異世界キャンプライフ」の基盤は、盤石なものとして完成を見たのだった。
「さてと。来週はリネットさんが持ってくる食材で、何を作ろうかなぁ……」
日曜日の夕暮れ。
いつものようにランタンのオイルが尽きかけるのを見計らい、撤収作業を終えた千秋は、アパートの勝手口の扉を開けながら楽しげに呟いた。
異世界にやってきた当初の「一人で静かに過ごしたい」という目的からは少しズレてしまったかもしれない。しかし、焚き火を囲んで美味しいご飯を食べ、笑顔になる(あるいは感動のあまり号泣する)彼らの姿を見るのは、案外悪くないものだ。
ガチャリ。
重い鉄扉を閉め、現実世界の薄暗いアパートの部屋に戻ってきた千秋。
明日からはまた、地獄の月曜日が始まる。満員電車に揺られ、理不尽な仕事に追われる日々。
しかし、今の千秋の心には、確かな「拠り所」があった。
週末になれば、あの森の扉が開く。そこには、美味しいご飯と焚き火と、自分の料理を心待ちにしているちょっと変わった友人たちがいるのだから。
(よし、今週も仕事頑張って……週末は最高のキャンプにするぞ!)
千秋はクーラーボックスを片付けながら、次の週末に向けて力強く拳を握りしめた。
彼女の異世界ソロキャンライフ第一章は、最高の笑顔と空っぽの胃袋と共に、幕を閉じたのだった。




