第47話:溶ける肉と、魔法の液体(赤ワイン)
ヒュルルルル……。
淡いピンク色の光を放つ幻樹の花びらが、春の夜風に乗って雪のように舞い散る。
そんな幻想的な異世界の桜の木の下で、千秋が用意した特大のレジャーシートの上は、完全なる狂乱の宴と化していた。
「チアキ殿ォ! 次を! 早く次の肉を焼いてくれぇぇっ!」
「歯がいらない……! 肉が舌の上で溶けたぞ!? 俺が今まで食ってきた肉は、一体なんだったんだぁぁぁっ!!」
槍使いのジンツと、重戦士のバルガスが、空になったアルミ皿を両手で掲げ、涙とヨダレで顔をぐしゃぐしゃにしながら絶叫している。
千秋が夏のボーナスを全額つぎ込んで買ってきた、A5ランク黒毛和牛の極厚サーロインステーキ。
その信じられないほどの柔らかさと、暴力的なまでの脂の甘みは、野生の魔獣の硬い肉しか知らない異世界の戦士たちの『肉の価値観』を根底から破壊し尽くしてしまったのだ。
「はいはい、順番に焼くから落ち着いて。あんまりいっぺんに食べると、脂が強いから胃もたれしちゃうよ?」
千秋は呆れながらも、トングを使って二枚目の黒毛和牛をマルチグリドル(円形鉄板)の上へと投下した。
ジュワァァァァァァッ!!という凄まじい音と共に、再びあの甘く重厚な『和牛香』が周囲に爆発する。
ジンツとバルガスだけでなく、騎士のリネットや獣人のナドヤ、エルフのロイドまでもが、鉄板の上で踊る肉から目を離すことができないでいる。
「うむむ……。この信じられない柔らかさと旨味。やはりチアキ殿の故郷には、牛に魔法の薬を飲ませて育てる秘術があるに違いない……!」
「アタシはもう、自分の酒場の料理がお客に出せなくなっちまいそうだよ……。こんな美味い肉を食っちまったらねぇ……」
ロイドが羽ペンを震わせながら手帳に猛烈な勢いで何かを書き込み、ミレーヌが頭を抱えて深いため息をつく。
そんな大人たちの狂乱をよそに、村の姉弟であるテオとマイも、千秋が小さく切ってくれた和牛を口に入れて、ほっぺたを両手で押さえていた。
「お口の中で、お肉がなくなっちゃった! 魔法だ、魔法のお肉だよ!」
「美味しい……! 本当に、夢みたいです……!」
千秋は二枚目のステーキを手早く焼き上げ、岩塩と黒胡椒でシンプルに味付けをしてから、再びみんなの皿へと切り分けていった。
瞬く間に、数百グラムの高級肉が異世界人たちの胃袋へと消えていく。
「さてと。そろそろみんなのお口の中も、脂でいっぱいになってきた頃だね」
千秋は、自分用の最後の一切れを口に放り込み、ジュワッと広がる和牛の甘みを堪能しながら、クーラーボックスの横に置いてあった『秘密兵器』へと手を伸ばした。
黒毛和牛の極厚ステーキは、確かにこの世のものとは思えないほど美味しい。しかし、その圧倒的なサシ(脂身)の量ゆえに、食べ進めるうちにどうしても口の中が脂っこくなり、胃が重くなってきてしまうという弱点があった。
そこで必要になるのが、その脂をすっきりと洗い流し、肉の旨味をさらに次の次元へと引き上げてくれる『最高のお供』である。
「みんな、ちょっと注目! この最高のお肉に合わせて、今日は私、とびっきりのお酒を持ってきたんだよ」
千秋が両手で掲げたのは、深い緑色のガラスでできた、一本のボトルだった。
コルク抜きでポンッと小気味よい音を立ててすでに開栓されているそのボトルは、千秋がデパ地下で奮発して買ってきた、五千円のボルドー産フルボディ赤ワイン。
「お酒!?」
「チアキちゃん、それはこの前飲ませてくれた『ホットワイン』の元のやつかい?」
ミレーヌが、自分が持ってきたエールの木製ジョッキを置き、興味津々で身を乗り出してきた。
以前、冬のキャンプで千秋が振る舞ったホットワインは、安いパックワインにスパイスや蜂蜜を入れて温めたものだった。それでも異世界人たちにとっては驚愕の美味しさだったが、今日千秋が持ってきたのは、そのまま常温で飲むために造られた、本物の『高級ワイン』である。
「うん、赤ワインだよ。でも、今日のは前に飲んだのとは比べ物にならないくらい、すっごく香りが良くて味が濃いやつなの。この黒毛和牛の脂に、絶対に負けない力強いお酒だよ」
千秋は、持参してきた透明なプラスチック製のワイングラス(キャンプ用の割れないグラス)を大人たちの前に並べ、トクトクと、深いルビー色をした液体を注いでいった。
「まずは香りを楽しんでから、お肉と一緒に口に含んでみて」
千秋に促され、ジンツやバルガス、リネットたちが、おそるおそるワイングラスを手に取った。
異世界にも果実酒は存在するが、それはもっと甘ったるいか、逆に酸味が強すぎる雑味だらけのものばかりだ。
グラスに顔を近づけた瞬間。
「……ッ!!?」
「な、なんだこの香りは……!」
大人たちの顔色が、一瞬にして変わった。
グラスの底から立ち昇ってきたのは、カシスやブラックベリーのような、極限まで凝縮された黒い果実の芳醇な香り。
そしてその奥に潜む、オーク樽で長期熟成されたことによる、バニラやシガーのような重厚でスモーキーな香り。
ただ匂いを嗅いだだけで、その液体がどれほどの手間と時間と技術をかけて造られた『芸術品』であるかが、彼らの本能に直接伝わってきたのだ。
「なんという……深く、複雑な香りだ。エールの酸い匂いとは全く次元が違う……!」
リネットがグラスを光る桜の花びらに透かし、その美しいルビー色にうっとりとした表情を浮かべる。
そして、彼女は意を決して、グラスの縁に唇をつけ、赤ワインを一口、口の中に流し込んだ。
「……ッ」
リネットの動きが、再びピタリと停止した。
口に含んだ瞬間、強烈な果実味が爆発し、その後からしっかりとした『タンニン(渋み)』と、心地よい酸味が追いかけてくる。
安い酒にありがちな、喉を焼くようなアルコールの刺々しさは全くない。まるでシルクのように滑らかで、それでいて圧倒的な重厚感を持って、舌全体を支配していく。
「リ、リネット……。どうだ? 美味いのか?」
ジンツがゴクリと喉を鳴らして尋ねる。
リネットは目を見開いたまま、無言で、自分のアルミ皿に残っていた『黒毛和牛のステーキ』の一切れをフォークで突き刺し、口の中へと放り込んだ。
ワインの余韻が残る口の中に、和牛の強烈な脂と旨味が合流する。
その瞬間。
「あぁぁぁぁぁぁっ……!!」
リネットの口から、およそ堅物の女騎士とは思えない、甘く、そして魂がとろけるような恍惚の吐息が漏れた。
彼女はワイングラスを持ったまま、ガクンと膝をつき、そのままレジャーシートの上に崩れ落ちてしまったのだ。
「リ、リネット!? おい、大丈夫か!?」
「も、もしかして、強烈な毒だったのでは……!?」
サリサがパニックになって駆け寄ろうとするが、リネットはそれを片手で制止し、涙で濡れた瞳で千秋を見上げた。
「チアキ……。これは、ダメだ……」
「えっ? 美味しくなかった?」
「違う……!! 美味すぎるのだ!!」
リネットは、涙声で絶叫した。
「この赤い液体の持つ深い渋みと酸味が、あの和牛の強烈な脂を、まるで魔法のように一瞬で洗い流してしまった! そして、口の中がさっぱりした直後に、肉の旨味とワインの果実味が融合し、新たな……信じられないほど甘美な旨味の爆発を引き起こしたのだ!!」
リネットの完璧すぎる食レポに、周囲の大人たちはゴクリと息を飲んだ。
牛肉と赤ワイン。
それは、人類の歴史が証明してきた『究極のマリアージュ(結婚)』である。ワインのタンニンが肉の脂を中和し、互いの長所を極限まで引き立て合う。
「なんだと!? あの脂を洗い流すだと!?」
「ええい、俺も飲んでみるぞ!」
ジンツとバルガスが、我先にとワイングラスを煽り、そしてすぐさま和牛のステーキを口に放り込んだ。
「おおおおおぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!」
「な、なんだこれは!! さっきまで『もう脂がキツい』と思っていた胃袋が、一瞬でリセットされたぞ!! 無限だ! この酒と肉があれば、俺は無限に食い続けられる!!」
二人の大男が、涙を流しながら抱き合い、狂喜乱舞して飛び跳ね始めた。
「こりゃあ、たまげたね……。アタシの酒場のエールなんか、ただの泥水に思えちまうよ……」
酒場の女将であるミレーヌも、ワイングラスを傾けながら、完全に敗北宣言をしている。
そして、その狂乱の宴の端っこで。
「……」
商人であるゴードンが、ワイングラスを持ったまま、信じられないものを見るような目で、手の中の赤い液体を凝視していた。
「ゴードンさん? どうしたんですか? お口に合いませんでした?」
千秋が不思議そうに声をかけると、ゴードンはビクッと肩を震わせ、ゆっくりと千秋の方へと顔を向けた。
彼の顔色は、ワインの赤色とは対照的に、完全に真っ白に血の気を失っていた。
「チ、チアキ殿……。この……この赤い液体は、一体……」
「だから、ワインですよ。葡萄から作ったお酒。五千円くらいしたから、ちょっと奮発しちゃいましたけど」
五千円、という言葉は翻訳魔法によってゴードンの脳内に『銀貨数枚程度の価値』として変換された。
しかし。
ゴードンの商人としての絶対的な価値観と味覚は、それが銀貨数枚で買えるような代物では『絶対にない』と、強烈な警鐘を鳴らしていた。
「ば、馬鹿な……。このような、雑味の一切ない芳醇な果実の香りと……気が遠くなるような樽の深い熟成香……」
ゴードンは、震える手でワイングラスを顔の高さまで持ち上げた。
「私は商人として、王都の貴族が愛飲するという『百年物のエルフの果実酒』を舐めたことがある……。だが、この赤い液体は……あの伝説の神酒すらも、遥かに凌駕している……ッ!」
ゴードンの息が荒くなり、額から滝のように汗が流れ落ち始めた。
「この酒が、もし王都のオークションに出品されたなら……。いや、オークションなどという生易しいものではない。この酒の製法と独占販売権を手に入れれば、国が……城が一つ、いや、大陸の経済そのものを支配できるぞ……ッ!!」
ゴードンの頭の中で、金貨が滝のように降り注ぐ幻影と、このワインの恐るべき商業的価値が、凄まじい勢いで計算されていく。
彼の脳のキャパシティは、この『五千円のワイン』がもたらす天文学的な利益の計算に追いつかず、完全にショート(オーバーヒート)してしまった。
「ああ……。見える……。私の上に、金貨の雨が……!! チアキ殿、あなたは……あなたは、富の女神だ……ッ!!」
ゴードンは、ワイングラスを持ったまま天を仰ぎ。
そして、白目を剥いて、ドサリとレジャーシートの上に仰向けに倒れ込んでしまった。
「ええっ!? ゴードンさん!? どうしたの!?」
「ああ、気にしないでいいよチアキちゃん。うちの旦那、あまりにも儲け話がデカすぎると、ショックで気絶する癖があるんだよ。だらしないねぇ、まったく」
パニックになる千秋をよそに、妻のミレーヌは呆れたように笑いながら、気絶している夫の手からそっとワイングラスを抜き取った。
「もったいないから、旦那の分のアタシが飲んでおくよ。……くぅ〜っ! 最高だねぇ!」
気絶した商人を放置したまま、異世界人たちと千秋の、光る桜の下での『最高級お花見BBQ』は、さらなるカオスと熱狂の渦へと突入していく。
黒毛和牛と赤ワイン。
現代資本主義が生み出した至高の贅沢は、異世界の住人たちの胃袋と常識を完全に破壊し、彼らに一生忘れられない春の記憶を刻み込むのであった。




