第45話:異世界の桜と、特別なお誘い
厳しい寒さに閉ざされていた異世界の森にも、ようやく雪解けの季節が訪れた。
千秋が初めてこのファルマ大陸の森に足を踏み入れてから、季節は一巡しようとしている。厚手のダウンジャケットを羽織らなくても、夜風がそれほど身に染みないくらいには、気温が上がり始めていた。
ある土曜日の昼下がり。
千秋が愛用のホットサンドメーカーで、いつものように『肉まん』をプレスして焼き上げていると、ランタンの結界の外から、バタバタと元気な足音が近づいてきた。
「チアキねーちゃん! チアキねーちゃーん!!」
「テオ、走ったら危ないって言ってるでしょ! あ、チアキさん、こんにちは!」
現れたのは、近隣の村に住む姉弟、マイとテオだった。
二人の手には、小さなカゴが握られており、中には春の訪れを告げる色鮮やかな野草や、小さな花がたくさん詰まっている。
千秋は焼き上がったばかりのホットサンド肉まんを半分に割り、二人に手渡しながら笑顔で迎えた。
「いらっしゃい、マイちゃん、テオ君。春の野草摘み?」
「はい! 雪が解けて、森にたくさんフキノトウ……ええと、春の山菜が生えてきたんです。これ、チアキさんにおすそ分けです」
マイがカゴから、日本のフキノトウによく似た、薄緑色のつぼみのような植物を取り出して見せた。
「わあ、ありがとう! これ、天ぷらにして塩で食べたら最高なんだよね。後で一緒に食べようか」
「はいっ! ……あ、でもね、今日はもう一つ、チアキねーちゃんに教えたいことがあるんだ!」
ホットサンド肉まんをフーフーしながら食べていたテオが、思い出したように大きな声を上げた。
彼の目はキラキラと輝いており、何かものすごい秘密を発見したような顔をしている。
「教えたいこと?」
「うん! あのね、この森のずっと奥の方にね、すっごく綺麗に光る木がいっぱい生えてる場所があるんだよ!」
「光る木?」
「はい。村の大人たちは『幻樹』って呼んでるんですけど……」
マイがテオの言葉を引き継いで、少し興奮気味に説明を始めた。
「その木は、春のほんの短い間だけ、淡いピンク色の小さな花をたくさん咲かせるんです。花びら自体が魔力を帯びていて、夜になると月明かりみたいにポワァッと光って……風が吹くと、花びらが雪みたいに散って、本当に夢みたいに綺麗な場所なんです!」
「ピンク色の小さな花が、たくさん咲いて、風で散る……」
千秋の脳内に、ある一つの『絶対的な春の風景』がフラッシュバックした。
日本の春を象徴する、あの花。
「……それって、もしかして『桜』みたいな感じ?」
「さくら……? チアキさんの故郷にも、似たような木があるんですか?」
「うん。私の故郷じゃ、春になるとその『桜』の木の下にみんなで集まって、美味しいご飯を食べたり、お酒を飲んだりして楽しむ『お花見』っていうお祭りがあるんだよ」
千秋が『お花見』という単語を口にした瞬間、彼女のキャンパーとしての血が騒ぎ始めた。
桜の木の下で、満開の花びら(しかも異世界仕様で光る!)を眺めながらのキャンプ。
これ以上の贅沢なロケーションが存在するだろうか。いや、ない。
「ねえ、マイちゃん。その『幻樹』が咲いてる場所って、ここから遠いの?」
「いえ、歩いて二十分くらいです。チアキさんのこの『魔法の明かり(ランタン)』を持っていけば、結界ごと移動できるから安全だと思いますよ」
千秋のアンティークランタンが張る『魔物除けの結界』は、ランタンを中心にして展開されるため、ランタンを持ち運べばそのまま安全地帯ごと移動することが可能だ。
千秋は腕を組み、ニヤリと悪魔的な笑みを浮かべた。
「……決めた」
「えっ?」
「来週の週末は、みんなでその『幻樹』の木の下に集合して、特大の『お花見キャンプ』をやるよ!!」
千秋の力強い宣言に、テオが「わぁぁい!」と飛び跳ねた。
お花見という行事がどういうものか完全には理解していないマイも、千秋がまた何かとんでもなく美味しいものを作ってくれるのだと察し、満面の笑みで頷いた。
「みんなってことは、ジンツさんやリネットさんたちも呼ぶんですか?」
「もちろん! サリサちゃんも、バルガスさんも、ロイドさんも、ミレーヌさんたちも全員集合だよ! あ、ナドヤちゃんにも声をかけておいてね」
「はいっ!」
千秋はローチェアから立ち上がり、両手でパンッと柏手を打った。
「よし! せっかくの春の一大イベントなんだから、食材も奮発しなきゃね。……そうだ、ちょうど夏のボーナスも出たところだし、たまには『最高の贅沢』をしちゃおっかな」
千秋の瞳の奥で、日本のスーパーマーケットの精肉コーナーで燦然と輝く、あの『宝石のような肉』の姿が浮かび上がっていた。
異世界の友人たちを、そして何より自分自身を最高にもてなすための、ボーナス全ツッパの大盤振る舞い。
千秋の頭の中では、すでに完璧な『お花見キャンプの献立』が出来上がりつつあった。
* * *
数日後。現実世界の金曜日。
千秋は定時ダッシュを決め、いつものスーパーマーケットではなく、少し離れた場所にある『高級デパ地下の精肉店』へと足を運んでいた。
ボーナスが支給されたばかりの、懐が一番温かい時期。
千秋の足取りは驚くほど軽く、財布の紐は完全に緩みきっていた。
「いらっしゃいませー。本日は良いお肉が入ってますよ」
「ええと……このショーケースの端っこにある、一番霜降りが綺麗なやつをお願いします」
千秋が指差したのは、百グラムで数千円は下らない、最高級A5ランクの『黒毛和牛の極厚サーロインステーキ』だった。
網の目のような美しいサシ(脂身)が全体に均等に入っており、常温に置いただけで脂が溶け出しそうなほどの極上品である。
普段のソロキャンプでは絶対に手を出さない、いや、出せない代物だ。
「こちらですね。何グラムになさいますか?」
「……全員で食べるから、一枚四百グラムのやつを、五枚……いや、六枚で!」
「ろ、六枚ですね! かしこまりました!」
店員が驚いた顔をしながらも、手際よくステーキ肉を包装していく。
お会計の金額を見て千秋の顔が少しだけ引き攣ったが、「ボーナスだもん、お花見だもん!」と自分に言い聞かせてクレジットカードで支払いを済ませた。
「お肉はこれで完璧。あとは……」
千秋はデパ地下のワインコーナーへと移動した。
お花見といえば、やはり美味しいお酒は欠かせない。普段なら数百円のパックワインで済ませるところだが、今日は違う。
千秋は陳列棚を真剣な顔で吟味し、一本五千円もする、ボルドー産のフルボディの赤ワインを二本カゴに入れた。
果実味が凝縮され、樽の香りがしっかりとついた、重厚な味わいの高級ワイン。これなら、黒毛和牛の強烈な旨味と脂にも絶対に負けないはずだ。
「ふふふ……。これで準備は万端。みんな、絶対腰抜かすだろうなぁ」
千秋は両手にパンパンに膨らんだ高級保冷バッグを抱え、ウキウキとした足取りでアパートへの帰路についた。
今週の仕事の疲れなど、高級食材を手に入れた興奮の前に完全に吹き飛んでいた。
* * *
そして、迎えた金曜日の夜。
千秋はアンティークランタンに火を灯し、勝手口の扉を開けて異世界へと渡った。
いつものように結界の中にテントを張り、一泊した後。
土曜日の午後。
「おーい! チアキィィィ! 来たぞーーっ!!」
森の奥から、ジンツの大きな声が響き渡った。
彼を先頭に、バルガス、リネット、サリサ、ロイド、ナドヤ、そして酒場の女将ミレーヌと、その夫である恰幅の良い商人・ゴードンまで。
千秋のキャンプサイトに、これまで登場した異世界人たちが全員集合してやってきたのだ。
「みんな、いらっしゃい! 今日は全員集まってくれてありがとう!」
千秋は満面の笑みで一行を出迎えた。
今回は「お花見」という特別なイベントのため、マイとテオが案内役として先導してくれている。
「チアキちゃん、お花見ってのはなんだか面白そうな響きだねぇ。アタシも酒場を臨時休業にして、樽ごとエールを持ってきたよ!」
「チアキ殿、本日は一体どのような魔法の料理をご馳走してくれるのかな? 我輩の舌は、すでに準備万端だぞ!」
ミレーヌとゴードン夫婦が、期待に満ちた顔で千秋に声をかける。
「ふふふ。ゴードンさん、今日はね、ただの料理じゃないですよ。私の故郷で『最高のご馳走』って言われてるお肉を持ってきたんですから」
「な、なんだと!? あの魔法の粉や、黒い秘薬を超えるほどの料理だと言うのか……!?」
商人であるゴードンは、千秋の料理のポテンシャルを誰よりも高く評価している。彼の目が「それは金貨何枚で売れるのだ?」という商魂に輝き始めた。
「さあさあ、お喋りはこれくらいにして。マイちゃん、テオ君、『幻樹』の場所に案内してくれる?」
「はーい! みんな、こっちだよ!」
千秋は、自分の荷物を載せたアウトドアワゴン(アウトドア用の台車)を引っ張り、ランタンを手に持った。
ランタンを移動させると、魔物除けの結界も千秋を中心にしてズルズルと移動していく。異世界人たちは、その結界の内側に収まるように、大名行列のような隊列を組んで森の奥へと進んでいった。
歩くこと約二十分。
次第に、木々の隙間から『淡いピンク色の光』が漏れ出しているのが見えてきた。
「わぁ……」
千秋の口から、感嘆の吐息が漏れた。
森の奥の少し開けた空間。
そこには、日本の樹齢数百年はあろうかという巨大な桜の木にそっくりな、太い幹を持つ大樹が数本、立ち並んでいた。
しかし、日本の桜と違うのは、その花びら自体が、内側からポワァッと淡いピンク色の魔力の光を放っていることだ。
まだ完全に日が落ちていないにもかかわらず、その光は幻想的で、周囲の空間を桜色に染め上げていた。
ヒュルルルル……。
春の風が吹き抜けると、光る花びらが雪のように舞い散り、キラキラと輝きながら千秋たちの頭上に降り注ぐ。
「すごい……! 本当に、光る桜だ……。綺麗……」
千秋はワゴンを止め、その圧倒的な美しさに言葉を失った。
異世界の魔法と、日本の春の象徴が見事に融合した、ファンタジー世界ならではの絶景である。
「これが幻樹……。チアキ、あなたの故郷にも、これほど美しい木があるというのか?」
「うん。光りはしないけど、満開の桜の下でみんなでご飯を食べるのは、日本人のDNAに刻まれた最高の行事なんだよ」
千秋はそう言うと、幻樹の木の下の一番眺めの良い場所に、レジャーシートを広げ、アルミロールテーブルやローチェアを次々と展開していった。
「よし! 場所取り完了! それじゃあみんな、異世界流・第一回お花見キャンプの開幕だよ!!」
千秋の力強い宣言と共に、異世界人たちから「おおおぉぉぉっ!!」と歓声が上がった。
光る桜の花びらが舞い散る中、千秋はアウトドアワゴンに積んできた、あの『高級保冷バッグ』に手をかけた。
ボーナスを全額突っ込んだ、A5ランクの黒毛和牛。
そして、五千円の高級赤ワイン。
現代の資本主義の力(給料)と、キャンパーの調理技術が結集した『究極のお花見BBQ』が、異世界人たちの度肝を抜くために、今まさに解き放たれようとしていた。




