第4話:着火剤=古代魔法?
「終わった……! 今週も無事に生き延びた……っ!」
金曜日の夜。千秋はアパートの自室に転がり込むなり、歓喜の雄叫びを上げた。
この一週間は地獄だった。月末の締め作業に加え、発注ミスによるトラブル処理、さらには上司の終わりの見えない武勇伝という名の説教。どれもこれも千秋の精神をゴリゴリと削り取っていくものだったが、彼女の心は決して折れなかった。
なぜなら、週末にはあの「最高の完ソツ(完全ソロ)無料キャンプ場」が待っていると知っていたからだ。
「ふふふ……今日の私は一味違うわよ。なんたって、近所のスーパーでちょっと奮発して色々買い込んできたんだから」
千秋はパンパンに膨れ上がったエコバッグから、今週末の相棒となる食材たちをクーラーボックスへと移し替えていく。そして、先週の反省を活かし、今回は少し多めに食材を見繕っていた。
あの異世界の腹ペコ槍使い、ジンツが今回もやってくる可能性が高いからだ。
「薪拾いは全部俺がやるから!」という彼の土下座宣言が本当ならば、千秋にとってこれほどありがたい話はない。キャンプにおける薪の調達と小割りにする作業は、楽しい反面、非常に体力を消耗するのだ。美味しいご飯でその労力を買えるなら、安い投資である。
「よし、準備完了! いざ、癒やしの森へ!」
千秋は先週と同じように、祖父の遺品であるアンティークのオイルランタンに火を灯した。
シュボッという音と共にオレンジ色の炎が揺らめく。そのランタンを片手に持ち、勝手口の重い鉄扉をガチャリと開けた。
冷たく澄んだ空気、むせ返るような緑の匂い、そして見渡す限りの深い森。
たった一週間ぶりの光景だが、千秋にとってはまるで実家に帰ってきたかのような安心感があった。
手慣れた動作でワンポールテントを設営し、荷物を運び込む。
ランタンの光が届く半径二十メートルほどの空間は、相変わらず虫一匹、魔物一匹入ってこない絶対的な安全地帯となっていた。千秋は「虫除けスプレーいらずで本当に最高の立地だなぁ」と呑気に考えながら、冬用のシュラフに潜り込み、一週間の疲れを癒やすべく深い眠りについた。
翌朝。
土曜日の爽やかな木漏れ日と共に目を覚ました千秋が、テントのファスナーを開けて外に出た瞬間だった。
「チアキ!! おはよう!! 約束通り、薪を持ってきたぜ!!」
「うおっ!?」
テントの目の前に、ボロボロの革鎧を着た青年――ジンツが、満面の笑みで立っていた。
いや、立っているだけではない。彼の背後には、まるで要塞の壁のようにうず高く積まれた『薪の山』があった。
「ど、どうしたのこれ……業者でも呼んだ?」
「夜明け前から森中を駆け回って集めてきたんだ! 火持ちのいい広葉樹を中心に、着火用の細い枝もちゃんと分けておいたぜ。これで三日は火を燃やし続けられるはずだ!」
ジンツは尻尾を千切れるほど振っている大型犬のような目で、千秋を見つめてきた。
その額には滝のような汗が流れ、息も絶え絶えになっている。どう見ても、一人の人間が数時間で集められる量ではない。飯に対する執念が、彼の肉体の限界を突破させたのだろう。
「す、すごい……。完璧な薪のラインナップだわ。ジンツさん、あなたキャンパーとしての素質があるかもしれない」
「キャンパーってのが何だかよくわからんが、褒められてるのはわかるぜ! で、チアキ! 今日の朝飯はなんだ!? あの神の肉は出ないのか!?」
「あはは、慌てない慌てない。とりあえず、顔でも洗って一息ついててよ。今から火を起こすから」
千秋は苦笑しながら、焚き火台の前に折りたたみチェアを広げ、腰を下ろした。
ちょうどその頃。
千秋のキャンプ地から少し離れた森の茂みの影に、息を潜めてこの様子を窺っている一つの影があった。
「……信じられない。こんな『魔境』のど真ん中に、あんなに無防備にテントを張っているなんて……」
影の正体は、サリサという名の少女だった。
彼女は近隣の街にある魔法学院に通う、いわゆる「落ちこぼれ」の魔法使いだ。ローブを身に纏い、手には身の丈ほどの杖を握っているが、その表情は疲労と恐怖で青ざめている。
サリサは学院の進級課題である「希少な魔法薬の素材(マンドラゴラの根)」を採取するために、危険を承知でこの森に足を踏み入れていた。しかし、森の奥深くは獰猛な魔獣がうろつく危険地帯であり、少しの物音にも怯えながら彷徨っていたのだ。
そんな中、彼女は森の不自然な空間に気づいた。
ある一定の境界線を越えると、なぜか魔獣の気配が完全に消失し、不気味なほど平和な空気が流れている場所があったのだ。
警戒しながら茂みの奥から覗き込むと、そこには奇妙な形の布の家と、見たこともない服装をした黒髪の女。そして、冒険者ギルドで「無鉄砲な槍使い」として少しだけ名の知られているジンツが、なぜか犬のように尻尾を振って女に付き従っている光景があった。
「あのジンツって冒険者が、あんなにへりくだるなんて……。あの黒髪の女の人、一体何者なの? まさか、高名な貴族? それとも、ギルドの幹部……?」
サリサはゴクリと唾を飲み込み、茂みの隙間から目を凝らした。
千秋が、焚き火台の前に座り、何やら作業を始めようとしている。
「ジンツさん、せっかく良い薪を集めてくれたんだし、今日はマッチやライターを使わないで、ちゃんと『儀式』からやろうかな」
「ギシキ? なんだそれは。神に祈るのか?」
「まあ、キャンパーにとっての祈りみたいなもんよ。不便を楽しむのがキャンプの醍醐味だからね」
千秋が楽しげに呟きながら取り出したのは、一本の短い「麻紐」だった。
彼女は麻紐を五センチほどの長さに切り、それを指先で丁寧にほぐし始めた。より合わさっていた繊維が解け、やがてフワフワとした鳥の巣のような形に変わっていく。
それを焚き火台の中心に置き、さらに周囲にジンツが拾ってきた極細の小枝をティンピー(円錐状)に組み上げていく。
茂みに隠れているサリサは、その一連の動作を見て目を丸くした。
(あ、あれは……『魔力陣』の構築!? いや、触媒を用いた古代の儀式魔法!? あのフワフワした素材を中心に、木の枝で幾何学的な紋様を作っている……間違いない、あれは高度な魔法を発動させるための準備だわ!)
サリサの魔法学院で得た中途半端な知識が、千秋のただの『ブッシュクラフト(自然の素材を活かしたキャンプ技術)』を、恐るべき古代魔法の儀式へと勝手に脳内変換していく。
「よし、準備完了。それじゃあ、着火するよ」
千秋はポケットから、二つの小さなアイテムを取り出した。
一つは、黒くて太い金属の棒。
もう一つは、ギザギザのついた小さな金属のプレート。
現代のキャンパーたちに愛用されている着火道具、『ファイヤースターター』である。黒い棒はマグネシウムで作られており、これをプレート(ストライカー)で強く擦ることで、約三千度という超高温の火花を発生させる道具だ。
「えーと、マグネシウムを少しだけ削って、麻紐に落として……よし」
千秋はストライカーの角を使い、マグネシウムの棒の表面をガリガリと削り、銀色の粉をほぐした麻紐の上にまぶした。
そして、マグネシウムの棒を麻紐のすぐ近くに構え、ストライカーを力強く押し当てた。
――シュワッ!!
次の瞬間、サリサの視界が真っ白に染まった。
千秋の手元から、太陽の欠片が弾けたかのような、強烈で眩い光のシャワー(火花)がほとばしったのだ。
三千度の火花は、まぶしてあったマグネシウムの粉末に引火し、フワフワの麻紐を一瞬にして包み込んだ。
ボワッ、という低い音と共に、麻紐から美しいオレンジ色の炎が立ち上がる。
千秋は慌てることなく、その小さな炎の上にさらに細い枯れ枝を乗せ、息をフーフーと吹きかけて酸素を送り込む。火はあっという間に枝に燃え移り、パチパチと心地よい音を立てて安定した焚き火へと成長していった。
「よし、着火成功! やっぱりファイヤースターターで火をつけると、キャンプしてるって実感湧くわー」
「おおおおっ!! なんだ今の光は!? チアキ、あんた魔女だったのか!?」
ジンツが驚いて腰を抜かしているが、千秋は「ただの摩擦だよ、摩擦。理科で習わなかった?」と笑って取り合わない。
しかし。
茂みの影でその一部始終を目撃してしまったサリサの精神は、限界を迎えていた。
彼女の全身はガタガタと激しく震え、顔面は恐怖と驚愕で真っ白になっている。
(む、無詠唱……!? 無詠唱で炎を出した!? しかも、なんの属性の揺らぎも感じなかった……純粋な無属性の炎魔法!?)
サリサの常識では、魔法を発動させるには「詠唱」が必要不可欠だった。
炎を生み出すには、精霊に語りかけ、魔力を練り上げ、「燃え上がれ、火の精霊よ!」といった言葉を紡がなければならない。優れた魔法使いであればあるほど詠唱は短くなるが、完全に無詠唱で魔法を発動できる者など、歴史上の大賢者か、伝説に語られるバケモノ級の魔物くらいなものである。
さらに、サリサの目を狂わせたのは、千秋が使った『ファイヤースターター』だった。
(あの黒い棒……ただの鉄じゃない。あれは恐らく、莫大な魔力が極限まで圧縮された『高純度の古代魔力結晶』! それを、あの金属の板で擦り合わせることで、意図的に魔力の暴走を引き起こして炎に変換したんだわ! あ、あんな高度で危険な魔力制御を、あんな涼しい顔でやってのけるなんて……!)
マグネシウムの棒を擦っただけである。
しかし、魔法学院の落ちこぼれであるサリサの目には、それが『神業のごとき超高等魔法技術』にしか見えなかった。
千秋が削っていたマグネシウムの粉末を、「古代語の呪文の代わりとなる特殊な触媒」だと完全に誤認したのだ。
「す、すごすぎる……。学院の先生だって、あんな魔法は絶対に使えない……。あの人は、一体どれほどの年月を生きている大魔女なの……?」
サリサの瞳に、恐怖ではなく、狂信的なまでの尊敬の光が宿り始めた。
自分は魔法の才能がないと馬鹿にされ続け、学院でも常に最下位。このままでは退学になり、田舎の村に帰って畑を耕すしかない運命だった。
しかし、もし。
もし、目の前にいるあの大魔女に教えを乞うことができれば。あの超高等な『古代魔法(ただのブッシュクラフト技術)』の片鱗でも学ぶことができれば、自分の人生は大きく変わるのではないか。
サリサはゴクリと喉を鳴らした。
相手は未知の大魔女だ。下手な接触をすれば、あの謎の光で消し炭にされるかもしれない。
しかし、彼女の手元でパチパチと燃え盛る炎の暖かさと、その横で「さて、朝ごはんにしよっか」と微笑む千秋のどこか気の抜けた横顔が、サリサの背中を強烈に後押ししていた。
(行くしかない……! ここで逃げたら、私の一生は落ちこぼれのままだわ!)
サリサは両手で杖を強く握り締めると、意を決して茂みの中から立ち上がった。
そして、千秋の張ったランタンの結界を(ジンツの時と同様、敵意がないためあっさりと)すり抜け、焚き火の前で朝食の準備を始めようとしていた千秋の背後へと駆け寄った。
「あ、あのっ……!!」
突然背後から聞こえた甲高い声に、千秋とジンツはビクッと肩を揺らして振り返った。
そこには、ボロボロのローブを着た小柄な少女が、涙目でガタガタと震えながら立っていた。
「……えっと、どちらさま?」
千秋がきょとんとして首を傾げる。
次の瞬間、サリサはジンツが昨日やったのと全く同じように、地面に両膝をつき、勢いよく額を土に擦り付けた。完全な土下座である。
「お、お願いですっ!! 私を、私をあなたのお弟子にしてくださいっ!!」
「……はい?」
「先ほどの無詠唱の炎魔法、そして古代触媒を用いた神業の魔力制御……全て見せていただきました! どうか、落ちこぼれの私に、その偉大な魔法の教えを授けてください、大魔女様っ!!」
森の中に、サリサの必死の叫びが木霊した。
千秋は右手にファイヤースターター、左手にストライカーを持ったまま、完全に思考が停止していた。
(大魔女……? 古代触媒……?)
千秋の視線が、手元のマグネシウムの棒に落ちる。
アウトドアショップで千五百円で買った、ただのマグネシウムの棒である。
「いや、これただのマグネシウムと摩擦だから……。魔法とかじゃなくて、科学っていうか、物理っていうか……」
「マ、マグネシウム……!? なんて恐ろしい響き……それが、あの漆黒の魔力結晶の真の名なのですね!? やはり、失われた古代語……!!」
「違う違う! そういうファンタジーなやつじゃなくて!」
千秋がいくら否定しても、サリサの耳にはもはや届いていなかった。彼女の頭の中では、「謙虚に身分を隠す大魔女」という設定がガッチリと組み上がってしまっているのだ。
「チアキ、あんたやっぱり凄い人だったんだな! 俺、こんな凄い人の薪割りを任せてもらえて光栄だぜ!」
「ジンツさんまで変な勘違いしないでよ! 私はしがない事務職OLだってば!」
泣きながら土下座する魔法使いの少女と、謎の感動に包まれている槍使いの青年。
千秋は深々とため息をついた。
どうやら今週のキャンプは、先週以上に騒がしく、そして面倒なことになりそうである。
「はぁ……とりあえず、頭上げてよ。土下座されるの、今週で二回目なんだけど」
千秋の異世界ソロキャンライフは、彼女の意図とは全く無関係な方向へと、また一歩深く足を踏み入れていくのだった。




