第6話:カリッ、ジュワッ、そして陥落
静寂に包まれた異世界の森に、ただならぬ緊張感が漂っていた。
千秋の張ったテントの前、パチパチと心地よい音を立てて燃える焚き火の中心で、無骨な黒い鉄の塊――ホットサンドメーカーが、暴力的とも言えるほどの熱気と匂いを放っている。
ごま油が熱せられ、小麦粉が焦げる香ばしい匂い。そして、鉄板の隙間から漏れ出す、豚肉と玉ねぎが渾然一体となった濃厚な中華ダシの湯気。
「さて、拷問器具でペシャンコにした白いスライム、どうなってるか見てみようか」
千秋は悪戯っぽく笑いながら、耐熱グローブをはめた手でホットサンドメーカーの取っ手についたロック金具に指をかけた。
カチャリ。
その小さな金属音が、サリサとジンツにとってはまるで処刑の合図か、あるいは天国への扉が開く音のように響いた。
千秋がゆっくりと、ホットサンドメーカーの上半分の鉄板を持ち上げる。
――プシュウウウウウッ!!
閉じ込められていた熱気と蒸気が、一気に外の世界へと解放された。
立ち昇る真っ白な湯気の向こう側から姿を現したのは、サリサが想像していた「無惨にすり潰されたスライムの死骸」などでは決してなかった。
そこにあったのは、見事なまでに美しい「キツネ色の円盤」だった。
元々はふっくらと丸かった白い肉まんが、分厚い鉄板に挟まれてプレスされたことで、厚さ一センチほどの平べったい形に変貌している。しかし、その表面はごま油の力によってこんがりと揚げ焼きにされ、中心にはホットサンドメーカー特有の斜めの焼き目が、まるで紋章のようにくっきりと刻み込まれていた。
鉄板に触れていた皮の部分が、チリチリと微かに音を立て、今この瞬間も極上のサクサク感を自己主張している。
「は、あ……っ」
サリサは目を大きく見開き、その黄金色に輝く物体から目を離せなくなった。
視覚情報もさることながら、嗅覚へのダメージが桁違いだった。異世界ファルマ大陸の料理は、基本的に塩漬け肉を煮込むか、野菜をそのまま焼くといった素朴なものばかりだ。
醤油、オイスターソース、ごま油といった、現代日本のアジア系調味料が放つ『複雑で濃厚な旨味の香り』など、彼女の脳の辞書には存在しない。未知の香りが脳髄を直接揺さぶり、理性を容赦なく吹き飛ばしていく。
「チ、チアキ!! もういいだろ!? 早く食わせてくれ!! 俺の胃袋が暴れて破裂しそうだ!!」
たまらずジンツが身を乗り出し、ヨダレを撒き散らしながら絶叫した。
千秋は「はいはい、うるさいなぁ」と苦笑しながら、ホットサンドメーカーから取り出した熱々の『焼き肉まん』を、木製のカッティングボードの上に置いた。
そして、愛用のアウトドアナイフを取り出し、円盤状の焼き肉まんを十文字に四等分する。
――ザクッ、サクゥッ!
ナイフが入った瞬間、表面の皮が小気味よく割れる音がした。
そして断面からは、閉じ込められていた熱々の肉汁と、細かく刻まれた豚肉、玉ねぎ、タケノコなどが混ざり合った『肉餡』が、とろりと顔を出す。
千秋はそれを二つのシェラカップに取り分け、ジンツとサリサの前にスッと差し出した。
「はい、お待たせ。焼き肉まん。めちゃくちゃ熱いから、火傷しないように気をつけてね」
「うおおおおっ!! いただきます!!」
ジンツは礼を言うなり、フォークも使わずに素手で熱々のひとかけらを掴み、そのまま大きな口の中へ放り込んだ。
「アッヅ! アッフ、ホフッ! う、美味ぇぇぇぇっ!!」と奇声を上げながら、ハフハフと息を吐き出し、口の中を火傷しながらも秒速で飲み込んでいく。
一方、サリサは渡されたシェラカップを両手で包み込むように持ち、震える瞳で中身を見つめていた。
先ほどまで怯えていた「スライム」の姿はどこにもない。あるのは、食欲という人間の根源的な本能を直接殴りつけてくる、暴力的なまでに美味そうな塊だ。
サリサはゴクリと唾を飲み込むと、千秋から渡された小さなフォークを使い、四分の一にカットされた焼き肉まんの一切れを、恐る恐る口元へと運んだ。
熱い蒸気が顔に当たり、ごま油の香りが鼻腔をくすぐる。
「……っ」
意を決して、サリサは小さな口を開け、その縁をそっと噛みちぎった。
サクッ。
その瞬間、サリサの脳内に雷鳴が轟いた。
まず歯に伝わってきたのは、ごま油でこんがりと焼き上げられた皮の、驚くほど軽快な「サクサク」という食感。それは異世界の硬いパンの食感とは全く違う、繊細で心地よい歯ごたえだった。
そして、そのサクサクの層を突破した直後、すぐ下にある「蒸された皮」のモッチリとした甘みが舌を包み込む。
だが、本当の衝撃はその次にやってきた。
ジュワァァァァァァァッ……!!
プレスされたことで極限まで密度を高めていた肉餡から、熱々の肉汁が一気に溢れ出したのだ。
豚肉の強烈な旨味、玉ねぎの自然な甘さ、そしてタケノコのシャキシャキとした食感。それらを一つにまとめている、醤油と中華スープベースの濃厚な味付けが、サリサの味蕾を容赦なく蹂躙していく。
「あ……ぁ……」
サリサはフォークを持ったまま、完全に動きを止めた。
目が大きく見開かれ、黒目がうつろに上を向いている。文字通り、白目を剥きかけていた。
未知の旨味の奔流。計算し尽くされた食感のグラデーション。熱々という温度すらもが最高のスパイスとなり、彼女の口の中で完璧なハーモニーを奏でている。
美味い。ただただ、美味い。
こんな神々しい食べ物が、この世に存在していいはずがない。これはきっと、神の国で供される神酒や仙丹の類に違いない。
「……どう? スライムの味、する?」
コーヒーをすすりながら、千秋が悪戯っぽく尋ねた。
その声でハッと我に返ったサリサは、目からポロポロと大粒の涙をこぼしながら、残りの焼き肉まんを次々と口の中へと放り込み始めた。
もはや熱さなど気にならない。ただひたすらに、この奇跡の味を胃袋に収めたいという欲求だけが彼女を突き動かしていた。
わずか数十秒でシェラカップの中身を空にしたサリサは、フシューッと鼻から熱い息を吐き出すと、そのまま千秋の足元に崩れ落ちた。
「し、師匠ぉぉぉぉぉぉっ!!」
「えっ、師匠!?」
突如として呼び名が変わったことに千秋が驚く間もなく、サリサは再び地面に額を擦り付けた。
「私、愚かでした! あんな神聖な食べ物をスライムなどと勘違いするなんて……! あの表面のカリサク感、中から溢れる肉汁の海……そして、私の知らない複雑で深淵な味付けの魔法! 大魔女様……いえ、師匠! どうか私を、一生あなたのお傍に置いてください!」
「いや、だから私はしがない事務職で……」
「薪割りはあの筋肉ダルマ(ジンツ)がやります! 私は魔法使いの端くれ、火の管理や洗い物、水汲みなど、生活魔法でなんでもこなしてみせます! だから、どうかあの神の料理の端くれだけでも、私に学ばせてください!」
「料理習いたいだけじゃん!!」
千秋のツッコミが森に響き渡るが、サリサの決意は微塵も揺らがなかった。
完全に胃袋を掌握されてしまったのだ。魔法学院の落ちこぼれとして肩身の狭い思いをしてきた彼女にとって、こんな美味いものを生み出せる人物のそばにいられるなら、学院などどうなってもいいとすら思い始めていた。
「俺も! 俺も一生ついていくぜチアキ! だからあの肉まんってやつ、もう一個焼いてくれ!」
ジンツまでもが便乗して騒ぎ始める。
千秋は右手にコーヒーカップを持ったまま、深く深くため息をついた。
「はぁ……。まあ、洗い物とか水汲みをやってくれるなら、別にいいけど。ただし、私のキャンプの邪魔はしないこと。ご飯の時以外は静かにしてること。約束できる?」
「はいっ! もちろんです師匠!」
「おう! 俺も静かに薪を割るぜ!」
犬のように尻尾を振るジンツと、目をキラキラと輝かせて忠誠を誓うサリサ。
こうして、千秋の「異世界ソロキャンプ」に、手のかかる――しかし労働力としては極めて優秀な――二人の居候が完全に定着することとなった。
その後の二人の働きぶりは、目を見張るものがあった。
食事が終わるや否や、サリサは「師匠の手を煩わせるわけにはいきません!」と立ち上がり、彼女が持っている僅かな魔力を振り絞って『初級の水魔法』を発動。空中に小さな水の球を生み出し、それで千秋の使ったシェラカップやホットサンドメーカーの汚れを見事に洗い流してしまった。
さらに『初級の風魔法』で熱風を起こし、一瞬にして食器を乾燥させるという神業(キャンパーから見れば垂涎の便利機能)まで披露した。
「すごいじゃんサリサちゃん! それ、キャンプではめちゃくちゃ便利なスキルだよ!」
「ほ、本当ですか!? 学院では『攻撃力がない無駄な魔法』とバカにされていたのですが……師匠にそう言っていただけるなんて、光栄です!」
千秋に褒められ、サリサは顔を真っ赤にして喜んだ。
ジンツも負けじと森の奥へ入り、さらに太くて火持ちの良い薪を大量に抱えて戻ってくる。
千秋は綺麗に洗われた食器をコンテナにしまいながら、愛用のローチェアに深く腰掛けた。
目の前では、ちょうどいい大きさに割られた薪がパチパチと燃え、焚き火の温もりが体を包み込んでいる。
食器の片付けをする必要もない。薪を拾いに行く必要もない。
自分がやるべきことは、ただ自分の好きな時に、好きなように料理を作り、この二人にご飯を分けてやることだけ。
(……あれ? これって、めちゃくちゃ快適じゃない?)
ソロキャンプの最大の敵である「面倒な撤収作業」や「後片付け」を、全て異世界人が喜んでやってくれるのだ。
もはやこれは、千秋にとっての『完全オートメーショングランピング』が完成した瞬間と言っても過言ではなかった。
「ふふっ……まあ、たまにはこういう賑やかなキャンプも悪くないかな」
千秋は一人ごちると、静かな森の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
こうして、ただの事務職OLと、異世界の冒険者、そして落ちこぼれの魔法使いという奇妙な三人組の週末は、大満足の胃袋と共に穏やかに過ぎていくのだった。
日曜日の夕方。
いつものようにランタンのオイルが尽きかけるのを合図に、千秋は撤収作業を始めた。
今回もジンツとサリサの協力(という名の過剰な奉仕)により、あっという間に片付けが完了する。
「それじゃあ、また来週ね。ジンツさんは薪の補充、サリサちゃんは洗い物係、よろしく」
「はいっ! 師匠、お気をつけて!」
「おう! 来週はもっと美味い肉を期待してるぜ!」
満面の笑みで手を振る二人に見送られながら、千秋はアパートの勝手口へと足を踏み入れた。
ガチャリと扉を閉めると、そこはいつもの狭くて薄暗い、現実世界の1Kの部屋。
明日からまた、憂鬱な月曜日が始まる。
しかし、千秋の足取りは先週よりもずっと軽かった。
(来週は、いよいよ『ご飯物』でも作ってみようかな。あの子たち、お米食べたらどんな反応するんだろ)
異世界人たちの度肝を抜くための次なるメニューを考えながら、千秋は鼻歌交じりで荷物を片付け始めた。
彼女の異世界キャンプライフは、まだ始まったばかりである。




