第44話:世界一美味しい、焦げた肉
ランタンの温かいオレンジ色の光だけが、ぽつんと暗闇を照らしている。
千秋は、火のついていない冷たい焚き火跡の前に置いたローチェアに深く腰掛け、膝を抱えたまま、ただぼんやりと虚空を見つめていた。
手の中にある缶ビールはとっくにぬるくなり、炭酸も抜けてしまっているが、それを飲む気にもなれない。
森の静寂が、いつもなら心地よい癒やしとなるはずなのに、今夜ばかりは自分の孤独を際立たせるようで、胸の奥がチクチクと痛んだ。
(……私、何やってるんだろう。せっかくこっちの世界に来たのに、ただ落ち込んでるだけなんて)
理不尽なクレーム。上司の心無い言葉。
平日に溜め込んだ真っ黒な感情のヘドロは、異世界の澄んだ空気を吸っても、そう簡単には洗い流されてはくれなかった。
ご飯を作る気力もない。誰かと話す気力もない。
このまま、ランタンのオイルが尽きるまでここで一人で膝を抱えて、そしてまた月曜日からあの憂鬱な現実に戻るのかと思うと、目頭が熱くなり、視界が滲んできた。
その時だった。
「おーーーいっ!! チアキィィィッ!!」
静まり返った夜の森の静寂を打ち破る、けたたましくも野太い声が響き渡った。
千秋がビクッと肩を震わせて顔を上げると、ランタンの結界の境界線から、ドヤドヤと信じられないほどの大人数が、足音も荒く転がり込んでくるのが見えた。
「えっ……? ジンツさん? みんな……?」
千秋は驚きのあまり、声がひっくり返った。
そこにいたのは、槍使いのジンツを先頭に、重戦士のバルガス、女騎士のリネット、魔法使いのサリサ、酒場の女将ミレーヌ、そして村の姉弟であるテオとマイまで。
いつも週末に千秋のキャンプサイトに集まってくる常連メンバーが、全員揃ってそこに立っていたのだ。
しかも、彼らの姿は異様だった。
全員、顔や服に真っ黒な煤や泥をこびりつかせ、息を切らしている。そして何より千秋の目を引いたのは、彼らが抱えている『とんでもないもの』だった。
「チアキ! 驚いたか! へへっ、今日は俺たちが、とびっきりのご馳走を持ってきたぜ!」
ジンツが満面の笑みで、ドンッと木箱をアルミテーブルの上に置く。
そして、リネットが「ふんっ!」と気合いと共に担ぎ上げてきたのは……なんと、彼女の誇りである美しい白銀の騎士剣に、串刺しにされた『巨大な肉の塊』だった。
「リ、リネットさん!? その剣、どうしたの!? っていうか、そのお肉……真っ黒焦げじゃない!」
千秋が慌てて立ち上がる。
リネットの剣に刺さっているのは、表面が炭化して真っ黒になった、巨大な鳥の脚肉のようなものだった。そこからは、焦げ臭い匂いと共に、野性味あふれる強烈な肉の匂いが漂っている。
「チアキ殿。今日は私たちが、あなたの故郷の儀式である『ばーべきゅー』とやらを再現してみたのだ。見ての通り、少しばかり火力が強すぎて表面が焦げてしまったが、中までしっかりと火は通っているはずだ」
リネットが、顔に煤をつけたまま真剣な表情で胸を張る。
「アタシたちも手伝ったんだよ! ほら、この木箱の中の野菜、アタシが火の中にぶち込んで丸焼きにしてやったのさ! エールの樽も持ってきたから、今日はアタシの奢りだ!」
ミレーヌが木箱を開けると、そこには、同じく表面が真っ黒な炭の塊のようになった根菜類がゴロゴロと転がっていた。
「チアキさん、私とテオでキノコも採ってきました! これも一緒に焼いたんです!」
「僕も手伝ったよ! だから、チアキねーちゃん、元気出して!」
マイとテオが、千秋の服の裾を引っ張りながら、心配そうに見上げてくる。
「え……?」
千秋は、彼らの言葉にハッとした。
「元気出してって……みんな、もしかして……」
「へへっ。バレてたか?」
ジンツが照れくさそうに、煤だらけの鼻の下を指でこすった。
「さっき、こっそり覗きに来たんだよ。そしたら、チアキの奴、火も熾さずに真っ暗な中で一人で落ち込んでるじゃねえか。いつも美味い飯を作ってくれるお前が、あんな悲しそうな顔してるなんて、俺たちらしくねえって思ってな」
「うむ。我々は、常にチアキの温かい食事と笑顔に救われてきた。……だから、今日くらいは、我々があなたをもてなす番だと思ったのだ」
バルガスが太い腕を組み、深く頷く。
「ま、そういうことさ。アタシたちの世界には、チアキちゃんが持ってるような便利な道具も、美味しい調味料もないからね。岩塩をすり込んで豪快に焼いただけの、大味な料理しか作れなかったけど……」
ミレーヌがそう言って、ジンツから受け取ったナイフで、真っ黒に焦げた大角鳥の肉塊を豪快に切り裂いた。
表面の炭化した部分の下からは、なんとか火が通った赤身の肉が顔を出すが、火加減の調節ができていないため、少しパサパサになっているのが見て取れた。
「チアキ、いつもありがとう。今日は俺たちが作ったから、遠慮せずに腹いっぱい食べてくれ!」
ジンツが、切り分けたばかりの肉の塊を、不器用に木の葉に乗せて千秋へと差し出した。
「……」
千秋は、差し出されたその肉を、両手でそっと受け取った。
ずっしりとした重みと、まだ熱い肉の温度が手のひらに伝わってくる。
見上げれば、ジンツも、リネットも、サリサも、バルガスも、ミレーヌも、テオもマイも。全員が煤だらけの顔で、少し不安そうに、でも最高に温かい笑顔で千秋を見つめていた。
(ああ……)
千秋の胸の奥で、カチリと何かが弾ける音がした。
理不尽な上司。怒鳴るクレーマー。誰にも評価されない孤独な仕事。
一週間、ずっと一人で抱え込んでいた黒い感情のヘドロが、彼らのその不器用すぎる優しさに触れた瞬間、急速に熱を帯びて溶け出していくのを感じた。
「……いただきます」
千秋は震える声で呟き、差し出された肉を一口、大きくかじりついた。
ガシッ。
バキッ。
口の中に広がったのは、千秋がいつも計算し尽くして作っているキャンプ飯とは、到底比べ物にならない味だった。
外側は焦げていて苦く、中は火が通り過ぎて少しパサパサしている。岩塩をすり込んだだけの味付けはまばらで、しょっぱすぎる部分と、味が全くしない部分が混在していた。
焦げた匂いと、強い獣の匂い。
料理としての評価を下すならば、これは間違いなく『失敗作』である。
けれど。
「……うぅっ……」
千秋の目から、大粒の涙がポロリとこぼれ落ちた。
「チ、チアキ!? どうした!? やっぱり不味かったか!?」
「す、すまない! 私の火魔法が強すぎたせいで、お肉がカチカチに……!」
ジンツとサリサが慌てて声を上げるが、千秋は首を横に振った。
涙は、一度こぼれ落ちるともう止まらなくなった。
ポロポロ、ポロポロと、千秋の頬を伝ってとめどなく涙が溢れ出し、手の中の肉を濡らしていく。
「違う、の……。不味くないよ……。全然、不味くない……」
千秋はしゃくり上げながら、もう一口、肉に食らいついた。
しょっぱくて、苦くて、パサパサの肉。
なのに、どうしてこんなに温かいのだろう。
異世界の屈強な戦士や商人たちが、仕事で疲れ果てた自分のために、見よう見まねで一生懸命火を熾し、煙にむせながらお肉を焼いてくれた。
その光景を想像するだけで、嬉しくて、ありがたくて、胸がいっぱいになって破裂しそうだった。
「……うん。すっごく、美味しい。……今まで食べたお肉の中で、一番美味しいよ……!」
千秋は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、最高の笑顔を浮かべて笑った。
その言葉を聞いて、不安そうにしていた異世界組の顔が、一気にパァッと明るく輝いた。
「よ、よっしゃああああっ!! 美味いって言ってくれたぜ!!」
「はっはっは! やはり、我らの魂を込めた料理は魔女殿の舌に届いたか!」
「よかった……! よかったよぉ、チアキちゃん!」
ジンツがガッツポーズをし、バルガスが大笑いし、ミレーヌが千秋の背中をバンバンと力強く叩く。
テオとマイも「チアキねーちゃん、笑った!」と抱きついてきた。
千秋は涙を拭い、手の中の肉をペロリと平らげた。
美味しい。本当に美味しい。心の底からそう思った。
しかし、同時に、彼女の中に眠っていた『キャンパーとしての本能』が、ムクムクと目を覚まし始めていたのも事実である。
(このままでも十分嬉しいけど……せっかくみんなが持ってきてくれた最高のお肉と野菜なんだもん。もっともっと、美味しく食べたいじゃない!)
完全に気力を取り戻した千秋の瞳に、いつものギラギラとした光が戻ってきた。
彼女はローチェアからバッと立ち上がり、両手でパンッ!と大きく柏手を打った。
「みんな、本当にありがとう! おかげで、すっごく元気が出たよ!」
千秋はトートバッグの奥からLEDランタンを取り出し、最大光量でテントのポールに吊るし直した。
パァァァッ!と、暴力的なまでの白い光が、暗かったキャンプサイトを一瞬にして真昼のように照らし出す。
「でもね! やっぱりバーベキューは、ここからが本番だよ! せっかくの最高のお肉なんだから、味付けの仕上げは私がやる!」
「おおっ!? チアキ、料理する気になったか!」
「うん! みんなのおかげでパワー全開! だから、みんなはそこに座って、エールでも飲んで待ってて!」
千秋はコンテナボックスを開け、愛用の『カセットコンロ』と『マルチグリドル(大型の円形鉄板)』を取り出した。
さらに、クーラーボックス(今日は持参していなかったが、テントの奥に常備している調味料ボックス)から、醤油、ニンニク、バター、そしてキャンパーの必須アイテム『ほりにし』や『マキシマム』といったアウトドアスパイスの数々を引っ張り出してくる。
「リネットさん! その真っ黒になった野菜、私が魔法のタレで蘇らせるから、食べやすい大きさに切って!」
「承知した! 剣のサビにしてくれる!」
「サリサちゃん、お肉の焦げすぎたところだけナイフで削ぎ落として! ジンツさんとバルガスさんは、焚き火に火を熾し直して!」
千秋の的確でテンポの良い指示が飛び交う。
つい先ほどまでの、どんよりと沈み込んでいた姿はどこにもない。
カチッ、ボォォォォォォォォォッ!!
カセットコンロの青い炎が勢いよく立ち上がり、マルチグリドルの上でバターがジュワァァァッと音を立てて溶け始めた。
「よし! ジンツさんたちが焼いてくれた大角鳥のお肉を、ガーリックバター醤油で一気にコーティングするよ!」
千秋が、切り分けられた肉を鉄板の上に放り込み、チューブのニンニクと醤油を豪快に回し入れる。
瞬間。
先ほどまでの単なる『焦げた獣の匂い』が、暴力的なまでに食欲をそそる『極上のガーリックステーキの匂い』へと爆発的に進化した。
「うおおおおぉぉぉぉっ!! な、なんだこの匂いは!? さっき俺たちが焼いた肉と同じものだとは思えねえぞ!?」
「す、素晴らしい……! バターの濃厚な香りと、ニンニクの刺激が、肉の旨味を何十倍にも引き上げている!」
ジンツとバルガスが、鉄板の前でヨダレを撒き散らしながら絶叫する。
さらに千秋は、黒焦げになっていた根菜類を一口大に切り分け、オリーブオイルとアウトドアスパイスで炒め直し、見事な『野菜のスパイス炒め』へと蘇らせた。
「はい、お待たせ! 異世界組と千秋のコラボレーション、『特製大角鳥のガーリックステーキ&野菜炒め』の完成だよ!!」
熱々のマルチグリドルごとアルミテーブルの中央にドンッと置かれると、全員から割れんばかりの歓声が上がった。
ミレーヌが用意してくれた木製のジョッキに、冷えたエールがなみなみと注がれていく。
「それじゃあ、私を元気付けてくれたみんなに感謝して! 乾杯!!」
「「「かんぱーい!!」」」
カチンッ!!
ジョッキとカップがぶつかり合う、小気味良い音が夜の森に響き渡る。
千秋は冷えたエールを喉に流し込み、熱々のガーリックステーキを口に放り込んだ。
「んん〜〜〜っ! 最高!! みんなが一生懸命焼いてくれたお肉、世界一美味しいよ!!」
「チアキ、俺たちも感動してるぜ! まさか俺の狩った肉が、こんな美味い料理に化けるなんてな!」
焚き火の炎がパチパチとはぜる。
賑やかな笑い声と、肉が焼ける暴力的な音、そしてエールを煽る声。
いつもの、騒がしくて、ドタバタで、最高に美味しい『金曜日の夜のキャンプ』が、千秋の元に完全に戻ってきていた。
仕事のストレスも、理不尽な人間関係も、すべてはこの瞬間のためにある。
焦げて、パサパサで、しょっぱかったあの一口の肉の味を、千秋は一生忘れないだろう。
夜の森の宴は、彼らの不器用な優しさと、現代の調味料の魔法によって、朝まで途切れることなく続いていくのだった。




