第42話:常連組の緊急会議
千秋の張った魔物除けの結界から、少し離れた森の奥。
普段なら絶対に人が近づかない常闇の木立の中で、異世界ファルマ大陸の住人たちによる、かつてないほど真剣で、そして極秘の『緊急会議』が開かれていた。
「……なぁ、お前らも見たよな。今日のチアキ、明らかにおかしいぜ」
槍使いのジンツが、木々の隙間から遠くに見える千秋のテントを指差しながら、深刻な声で口火を切った。
金曜日の夜。いつもなら、オレンジ色の明るいランタンの光の下で、パチパチと軽快な音を立てて焚き火が燃え盛り、食欲を暴力的に刺激する凄まじくいい匂いが森中に漂ってくるはずの時間である。
しかし、今日の千秋のキャンプサイトは、まるで火が消えたかのように暗く、静まり返っていた。
当の千秋本人はといえば、火も熾されていない真っ暗な焚き火跡の前にポツンと座り込み、ただひたすらに膝を抱えて、ため息ばかりを吐いているのだ。
「うむ……。いつもの、あの底抜けに明るい太陽のような笑顔が、完全に失われていた。まるで、過酷な防衛戦を何日も戦い抜き、心身ともに限界を迎えた兵士のような……痛々しく、虚ろな目をしていたな」
女騎士リネットが、騎士としての生真面目な顔をさらに険しくして頷く。
「どこかお怪我でもされたんでしょうかぁ……? それとも、あの『仕事』という名の過酷なクエストで、恐ろしい魔王級の敵に遭遇してしまったとか……」
魔法使いのサリサが、心配のあまり今にも泣き出しそうな声でローブの裾を握り締めた。
千秋は時折、焚き火を囲みながら「上司」という謎の絶対権力者や、「クレーマー」という理不尽な魔物についての愚痴をこぼすことがあった。異世界の彼らには現代社会の仕組みは理解できないが、千秋が元の世界で、命を削るような過酷な労働に従事していることだけは察しがついていた。
「怪我ではあるまい。だが、魂が深く傷ついているのは間違いない。……おい、どうする? あの魔女殿が、あのように項垂れている姿など、俺は見たくないぞ」
顔に大きな刀傷を持つ重戦士バルガスが、腕を組んでイライラとした様子で足踏みをした。
いかつい大男だが、彼は千秋の作る『スモア(焼きマシュマロ)』や甘いお菓子の虜であり、誰よりも彼女の癒やしの空間を愛している男の一人である。
「アタシも同意見だね。あの子が悲しそうな顔をしてるなんて、こっちまで酒が不味くなっちまうよ」
酒場の女将であるミレーヌが、ドカリと切り株に腰を下ろし、集まった面々の顔をぐるりと見渡した。
「あんたたち。よく考えてみな。アタシたちはこれまで、週末になるたびにチアキちゃんのところに押しかけて、あの子の持ってくる信じられないくらい美味い飯を、ただ腹いっぱい食わせてもらってばかりだったじゃないか」
ミレーヌの言葉に、ジンツも、バルガスも、リネットも、サリサも、ハッとして息を呑んだ。
厚切りベーコン。焼き肉まん。ツヤツヤの白米に焼き鳥。豚汁、コーラ煮、おでん、焼き芋。
思い返せば、彼らの胃袋と魂は、千秋がもたらす『現代日本のキャンプ飯』によって、幾度となく救われ、至福の時を与えられてきたのだ。
「チアキちゃんは、自分の少ない稼ぎ(給料)を使って、わざわざアタシたちのために食材を用意してくれてたんだ。なのに、アタシたちは薪を割ったり、獲物を少し分けてやったりしただけで、本当の意味であの子をもてなしたことなんて、一度もなかった」
ミレーヌは立ち上がり、力強く拳を握り締めた。
「いつも美味い飯を食わせてもらってるんだ。今日くらい、アタシたちがチアキちゃんをもてなそうじゃないか!」
「……っ! 女将の言う通りだ! 俺たちは貰ってばかりだった! チアキが疲れてご飯を作れないっていうなら、今日くらい俺たちが作って、腹いっぱい食わせてやるべきだぜ!」
ジンツが目を輝かせ、ミレーヌの提案に真っ先に飛びついた。
「うむ! 騎士の誓いにかけて、あの恩人の笑顔を取り戻さねばなるまい。我々で、最高の野営飯を作ってやろうではないか!」
「賛成ですぅ! チアキ殿には、いっぱい魔法のお料理をご馳走になりましたから!」
「俺も協力するぞ。甘い菓子は作れんが、力仕事なら任せておけ!」
常連組の心は、完全に一つになった。
目標はただ一つ。落ち込んでいる千秋のために、自分たちの手で極上の野営飯を作り、彼女を笑顔にすること。
「でも、どうやってチアキちゃんを喜ばせるんだい? アタシたちの世界の質素なスープや塩焼きじゃ、あの子の舌は満足させられないかもしれないよ」
ミレーヌが現実的な問題を提起すると、ジンツがニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「なあ、お前ら。チアキが前に言ってた言葉を覚えてるか? 『自然の中でお肉を焼いて、みんなでワイワイ食べる。それが最高のバーベキューなんだよ』って」
「バーベキュー……。たしか、あの黒鉄の台(焚き火台)と、銀色の網を使って肉を焼く、チアキの故郷の神聖な儀式のことだな?」
リネットが記憶を辿りながら頷く。
「そうだ! チアキの奴、あの『バーベキュー』っていうのが一番元気が出るって言ってたんだ! だから、俺たちもそれをやるんだよ! 我々の手で『異世界流のバーベキュー』とやらを再現するのだ!」
ジンツの提案に、全員がおおっ!と歓声を上げた。
しかし、すぐにサリサが不安そうに手を挙げた。
「で、でも……。私たち、あの『ガスばーなー』とか、『だっちおーぶん』とか、チアキ殿が持っている魔法の調理器具を一つも持ってないですぅ……。それに、あの甘辛い不思議な味のお水(焼肉のタレ)もないですし……」
「馬鹿野郎、道具がねえなら知恵と力で補うんだよ! いいか、バーベキューの基本は『肉』と『火』だ! 肉を火で炙って食う! それさえできれば、立派なバーベキューなんだよ!」
ジンツが強引に理論を展開する。
ミレーヌもパンッと手を叩いてその場を仕切り始めた。
「よし、ジンツの言う通りだ! 細かいことは気にしない! 要は、美味い肉と野菜を豪快に焼いて、チアキちゃんの目の前にドンと出してやればいいんだよ! アタシたちの誠意を見せてやろうじゃないか!」
ここから、異世界人たちによる『千秋を元気付けるためのドタバタBBQ作戦』の具体的な役割分担が始まった。
「まずは一番大事な『肉』だ! これは俺に任せろ!」
ジンツが愛用の槍を握り直し、自信満々に胸を叩いた。
「チアキを唸らせるような、極上に美味くてデカい獲物を、この槍で必ず仕留めてきてやる! 夜の森での狩りなら、俺の右に出る奴はいねえからな!」
「頼んだよ、ジンツ。アタシは一度酒場に戻って、食材と酒を調達してくる。肉だけじゃあの子も飽きっちまうだろうから、根菜類と、あとはアタシの店で一番いいエールの樽を持ってくるよ!」
ミレーヌが力強く宣言する。
千秋に料理を振る舞うためには、食材だけでなく、彼女の大好きな『お酒』も必須であると、ミレーヌは酒場の女将としての嗅覚で理解していたのだ。
「ならば、私とバルガスで、チアキのテントのすぐ外に『調理場』を設営しよう」
リネットが真剣な顔で提案した。
「チアキの張った結界のすぐ外側なら、魔獣の心配もなく、火を熾しても彼女に気づかれにくい。そこで薪を集め、巨大な火を熾し、肉を焼く準備を整えておくのだ」
「うむ、任せておけ! 太い倒木をいくつか見繕って、最高の焚き火を作り上げてやる!」
バルガスも、薪割り要員としての腕を鳴らした。
「サリサちゃんと、マイちゃん、テオ君は、森の周辺で食べられるものを探しておくれ。チアキちゃん、キノコとか好きみたいだからね」
ミレーヌの指示に、いつの間にか会議に参加していた村の姉弟、マイとテオも元気よく「はいっ!」と返事をした。
「私、森の食べられる野草とキノコ、いっぱい知ってます! チアキさんを元気にするために、いっぱい集めます!」
「僕も手伝う! チアキねーちゃん、いつも甘いココアくれるから、絶対恩返しするんだ!」
「わ、私も、微力ながら火魔法の着火でお手伝いしますぅ!」
サリサも気合いを入れて杖を握り締めた。
こうして、全員の役割分担が完璧に決まった。
「よし! そうと決まれば作戦開始だ! 全員、一時間後にチアキの結界のすぐ外の広場に集合だ! 絶対に、チアキに気づかれるなよ!」
ジンツの号令と共に、異世界の住人たちは一斉に夜の森へと散っていった。
* * *
森の奥深く。
槍使いのジンツは、月明かりすら届かない漆黒の闇の中を、音もなく駆け抜けていた。
彼の五感は極限まで研ぎ澄まされ、獲物の微かな気配を探っている。
(チアキの奴……。いつも美味い肉を食わせてくれるからな。今日ばかりは、俺の狩人としてのプライドにかけて、絶対に最高の肉を持ち帰ってやる!)
ジンツが狙っているのは、ただのイノシシや野ウサギではない。
ファルマ大陸の森に生息する魔獣の中でも、その肉の柔らかさと旨味の強さで知られる『大角鳥』である。ダチョウのように巨大で、太く発達した二本の足には、驚くほどの弾力と極上の脂が詰まっていると言われている。
しかし、大角鳥はその名の通り凶暴な角を持ち、動きも非常に俊敏なため、夜の森で単独で狩るのは至難の業だった。
「……いたぜ」
ジンツの鋭い視線が、茂みの奥で休んでいる巨大な鳥のシルエットを捉えた。
彼は息を殺し、風下からゆっくりと、少しずつ距離を詰めていく。
頭の中には、千秋がいつも美味しそうに肉を頬張る笑顔と、今日見たあの悲しそうな背中が交互に浮かんでいた。
(あいつには、悲しい顔は似合わねえ。チアキには、美味いものを食って、大口開けて笑っててほしいんだよ!)
ジンツの足の筋肉が限界まで収縮し。
次の瞬間、彼は弾かれたバネのように暗闇の中を跳躍した。
「喰らえぇぇぇぇっ!! 特大BBQのための、極上の一撃だぁぁぁっ!!」
大角鳥が驚いて顔を上げた瞬間、ジンツの放った槍が、寸分の狂いもなくその太い首を正確に貫いていた。
ドズンッ! という重い音と共に、巨大な鳥が地に伏す。
「よっしゃああああっ!! 最高の肉、ゲットだぜ!!」
ジンツは仕留めた大角鳥の巨大な脚肉を切り出し、血抜きを手早く済ませると、満面の笑みでそれを肩に担ぎ上げた。
重さは優に数十キロはあるが、千秋を元気付けるためと思えば、羽毛のように軽く感じられた。
* * *
一方、千秋のキャンプサイトから数十メートル離れた森の広場では。
「ふんっ! はぁっ!」
重戦士のバルガスが、自慢の大斧を振るい、巨大な倒木を次々と手頃なサイズに叩き割っていた。
あっという間に、大人が数人囲めるほどの巨大な焚き火用の薪の山が完成していく。
「見事な腕力だな、バルガス。これなら、どんな巨大な肉でも一気に焼き上げることができるだろう」
リネットが感心しながら、バルガスが割った薪を丁寧に組み上げていく。
彼女は、千秋がいつもやっているように、空気が入りやすいように井桁状に薪を組むことを忘れない。見よう見まねではあるが、千秋のキャンプ技術は彼らの中に確実に息づいていた。
「よし、これで火の準備は整った。あとは……」
リネットは、木々の隙間から、千秋のテントの方をそっと覗き込んだ。
千秋はまだ、真っ暗な焚き火跡の前に座り込み、膝を抱えたまま微動だにしていなかった。彼女の背中からは、深く重い孤独感が滲み出ているようで、リネットの胸をチクリと締め付けた。
(雨の恐怖から救ってくれた女。寒さから守ってくれた女。常に温かい光と食事で、私たちに居場所を与えてくれた女……。チアキ、今度は私たちが、あなたの心に光を灯す番だ)
リネットは騎士剣の柄を固く握り締め、心の中で強く誓った。
その時、森の奥からバキバキと枝を折る音と共に、巨大な肉の塊を担いだジンツが帰還した。
「おーい! リネット、バルガス! 最高の肉を仕留めてきたぜ!」
「おおっ! それは大角鳥の脚肉ではないか! でかしたぞジンツ!」
「アタシも戻ったよー!」
反対側からは、酒場の女将ミレーヌが、大きな木箱と樽を抱えて戻ってきた。
木箱の中には、ゴツゴツとした無骨な根菜類と、酒場特製の粗塩。そして、冷えた極上のエールがたっぷりと入った樽である。
「マイたちも、キノコいっぱい採ってきました!」
「安全なやつだけ、いっぱい集めたよ!」
最後に、サリサと村の姉弟が、カゴいっぱいの野草とキノコを抱えて合流した。
時刻は深夜に差し掛かろうとしている。
しかし、結界の外の広場には、新鮮な巨大肉、無骨な野菜たち、美味い酒、そして何より、千秋を笑顔にするために集結した仲間たちの『圧倒的な熱意』が揃っていた。
「よし、全員揃ったな!」
ジンツが肉をドンッと地面に置き、全員の顔を見渡した。
「チアキはいつも、魔法みたいな道具で綺麗に料理を作ってる。俺たちには、あんな便利な道具はないし、味付けだって塩しかねえ。不格好で、焦げちまうかもしれない」
ジンツはニッと笑い、拳を突き出した。
「でも、気持ちだけは絶対に負けねえ! 俺たちの魂を込めた『異世界流バーベキュー』で、チアキの奴を絶対に笑顔にしてやるぞ!!」
「おおおおおおおっ!!!」
常連組たちの、気合いに満ちた静かな雄叫びが夜の森に響く。
落ち込む千秋を救うための、現代のキャンプギアを一切使わない、不器用でワイルドすぎる『ドタバタ異世界クッキング』の幕が、今まさに切って落とされようとしていた。




