第41話:金曜夜の重いため息
現代日本。時計の針は、すでに金曜日の午後九時を回ろうとしていた。
千秋は、誰もいなくなった薄暗いオフィスの片隅で、一人パソコンのモニターと睨み合っていた。キーボードを叩く指の動きには、いつものような軽快さはなく、ただただ重く、機械的な作業を繰り返すだけだった。
「……はぁ。やっと終わった……」
最後のデータを送信し、パソコンの電源を落とした瞬間、千秋の口から、今日だけで何度目になるかわからない深いため息が漏れた。
今週は、千秋にとって、入社以来最も精神をすり減らされた一週間だった。
発端は、水曜日に起きた他部署のミスだった。本来なら千秋の部署の責任ではないはずのトラブルだったが、なぜか責任の所在が曖昧なまま、千秋がその尻拭いを押し付けられる形になってしまったのだ。
理不尽な顧客からのクレーム対応。電話口で何十分も続く罵詈雑言。
それに加えて、上司からは「君の確認不足もあったんじゃないのか」と、まったく的外れな小言をネチネチと一時間以上も聞かされた。
(私、何も悪くないのに……。なんで私が、あんな風に言われなきゃいけないの……)
帰りの電車の中で、千秋は吊り革に掴まりながら、虚ろな目で窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
目は死んでおり、顔色は土気色。化粧もすっかり崩れて、ひどく老け込んだように見えた。
いつもなら、金曜日の仕事が終われば、スーパーでワクワクしながら週末のキャンプの食材を買い出し、ウキウキとした気分でアパートに帰るはずだった。
しかし、今日の千秋には、スーパーの煌々(こうこう)とした明かりの中に飛び込んでいく気力すら残っていなかった。
結局、駅前のコンビニで適当な缶ビールを一本と、自分用のおつまみを少しだけ買い、アパートへと逃げ帰るように歩を進めた。
「ただいま……」
誰もいない暗い部屋。
千秋は玄関にカバンを放り投げ、そのままベッドの上にドサリと倒れ込んだ。
身体は鉛のように重く、心の中にはドロドロとした黒いヘドロのような感情が渦巻いている。
「キャンプ……どうしようかな……」
千秋は天井のシミを見つめながら、ポツリと呟いた。
金曜日の夜は、祖父の遺品であるアンティークランタンに火を灯し、異世界の森へと渡る時間だ。あちらに行けば、ジンツやリネットたち、いつもの仲間たちが待っている。美味しいご飯を作り、焚き火を囲んで、たわいもない話をして笑い合う。それが、千秋の最大の癒やしであった。
しかし、今の彼女には、その「美味しいご飯を作る気力」が全く湧かなかったのだ。
誰かのために料理を作るということは、かなりのエネルギーを必要とする。食材を切り、火の番をし、味付けをして、洗い物をする。今の千秋には、その一連の作業をこなすための心の余裕が、一ミリも残されていなかった。
「……でも、行かないと……みんな、心配するかな……」
千秋はベッドから重い身体を起こし、部屋の片隅に置かれているアンティークランタンを見つめた。
もし今週行かなかったら、ジンツたちは「チアキに何かあったのか」と心配して、結界の外で一晩中待ち続けるかもしれない。それは申し訳ない。
「よし……。今日はもう、何もしないキャンプにしよう。ご飯も作らない。ただ、向こうで焚き火だけして、ぼーっと過ごそう」
千秋は決意し、最低限の着替えと、コンビニで買った缶ビールだけをトートバッグに詰め込んだ。クーラーボックスも、重いダッチオーブンも、今日は置いていく。
愛用のマウンテンパーカーを羽織り、ランタンの芯に火を灯した。
オレンジ色の温かい光が、暗い部屋を優しく照らし出す。
千秋は深く深呼吸をしてから、アパートの勝手口のドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開けた。
ガチャリ。
扉の向こう側に広がっていたのは、いつものように、澄み切った空気に包まれた異世界ファルマ大陸の静かな夜の森だった。
「……ふぅ」
千秋は扉を閉め、ランタンの光が作り出す『魔物除けの結界』の中へと足を踏み入れた。
森の空気はひんやりと冷たく、都会の淀んだ空気とは全く違う、清浄な匂いがする。いつもなら、この空気を吸い込んだ瞬間に「帰ってきた!」というワクワク感が込み上げてくるのだが、今日の千秋の心は、まだ黒いヘドロに覆われたままだった。
千秋は無言のまま、いつもの場所にテントを張り始めた。
ペグを打つハンマーの音も、いつもよりどこか力なく、鈍い音がする。
テントの設営が終わると、千秋は折りたたみ式のローチェアを一つだけ組み立て、そこにドカリと深く腰を下ろした。
「……」
目の前には、石で組まれた焚き火の跡がある。
いつもなら、すぐに薪を組んで火を熾し、お湯を沸かしたり、肉を焼いたりする準備に取り掛かるところだが。
千秋は火のついていない、ただの黒い炭の跡を、虚ろな目でぼんやりと見つめ続けた。
動きたくない。
何もしたくない。
ただ、この静かな森の中で、自分一人だけで、すべてを忘れてしまいたかった。
千秋はトートバッグから缶ビールを取り出し、プシュッと音を立てて開けた。
冷たいビールを一口飲むが、不思議なことに、いつもなら「くぅ〜っ!」と声が出るほど美味しいはずのビールの味が、今日はただ苦いだけの液体のようだった。
「……美味しくないなぁ」
千秋は缶ビールを持った手を膝の上に下ろし、再び火のついていない焚き火跡を見つめた。
ふと、上司のネチネチとした声や、理不尽なクレーマーの怒鳴り声が脳裏にフラッシュバックし、千秋はギュッと目を閉じて頭を振った。
(ダメダメ。せっかくこっちの世界に来たんだから、仕事のことは忘れなきゃ……)
そう自分に言い聞かせるが、一度落ち込んだ心は、そう簡単には浮上してくれない。
千秋は膝を抱え、冷たい夜の森の空気に包まれながら、静かに、そして重いため息を吐き出した。
* * *
その頃。
千秋の結界から少し離れた森の奥で、数人の異世界人たちが、ヒソヒソと身を隠すようにして集まっていた。
「……おい、見たか。チアキの奴、全然動かねえぞ」
「うむ……。火も熾さず、ただ暗闇の中で座り込んでいるな。しかも、いつもの美味そうな飯の匂いも全くしてこない」
木の陰から様子を窺っていたのは、槍使いのジンツと、女騎士のリネットだった。
彼らは、金曜日の夜に千秋がやってくることを知っており、「明日のお昼は何を作ってくれるのだろう」とワクワクしながら、こっそりと様子を見に来ていたのだ。
しかし、彼らが目にしたのは、いつもの底抜けに明るい千秋の姿ではなく、完全に生気を失い、落ち込んでいる悲しそうな背中だった。
「どうしたんだろう……。どこか、お怪我でもされたんでしょうかぁ?」
魔法使いのサリサが、心配そうにローブの裾を握り締める。
「いや、怪我というよりは……心が深く傷ついているような、そんな痛ましい空気を感じる。まるで、過酷な戦場から生還した直後の兵士のような、虚ろな目をしていた」
リネットが真剣な表情で分析する。
そこに、大きな樽を抱えた酒場の女将、ミレーヌがやってきた。
「なんだいなんだい、みんな揃ってコソコソと。チアキちゃん、来てるんだろ? 早く行って一緒に飲もうよ!」
「しっ! 声がデカいぜ女将! チアキの奴、今日は明らかにおかしいんだ。すっげえ落ち込んでるみたいでよ」
「えっ? あのいつも元気なチアキちゃんがかい?」
ミレーヌも驚いて、木の間から千秋の姿を確認する。
真っ暗なテントの前で、火もない場所でポツンと一人座り込んでいる小さな背中。それは、誰の目から見ても、明らかに「助けを求めている」状態に見えた。
「……こりゃあ、放っておけないね」
ミレーヌが腕を組み、力強く頷いた。
「チアキちゃんには、いつもアタシたち、美味しいご飯を作ってもらってばかりじゃないか。アヒージョだの、コーラ煮だの、ホイル焼きだの……。アタシたちの胃袋は、もうあの子なしじゃ生きていけないくらいに満たされてるんだよ」
「その通りだ。魔女殿の料理には、幾度となく命と魂を救われてきた」
いつの間にか合流していた重戦士のバルガスも、腕を組んで深く同意した。
「だったら、今日くらいはアタシたちがチアキちゃんをもてなす番じゃないのかい? あの子が料理を作れないくらい疲れてるなら、アタシたちが作って、あの子を元気付けてやろうじゃないか!」
ミレーヌの言葉に、全員の目にハッとした光が宿った。
「そ、そうだな! いつも貰ってばかりで、俺たちは何も返せてなかった! 今日こそ、俺たちの手でチアキを笑顔にするんだ!」
「うむ! 我々の手で『異世界流のバーベキュー』とやらを再現し、チアキの腹を満たしてやろうではないか!」
ジンツが拳を握り締め、リネットが騎士の誇りにかけて力強く宣言する。
「おっしゃ! そうと決まれば善は急げだ! 俺は最高の肉を狩ってくる!」
「私は、森の奥で食べられる野草とキノコを集めてきますぅ!」
「アタシは酒場から、とびっきりのエールと野菜を持ってこよう。リネットとバルガスは、火の準備と調理場の確保を頼むよ!」
ミレーヌの的確な指示により、異世界人たちの『千秋を元気付けるための極秘ミッション』が、静かに、しかし凄まじい熱量を持ってスタートした。
千秋が一人、暗闇の中で落ち込んでいる間に。
彼女の知らないところで、異世界の友人たちが、不器用ながらも全力で恩返しをしようと、森を駆け回り始めていたのである。
金曜日の夜は、まだ終わらない。
千秋にとって、決して忘れられない『異世界流の不器用なBBQ』の幕開けが、すぐそこまで迫っていた。




