第7話:不審者(キャンパー)討伐指令
異世界ファルマ大陸の辺境にある街、オース。
この街の治安維持を担う領主直属の騎士団において、ひとつの不穏な噂がまことしやかに囁かれ始めていた。
「おい、聞いたか? 最近、魔の森の奥深くに『得体の知れない魔女』が住み着いたらしいぞ」
「ああ、冒険者ギルドで槍使いのジンツが吹聴して回っている話だろう? なんでも、魔法の粉を使って『神の肉』を生み出すとか」
「それだけじゃない。魔法学院の落ちこぼれだったサリサという小娘が、その魔女に弟子入りしたらしいんだが……学院の教師に向かって『あなた方の魔法は時代遅れです。私の師匠は、マグネシウムという失われた古代語を用いて無詠唱で炎を生み出します』と豪語したそうだ」
「無詠唱だと!? 馬鹿な、そんな大魔女が存在するわけが……」
「おまけに、スライムの幼生を鉄の拷問器具で平たく潰して食らっているという目撃情報もある。恐ろしい邪法を使う魔女に違いないぞ」
騎士団の詰め所で交わされる兵士たちのひそひそ話を、部屋の奥から鋭い眼光で睨みつけている女性がいた。
オースの街の治安維持部隊の小隊長を務める女騎士、リネットである。
プラチナブロンドの髪を後ろで厳格にまとめ上げ、磨き上げられた銀の胸当て(ブレストアーマー)を身に纏った彼女は、騎士団の中でも一、二を争うほどの剣の腕前を持つ実力者だった。同時に、曲がったことが大嫌いな「超」がつくほどの生真面目な性格でも知られている。
「……静粛にしろ。お前たち、暇を持て余して根も葉もない噂話に興じているのか?」
リネットが凛とした声で一喝すると、兵士たちはビクッと肩を揺らして直立不動の姿勢をとった。
「も、申し訳ありません、リネット隊長! しかし、噂が広まりすぎて、街の住人たちも不安がっておりまして……」
「ふむ。確かに、火のない所に煙は立たないと言うからな。それに、ジンツといえば素行は悪いが腕は立つ冒険者だ。その男が骨抜きにされているとなれば、放置するわけにはいかない」
リネットは腕を組み、眉間に深い皺を寄せた。
魔の森は、凶悪な魔獣が跋扈する危険地帯だ。そんな場所に一人で拠点を構え、古代魔法を操り、スライムを食らう謎の魔女。どう考えても、街の平和を脅かす存在にしか思えなかった。
もしその魔女が、森の魔獣たちを操って街を襲撃するような真似を企てているとしたら……。
「……私が直接、森へ赴いて調査してこよう」
「た、隊長が自ら!? しかし、相手は得体の知れない大魔女かもしれないのですよ!?」
「だからこそだ。素人を行かせて被害が拡大しては遅い。私が魔女の正体を見極め、邪悪な企みがあるようならば、この剣で直ちに討ち果たす!」
正義感に燃えるリネットは、愛用の長剣を腰に帯びると、制止する部下たちを振り切って単身で魔の森へと出撃していった。
* * *
同じ頃、噂の中心となっている『魔の森の奥深く』にて。
千秋は、愛用の折りたたみローチェアに深く腰掛け、大きく伸びをしていた。
「あー、今週もいい天気! 絶好のキャンプ日和だね!」
千秋の異世界ソロキャンライフも、あっという間に三週目の週末を迎えていた。
金曜日の夜にアパートの勝手口を開けてこちら側にやってくるというルーティンにもすっかり慣れ、今では手際よくワンポールテントを設営し、快適な居住空間を作り上げることに何の迷いもなくなっていた。
そして今週も、千秋のキャンプ地には「居候」たちが入り浸っている。
「師匠! 今日の分の食器、水魔法でピカピカに洗い上げておきました!」
「チアキ! 東の森で倒れてた枯れ木を解体して、最高に燃えやすい薪をどっさり持ってきたぜ!」
魔法使いの少女サリサと、槍使いの青年ジンツである。
すっかり千秋の(料理の)虜となってしまった二人は、週末になるとどこからともなく結界内に現れ、千秋のキャンプの雑用を率先してこなす忠実な下僕……もとい、便利なサポートメンバーと化していた。
「二人とも、ありがとう。おかげで私、今週はずっと座りっぱなしだよ」
千秋はアイスコーヒーが入ったチタン製のマグカップを傾けながら、ふふっと笑った。
面倒な水汲みも、食器洗いも、薪割りも、すべて彼らがやってくれる。千秋がやるべきことは、ただ自分の好きな料理を作り、彼らに少しお裾分けしてやることだけだ。この「労働力と飯の等価交換」は、週末をのんびり過ごしたい千秋にとって理想的な環境だった。
「さてと。そろそろお昼ご飯の準備に取り掛かろうかな」
千秋が立ち上がると、ジンツとサリサの目がパァァッと輝いた。
尻尾を振る大型犬と、餌を待つ小鳥のような視線を感じながら、千秋は愛用のコンテナボックスから本日のメイン調理器具を取り出した。
それは、長方形のアルミ製の弁当箱のような形をした銀色の箱。
キャンパーたちの間では神器とさえ呼ばれる万能クッカー、『メスティン』である。
元々はスウェーデンの飯盒なのだが、その熱伝導率の良さと使い勝手の良さから、日本のキャンプシーンにおいて爆発的な人気を誇っているアイテムだ。
「今日はね、ついにアレを解禁しようと思うの」
「アレ、とは……? 師匠、また新たな古代魔法の儀式ですか!?」
「だから魔法じゃないってば。……今日はね、ズバリ『お米』だよ!」
千秋はスーパーで買ってきた「無洗米」の小さな袋を取り出した。
キャンプで米を炊くのは、少しだけ手間がかかる。しかし、大自然の中で食べる炊きたての白米の美味さは、その手間を補って余りあるほどの価値があるのだ。
「オコメ……? チアキ、それはなんだ。鳥の餌か何かか?」
「鳥の餌って失礼な。これはね、ふっくら炊き上げると最高に美味しい主食になるの。まあ、出来上がるまでのお楽しみってことで」
千秋はメスティンの中に無洗米を一合分ザラザラと流し込み、サリサが魔法で出してくれた綺麗な水を注ぎ入れた。内側にあるポッチ(リベット)の半分くらいまで水を入れるのが、一合炊きの黄金比である。
「ここからが一番重要なんだけど……このまま最低でも三十分、できれば一時間くらい、しっかりとお米に水を吸わせるの。これをサボると、芯が残って美味しくないご飯になっちゃうからね」
千秋はメスティンに蓋をして、アルミテーブルの端にそっと置いた。
米を水に浸しているこの静かな待ち時間も、千秋にとってはキャンプの醍醐味の一つだった。風の音を聞き、鳥のさえずりに耳を傾けながら、ただぼんやりと時間が過ぎるのを待つ。日常の喧騒では絶対に味わえない、究極の贅沢である。
三十分後。
しっかりと水を吸って白っぽくなったお米を確認した千秋は、いよいよ炊飯の工程に入った。
ここで取り出したのは、焚き火台ではなく、手のひらサイズのコンパクトな折りたたみ式ストーブ(ポケットストーブ)と、水色の丸い固形燃料である。
「師匠、それは……? 氷の結晶のように見えますが……」
「これは固形燃料って言って、火をつけると一定の火力で燃え続けてくれる便利なアイテムなの。これを使えば、『ほったらかし炊飯』ができるんだよ」
千秋はポケットストーブの上に固形燃料を一つ置き、ファイヤースターターではなく、手軽なガストーチ(ライターのようなもの)でカチッと火をつけた。
青白い炎が静かに立ち上がる。その上に、先ほどのメスティンを乗せる。
この「百均でも買える固形燃料一つが燃え尽きるまでの時間」が、ちょうどメスティンで一合の米を炊き上げるのに必要な加熱時間と完全に一致しているのだ。火加減を調節する必要もなく、火が消えるまで完全に放置しておけば、誰でも絶対に失敗せずに完璧なご飯が炊ける。
まさに、現代キャンプギアが生み出した叡智の結晶である。
「よし、これで火が消えるまで放置ね。その間に、おかずの準備もしちゃおうか」
千秋がシングルバーナーを取り出し、別の調理の準備を始めようとした、まさにその時だった。
――ガサガサガサッ!!
「……!」
千秋のキャンプ地の周囲を覆っていた茂みが、激しい音を立てて揺れた。
いつもなら、魔獣避けの結界が張られているため、森の動物たちが近づいてくることはない。ジンツやサリサのように「敵意を持たずに迷い込んできた者」以外は、この空間を認識することすらできないはずなのだ。
しかし、茂みを掻き分けて現れたその人物からは、隠しきれないほどの強烈な「殺気」と「敵意」が放たれていた。
「そこまでだ、邪悪なる魔女よ!!」
凛とした、しかし怒気に満ちた鋭い声が森に響き渡る。
茂みから飛び出してきたのは、全身を白銀の鎧で包み、腰から抜いた鋭い長剣を正眼に構えた美しい女騎士――リネットだった。
彼女は結界の力に一瞬惑わされそうになったものの、持ち前の強靭な精神力と「悪を討つ」という確固たる正義感によって、認識阻害の壁を無理やり突破してきたのである。
「リ、リネット隊長!? なんでこんな所に!?」
女騎士の顔を見た瞬間、ジンツが素っ頓狂な声を上げた。
街の冒険者であるジンツにとって、治安維持のトップであるリネットは逆らえない相手である。
「ジンツ! それに魔法学院のサリサまで……! やはり噂は本当だったか。お前たち、その魔女に洗脳されているのだろう! 安心しろ、今すぐ私がその呪いを解いてやる!」
「せ、洗脳!? 違います、私は自らの意志で師匠に……!」
「黙れ! それこそが洗脳されている証拠だ!」
リネットはサリサの言葉を全く聞き入れず、剣の切っ先をビシッと千秋に向けた。
「貴様が噂の魔女だな! このような森の奥深くに異様な建造物を建て、若者たちをたぶらかし、一体何を企んでいる! ここで何をしているのか、目的を言え!」
厳しい表情で、今にも斬りかかってきそうな勢いのリネット。
普通なら、本物の剣を突きつけられれば悲鳴を上げて逃げ惑うところだろう。
しかし。
千秋の反応は、リネットの予想を遥かに、そして致命的に裏切るものだった。
「……あ、ちょっと待ってね」
千秋は、剣を突きつけられているというのに、全く動じる様子がなかった。
それどころか、彼女の視線はリネットではなく、手元のアルミテーブルの上に置かれた銀色の箱――固形燃料の火に炙られている『メスティン』に完全に釘付けになっていた。
シューーーーーッ……。
チリチリチリチリ……。
メスティンの蓋の隙間から、勢いよく白い蒸気が噴き出している。
そして、中からは水分が飛び、お米が炊き上がる直前の『チリチリ』という微かな音が聞こえ始めていた。
「よし、火が消えた。ここからが一番大事なところだから……!」
千秋は耐熱グローブをはめると、リネットの存在を完全に無視してメスティンを素早く持ち上げた。
そして、持参していた厚手のタオルでメスティンをぐるぐると包み込み、そのまま天地をひっくり返して(裏返して)テーブルの上にコトリと置いたのだ。
「え……?」
殺気をみなぎらせていたリネットは、千秋のあまりにも日常的すぎる、そして意味不明な行動に完全に虚を突かれ、剣を構えたままポカンと口を開けてしまった。
「よし、これで蒸らしに入るよ」
「な、何を……」
「ご飯をひっくり返して蒸らすことで、底にくっついた水分が全体に回って、ふっくらツヤツヤに仕上がるの! これがメスティン炊飯の極意なんだから!」
千秋はタオルに包まれたメスティンを愛おしそうにポンポンと叩くと、ようやくリネットの方へと顔を向けた。
「ええと、騎士さんだっけ? ごめんね、お米炊いてる時は本当に目が離せないの。お話なら聞くから……とりあえず、あと十五分待って!」
剣を突きつける完全武装の騎士に対し、ただの事務職OLが放った「十五分待て」という指示。
あまりにもマイペースすぎる千秋の態度と、そこに微塵も存在しない殺気に、リネットのペースは完全に乱されてしまった。
「じゅ、十五分……待て、だと……?」
「うん! 十五分蒸らしたら最高のご飯が炊けるから! それまで剣しまって、そこの空いてる椅子にでも座っててよ」
「なっ……私を愚弄する気か、魔女め!」
リネットが怒りに顔を赤くして一歩踏み出そうとした瞬間。
タオルに包まれたメスティンの隙間から、ふわりと、この異世界には存在しない、甘く芳醇な香りが漂ってきた。
「……っ!?」
それは、炊きたての白米が放つ、デンプンの甘い香り。
日本人のDNAに深く刻み込まれたその匂いは、異世界人のリネットの鼻腔をも容赦なくくすぐり、彼女の胃袋を強制的に刺激し始めたのだ。
堅物騎士と、生粋のキャンパー。
異世界の常識が、現代の『炊きたてご飯』の前に崩れ去ろうとしていた。




