第48話:商人ゴードンの敗北と、春の夜の夢
ファルマ大陸の森の奥深く。
一年にわずか数日しか花を咲かせないという『幻樹』の木の下は、淡いピンク色の魔力の光と、暴力的なまでの極上の肉の匂いに包まれていた。
千秋が夏のボーナスを全額つぎ込んで用意した、最高級A5ランク黒毛和牛の極厚サーロインステーキ。
マルチグリドルという巨大な鉄板の上で、自らの極上の脂で揚がるように焼き上げられたその肉は、異世界人たちの『食の常識』を木端微塵に粉砕していた。
「……信じられん。噛む必要がない肉など、この世に存在したのか……」
「溶ける……。俺の舌の上で、肉が溶けてなくなりやがった……!」
槍使いのジンツも、重戦士のバルガスも、屈強な戦士たちが皆、一切れの肉を口に入れただけで涙を流し、大地に膝をついている。
彼らだけではない。堅物な女騎士リネットも、エルフの学者ロイドも、獣人の弓使いナドヤも、そして酒場の女将ミレーヌでさえも、言葉を失い、ただひたすらに黄金色の肉汁が滴るステーキを貪り食っていた。
そんな狂乱の宴の片隅で。
近隣の街を牛耳るふくよかな商人、ゴードンは、己のアルミ皿に乗せられた最後の一切れの和牛を見つめながら、静かに戦慄していた。
(なんという恐ろしい食べ物だ……。チアキ殿は、これを『ボーナス』という名のお小遣いで買ったと言っていたが……。もしこれが王都の貴族たちの口に入れば、金貨千枚、いや、万枚を出してでも独占しようとするだろう……)
ゴードンは商人としての冷徹な計算を働かせようとするが、口の中に残る暴力的なまでの旨味と脂の余韻が、彼の思考を鈍らせていた。
美味すぎる。
これほどの美味を前にしては、いかなる商業的計算も虚しく思えてしまう。
「さてと。みんな、お肉の脂でお口の中がいっぱいになってきたでしょ? ここらで、とっておきの『魔法の液体』を開けようか」
千秋の明るい声が響き、ゴードンはハッと顔を上げた。
見れば、千秋の手には、深い緑色のガラスでできた美しいボトルが握られている。
彼女は手慣れた様子でコルク抜きを突き刺し、ポンッ、と小気味良い音を立てて栓を抜いた。
「今日はね、この最高のお肉に合わせて、ちょっといい『赤ワイン』を持ってきたんだよ。一本五千円もしたんだから!」
千秋が笑いながら、用意した透明なグラス(キャンプ用の割れないトライタン樹脂製)に、トクトクと深いルビー色の液体を注いでいく。
ゴードンは、自分の前に置かれたそのグラスを、震える手でそっと持ち上げた。
(五千円……。チアキ殿の故郷の貨幣価値は正確にはわからんが、彼女の口ぶりからすれば、決して手の届かないような天文学的な金額ではないはずだ。……しかし)
ゴードンは、グラスの中の液体を、光る桜の花びらの明かりに透かしてみた。
濁りの一切ない、恐ろしく透明度の高い、それでいて底知れぬ深みを持った真紅。グラスを軽く揺らすと、内側の壁面を液体がゆっくりと、まるで涙のように伝い落ちていく。
酒の粘度が高い証拠だ。糖度やアルコール、そしてエキス分が極限まで凝縮されていることが、見た目だけでわかる。
そして、ゴードンはグラスに鼻を近づけた。
「……ッ!!?」
瞬間、ゴードンの全身の毛穴がカッと開いた。
グラスの底から立ち昇ってきたのは、彼がこれまでの人生で嗅いできた、いかなる果実酒とも違う、圧倒的に複雑で、重厚で、そしてエレガントな香り(アロマ)だった。
(な、なんだこの香りは……!? ただの葡萄の香りではない! よく熟したカシスやブラックベリーのような濃厚な果実の香りの奥に……樽の木のかほり、微かなバニラ、そして……大地の腐葉土のような、気が遠くなるほどの深い熟成香が潜んでいる!)
ファルマ大陸にもワイン(果実酒)は存在する。しかし、それは酸味が強すぎたり、保存状態が悪くて酢のようになっていたり、あるいは無理やり蜂蜜を混ぜて甘くしただけの、野暮ったい代物ばかりだ。
王都の貴族が愛飲するという『百年物のエルフの果実酒』でさえ、ここまでの複雑な香りの層は持っていなかった。
「……いただきます」
ゴードンは、何かにすがりつくような思いで、グラスの縁に震える唇をつけ、その赤い液体を口の中に流し込んだ。
――ドクンッ。
ゴードンの心臓が、大きく跳ねた。
舌の上に落ちた赤ワインは、まるで極上のベルベットの布のように滑らかだった。
雑味が一切ない。
口に含んだ瞬間、完熟した果実の強烈な旨味が爆発し、その後から、しっかりとした『タンニン(渋み)』と、美しい酸味が完璧なバランスで追いかけてくる。
そして、その力強いタンニンは、ゴードンの口の中に残っていた黒毛和牛の強烈な脂を、まるで魔法のようにスゥッと洗い流し、消し去ってしまったのだ。
「……あ、あぁ……」
脂が消えた直後、肉の旨味とワインの果実味が融合し、口の中で第三の、信じられないほど甘美な旨味が誕生した。
これこそが、人類の食の歴史が到達した究極の芸術、『マリアージュ(結婚)』である。
「ゴードンさん? どうですか? ちょっと渋かったかな?」
千秋が不思議そうに首を傾げながら声をかけてくる。
ゴードンは、グラスを持ったまま、カタカタと激しく震え出した。
「チ、チアキ殿……。あなたは、自分が何を口にしているのか、本当に理解しているのですか……?」
「え? 赤ワインでしょ? お肉にはやっぱりフルボディの赤が一番合うし……」
「ち、違う! そういう次元の話ではないッ!!」
ゴードンは、血走った目で千秋を凝視した。
彼の脳内で、商人としての『絶対的な価値計算』が、凄まじい勢いで、限界を超えて回転し始めていた。
(ば、馬鹿な……。このような、神の奇跡としか思えない酒が……彼女の故郷では、平民が少し無理をすれば買える値段で売られているだと!?)
ゴードンは、グラスの中の赤い液体を、まるで世界の運命を左右する劇薬であるかのように見つめた。
(もし……もし、この酒を一樽でも王都に持ち込むことができれば……。王族や大貴族たちは、この圧倒的な香りと味の前にひれ伏し、全財産を投げ打ってでも手に入れようとするだろう。……いや、それだけではない!)
ゴードンの呼吸が荒くなり、額から滝のような汗が噴き出し始める。
(この酒の『独占販売権』。そして、この神の液体を造り出す『製法』……。もしそれを私が手中に収めることができれば……ファルマ大陸の経済は、このゴードンの足元にひれ伏すことになる! 王侯貴族すらも、私の顔色を窺うようになるのだ!)
金貨が。
金貨の山が、いや、金貨の海が、ゴードンの脳内を埋め尽くしていく。
彼はもはや、立っていることすら困難になっていた。
五千円のワインがもたらす、あまりにも巨大すぎる、国家予算レベルの天文学的な利益の計算。
彼の中の『商人としてのキャパシティ』が、完全にオーバーヒートを起こしていた。
「こ、この赤い液体は……!!」
ゴードンは、天高くワイングラスを掲げ、魂の底から絶叫した。
「王族が飲む伝説の神酒すら凌駕している……! これ一本で……この酒一本で、城が建つぞ……ッ!!」
その言葉を最後に。
ゴードンの脳内処理能力は完全に限界を突破し、プツン、とブラックアウトした。
彼は白目を剥き、巨体を揺らしながら、ドサァァァッ!!と大きな音を立ててレジャーシートの上に仰向けに倒れ込んだ。
完全に気絶である。
「えええええっ!? ゴ、ゴードンさん!? ちょっと、息してる!? 死んでない!?」
千秋がパニックになって駆け寄り、ゴードンの顔をペチペチと叩く。
しかし、ゴードンの口からは「ふへへ……金貨が……城が……」という、幸せそうな寝言のような譫言が漏れるだけだった。
「ああ、気にしないでいいよチアキちゃん。うちの旦那、あまりにも儲け話の規模がデカすぎると、ショックで気絶する癖があるんだよ」
ゴードンの妻である酒場の女将ミレーヌが、全く慌てる様子もなく、むしろ呆れたような顔でため息をついた。
彼女は倒れている夫の手から、こぼれる寸前だったワイングラスをひょいっと奪い取った。
「あーあ、だらしないねぇ。せっかくの最高の酒と肉の前で寝ちまうなんて、商人としても男としても失格だよ。……もったいないから、旦那の分のアタシが飲んでおくよ」
ミレーヌはそう言うと、奪い取ったグラスの赤ワインを、クイクイッと一気に飲み干した。
「……くぅぅぅ〜〜〜っ!! 最高だねぇ!!」
ミレーヌは豪快に唇を拭い、満面の笑みで千秋の方を向いた。
「いやぁ、アタシも酒場の女将としていろんな酒を飲んできたけど、こんなに深い味の酒は初めてだよ。あの脂っこい肉の後に飲むと、口の中がスッキリして、また肉が食いたくなる。……恐ろしい酒を持ってきたね、チアキちゃん」
「あはは……。お口に合ってよかったです。ゴードンさん、本当に大丈夫なんですね?」
「平気平気。放っておけばそのうち起きるさ」
ミレーヌが笑い飛ばすのを見て、千秋もようやく安堵の息をついた。
周囲を見渡せば、ゴードンの気絶騒ぎなど気にも留めず、他の異世界人たちも完全に赤ワインと黒毛和牛の虜になっていた。
「うおおおっ! チアキ! もう一杯だ! この赤い酒をもう一杯注いでくれ!」
ジンツが空のグラスを突き出しながら、真っ赤な顔で騒いでいる。
バルガスも、大男の顔をだらしなく崩しながらワインをちびちびと舐め、恍惚の表情を浮かべていた。
「ジンツ、飲みすぎだぞ。この酒は、エールのようにガブ飲みするものではない。一口一口、香りと余韻を楽しみながら、肉と共に味わうものなのだ」
リネットが、少しろれつの回らない声でジンツをたしなめる。
普段は厳格な騎士である彼女も、今日ばかりは完全にワインの魔力に当てられ、頬を桜色に染めて上機嫌になっていた。
「リネットさんこそ、けっこうペース早いですよ。酔っ払ってないですか?」
「よ、酔ってなどいない! 私は騎士だぞ。これくらいの酒で……ふふっ、それにしても、この光る花びらは美しいな……。チアキ、あなたが私の部隊にいれば、毎日が宴で楽しいだろうに……」
リネットは完全に出来上がっていた。千秋の肩に寄りかかり、ふにゃふにゃと笑っている。
その横では、サリサが「私も、大人の飲み物を……!」とワインに手を伸ばそうとして、ミレーヌに「あんたにはまだ早いよ!」とデコピンを食らい、代わりに温かいココアをもらってフーフーと飲んでいた。
村の姉弟であるマイとテオは、高級和牛をたらふく食べて大満足したのか、レジャーシートの端っこで、千秋が貸してあげたブランケットに包まり、すやすやと穏やかな寝息を立てている。
エルフのロイドは、ワインの製法と熟成期間について一人でブツブツと考察を呟きながら、いつの間にか木にもたれかかって眠りこけていた。
獣人のナドヤは、騒がしい宴の輪から少し離れた木の枝に座り、千秋からもらったワインと肉を静かに楽しみながら、時折尻尾をパタパタと揺らしている。
ヒュルルルル……。
夜風が吹き抜けるたび、幻樹から放たれるピンク色の光の花びらが、宴の参加者たちの上に優しく降り注ぐ。
焚き火の炎がパチパチとはぜる音と、酔っ払った仲間たちの楽しげな笑い声。
そして、気絶して幸せそうな寝言を呟いている商人。
「……ふふっ」
千秋は、自分のグラスに残ったワインを一口飲み、目の前に広がるそのカオスで、最高に温かい光景を見渡した。
ボーナスは綺麗に消え去ってしまった。来月からの生活は、また節約の日々になるだろう。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
お金を出せば美味しいものは買える。けれど、この『笑顔』と『時間』は、どんなにお金を出しても、現実世界のどこを探しても、絶対に買えないものなのだ。
「おーいチアキ! まだ肉は残ってないのか!? 俺の胃袋はまだ無限に肉を求めてるぞ!」
「あー、ごめんジンツさん! 黒毛和牛はもう品切れ! あとは持ってきたソーセージと、マイちゃんたちが採ってきてくれた山菜の天ぷらくらいかな!」
「なんだと!? よし、じゃあその天ぷらとやらを食わせろ!」
「はいはい、ちょっと待ってね。油の準備するから」
千秋はローチェアから立ち上がり、再びカセットコンロの前に立った。
仕事の疲れも、理不尽な人間関係のストレスも、この光る桜の下の宴がすべて浄化してくれた。
異世界流のお花見キャンプの夜は、まだ終わらない。
気絶した商人を放置したまま、千秋と異世界の友人たちの笑い声は、夜の森の奥深くまで、いつまでもいつまでも響き渡っていくのだった。




