第3話:塩コショウは魔法の粉
「く、食うっ!! なんでもするから食わせてくれぇぇっ!!」
静かな森の朝に、悲痛なまでの叫び声が響き渡った。
地面に突っ伏し、泥だらけの顔を上げて懇願する武装した青年。その視線の先には、千秋が愛用のスキレットで焼き上げたばかりの『極厚切りベーコンと目玉焼き』がある。
千秋は片手にトングを持ったまま、呆気に取られて青年を見下ろしていた。
(あれ……?)
そこで千秋は、ある極めて重大な事実に気がついた。
今、この見知らぬ青年は間違いなく叫んだ。「なんでもするから食わせてくれ」と。
そして自分は、その言葉の意味を寸分の狂いもなく、完璧に理解している。
相手はファンタジーRPGから飛び出してきたような、いかにも異世界人といった風貌だ。着ている革鎧の意匠も、背負っている使い込まれた槍も、現代日本には絶対に存在しない本物の質感がある。
それなのに、なぜ言葉が通じているのか。
「日本語……通じてる? ていうか、向こうの言葉が日本語に聞こえてるだけ?」
千秋が不思議そうに呟くと、青年は切羽詰まった表情で必死に頷いた。
「に、ニホンゴというのが何かはわからんが、あんたの言葉はちゃんと俺の耳に届いてる! 言葉なんかどうでもいい! 頼む、死にそうなんだ……!」
実はこれ、千秋がアパートから持ち込んできた祖父の遺品『アンティークのオイルランタン』が持つ、隠された副次効果だった。
ランタンが灯されている間、周囲に張られる強力な結界内では、言語の壁が自動的に翻訳される『魔道具のパッシブスキル』が発動しているのだ。しかし、そんなファンタジーな設定を知る由もない千秋は、「まあ、言葉が通じるならいっか」と、持ち前の図太さでわずか三秒で思考を放棄した。
「わかった、わかったから。そんな泥だらけの顔で泣かないでよ。ほら、そこに座って」
千秋は折りたたみ式のローチェアの隣に、荷物置き用の小さなアルミテーブルを引き寄せた。
そして、アウトドア用のシェラカップ(取っ手のついた金属製の器)に、スキレットの上でジュージューと音を立てている極厚ベーコンを一枚と、完璧な半熟状態の目玉焼きを一つ、無造作にスライドさせて盛り付けた。
仕上げに、手元にあったミルをカリカリと回し、粗挽きの黒胡椒をふんだんに振りかける。スパイシーで刺激的な香りが、ベーコンの熱気と共にフワリと立ち昇った。
「はい、お待たせ。厚切りベーコンエッグ。フォーク使える?」
「あ、あ、ああ……っ!」
千秋から木製のフォークを手渡された青年は、震える手でそれを受け取った。
彼の名はジンツ。近隣の街を拠点に活動する槍使いの冒険者である。
ジンツの瞳は、目の前に差し出された金属の器に完全に釘付けになっていた。
なんだ、この神々しい食べ物は。
分厚く切り出された肉は、表面がキツネ色にこんがりと焼け、断面からは透明な肉汁と脂がとめどなく溢れ出している。その隣に添えられた、太陽のように鮮やかなオレンジ色の黄身を持つ丸い食べ物。そして、全体にまぶされた黒い粒からは、鼻の奥をツンと心地よく刺激する魔法のような香りが放たれている。
異世界ファルマ大陸の平民や下級冒険者の食生活は、極めて質素なものだ。
普段口にする肉といえば、筋張って硬い野うさぎの肉か、塩漬けにしてカチカチになった保存肉をスープで煮込んだものくらい。塩は精製度の低い粗塩で、苦味が強い。胡椒などのスパイスに至っては、南方の国から輸入される超高級品であり、王族や大貴族しか口にできない「金と同等の価値を持つ粉」である。
そんな過酷な食事情の中で生きてきたジンツにとって、現代日本の食品メーカーが英知を結集して作り上げた「旨味の塊(市販のブロックベーコン)」と、徹底した品質管理で生産された「濃厚な卵」、そしてスーパーで数百円で買える「粗挽き黒胡椒」のコンボは、まさにオーパーツに等しい存在だった。
「い、いただきます……っ!」
ジンツは祈るように言葉を発すると、木製のフォークを分厚いベーコンに突き刺した。
ズブッ、という小気味よい感触。硬い保存肉とは違う、弾力のある柔らかな手応えに驚愕しながら、ジンツは大きな口を開けてベーコンに喰らいついた。
サクッ。
ジュワァァァァァァァッ……!!
「――ッ!?」
一口噛み締めた瞬間、ジンツの脳内に雷が落ちた。
表面のカリッと焼き上げられた食感を突破した直後、分厚い肉の繊維の中から、信じられないほどの量の肉汁と脂が口の中いっぱいに爆発したのだ。
燻製された豚肉の香ばしい風味が鼻腔を抜け、凝縮された強烈な豚の旨味が舌を蹂躙する。
そして何より、ジンツを驚愕させたのは「塩気」だった。
苦味の全くない、研ぎ澄まされた純度の高い塩味。それが肉の脂の甘みと完璧なバランスで混ざり合い、旨味を何十倍にも引き上げている。
さらに、追い打ちをかけるのが黒胡椒の存在だ。
ガリッ、と奥歯で黒い粒を噛み砕いた瞬間、ピリッとした鮮烈な刺激と爽やかな香りが口の中で弾け、脂のしつこさを一瞬でリセットしてしまう。
「な、なんだこれは……!? 美味い……! 美味すぎる……ッ!!」
ジンツの目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
美味すぎて涙が出るなどという経験は、彼の二十年余りの人生で一度たりともなかった。
彼は半狂乱になりながら、二口目、三口目とベーコンを貪り食う。噛めば噛むほど溢れ出る旨味の奔流に、彼の思考は完全にショートしていた。
「あ、目玉焼きの黄身、潰して肉に絡めるともっと美味しいよ」
コーヒーをすすりながら、千秋がのんびりとした声でアドバイスをする。
ジンツは言われるがまま、フォークの先で鮮やかなオレンジ色の黄身をプツリと突いた。
とろり、と濃厚な黄身が流れ出し、カリカリのベーコンの表面を黄金色にコーティングしていく。それをそのまま口へと運ぶ。
「~~~~~~ッ!!」
もはや声すら出なかった。
暴力的なまでのベーコンの旨味と塩気を、卵の黄身のまろやかさが優しく包み込み、未知の味覚の次元へと昇華させている。
この世にこれほど美味いものが存在したのか。いや、これは幻覚だ。飢え死にする寸前の俺が見ている、天国が見せる幻想に違いない。
そう思いながらも、ジンツの手は止まらず、わずか三十秒足らずで極厚ベーコンと目玉焼きを跡形もなく胃袋へと消し去ってしまった。
「ぷはぁっ……! 食った……生き返った……」
空になったシェラカップを見つめ、ジンツは呆然と呟いた。
胃袋が心地よい熱を持ち、全身の細胞にみるみると活力が蘇っていくのを感じる。
「はい、食後のコーヒー。熱いから気をつけてね」
呆けたようになっているジンツに、千秋がチタン製のマグカップを手渡した。
中には、先ほど千秋が丁寧にドリップした淹れたてのブラックコーヒーが入っている。
ジンツは恐る恐るマグカップを両手で包み込み、黒い液体に口をつけた。
ズズッ……。
「……苦い。だが……なんだこの、ホッとする香りは……」
ベーコンの脂で満たされていた口の中を、コーヒーの心地よい苦味と深い焙煎の香りが、さっぱりと洗い流していく。
肉を食った後の、この黒い液体のなんと美味いことか。
温かい飲み物が胃の腑に落ちていくのを感じながら、ジンツはようやく自分の置かれている状況と、目の前の現実を理解し始めた。
自分は死にかけていたところを、この見知らぬ女性に助けられたのだ。
それも、王侯貴族ですら口にできないような、極上の「神の食い物」を与えられて。
「あ、あの……俺はジンツ。近所の街で冒険者をやってる。魔獣に襲われて荷物を失って、森を彷徨っていたんだ。……あんたは?」
「私は千秋。しがない事務職OL……じゃなくて、ただのキャンパーだよ。週末の休みを利用して、キャンプしに来てるの」
ジンツには「ジムショクオーエル」も「キャンパー」も意味がわからなかったが、彼女がとてつもない料理の腕と、魔法の道具を持つ凄腕の魔女かなにかであることだけは察しがついた。
ジンツは空のマグカップをテーブルに置くと、突然、地面に両手と両膝をついた。
そして、千秋に向かって深々と頭を下げ――いや、額を思い切り泥に擦り付ける勢いで平伏した。完全な『土下座』である。
「ジンツさん!? ちょっと、急にどうしたの!?」
「頼む……!!」
ジンツは地面に額を擦り付けたまま、大声で叫んだ。
「さっきの神の食い物を……もう一度、俺に食わせてくれ! あんな美味いものを知ってしまったら、もう街の酒場で出る硬い肉なんか食えない! なんでもする! 次から薪拾いは全部俺がやるから! だから、どうかまた飯を食わせてくれぇぇっ!!」
必死の懇願だった。
異世界におけるスパイスの価値を知るジンツにとって、あんな魔法の粉(黒胡椒)を惜しげもなく使える千秋は、とてつもない大富豪か大魔女に違いない。怒られて魔法で消し炭にされるかもしれないという恐怖もあったが、それ以上に彼の『胃袋』が、千秋の手料理に完全に屈服してしまっていたのである。
一方、泣きながら土下座をする屈強な青年を見下ろして、千秋のキャンパーとしての脳細胞が高速で回転し始めた。
(薪拾いを、全部やってくれる……?)
千秋にとって、ソロキャンプは至福の時間だが、面倒な作業がないわけではない。
特に、焚き火に使う薪を拾い集めたり、それを斧で割ったりする作業は、重労働でかなり疲れる。さらに、食後のベタベタになったスキレットやクッカーの洗い物も、冷たい水でやらなければならない面倒なタスクの一つだ。
(この筋肉ムキムキのお兄さんに、薪割りとか洗い物とか、力仕事と雑用を全部任せられるなら……私はただ座って料理を作って、焚き火を眺めるだけでよくなるってこと?)
それはまさに、ソロキャンパーにとっての『夢の全自動グランピング状態』の構築を意味していた。
飯を多めに作るくらい、どうってことはない。どうせいつも作りすぎて余らせてしまうのだから、食べる専任のダイソン(吸引機)がいてくれるのは、むしろありがたいくらいだ。
千秋の口角が、ニヤリと悪魔的に吊り上がった。
「……いいよ。その代わり、本当にこき使うからね?」
「ほんとか!? ああっ、ありがとう! あんたは女神だ! 命に代えても薪を集めてみせる!!」
女神と呼ばれ、満更でもない顔をする千秋。
こうして、ただの事務職OLと、異世界の駆け出し冒険者という、絶対に交わるはずのなかった二人の間に、「飯と労働を交換する」という奇妙な契約が結ばれたのだった。
その日、ジンツの働きぶりは凄まじかった。
森中を駆け回り、千秋が数日は持ちそうなほどの大量の枯れ木を集め、自慢の槍を器用に使って全て手頃なサイズに薪割りをしてのけた。さらに、近くの小川で水を汲み、千秋が使った後のスキレットの油汚れまで、砂と葉っぱを使ってピカピカに磨き上げてしまった。
千秋はお礼として、昼食には「レトルトカレーの湯煎とメスティン炊飯」、夕食には「市販の焼き鳥缶詰のアヒージョ」という、これまたキャンパーの手抜き飯の王道を振る舞ったが、ジンツはいちいち「魔法の粉(ただのカレー粉やガーリックパウダー)だ!!」と号泣しながら完食した。
そして、あっという間に時間は過ぎ、日曜日の夕方がやってきた。
「さてと。そろそろ帰らなきゃ」
千秋がぽつりと呟いた。
周囲を照らしていたアンティークランタンの炎が、チロチロと弱々しく揺れ始めている。タンクに入れていたパラフィンオイルが尽きかけているのだ。
千秋は、このオイルが尽きると元の世界へ強制送還される……というシステムには気づいていなかったが、「オイルも切れるし、明日から仕事だから帰ろう」と、極めて現実的な理由で撤収作業を始めていた。
現代のキャンプギアの撤収は驚くほど早い。
テントのポールを抜き、生地をパタパタと畳み、寝袋を圧縮袋に押し込む。わずか三十分足らずで、千秋の周りには何もなくなった。
その魔法のような手際に、ジンツは目を丸くして見入っていた。
「チアキ……帰っちまうのか?」
「うん。明日の朝から、また『仕事』があるからね。現実に戻らなきゃ」
「そ、そうか……。俺は、またここで待っててもいいか? 来週も、その……飯を……」
「もちろん。次来る時は、もっとお肉買ってくるね。ジンツさんも、薪割りよろしく!」
「おう! 任せとけ!」
満面の笑みで親指を立てるジンツに見送られながら、千秋は両手に荷物を抱え、森の中にポツンと浮かぶ『アパートの勝手口のドア』のノブを回した。
ガチャリ。
ドアの向こうには、見慣れた狭くて薄暗い1Kのアパートの部屋が待っていた。
千秋がドアの向こう側へと足を踏み入れ、最後にバタンと扉を閉めた瞬間。
シュボッ、と音を立ててランタンの最後のオイルが燃え尽き、同時にドアそのものが空間からフッと掻き消えた。
残されたジンツは、何もない空間に向かって深く一礼すると、「よし、来週までに最高級の薪となる『香木』を探しておくぞ!」と意気揚々と街へ帰っていった。
アパートの部屋に戻った千秋は、荷物を床に下ろすと、どっと疲労感に襲われてベッドに倒れ込んだ。
「あー……疲れた。でも、なんか変な週末だったな」
異世界に行って、見知らぬ青年にベーコンを食わせた。
まるで夢のような出来事だが、クーラーボックスの中は空っぽだし、洗われたスキレットはピカピカだ。
「……まあ、いっか。来週は何作ろうかな」
明日からまた、地獄の月曜日が始まる。
しかし、千秋の心は不思議と軽かった。彼女にとって、あの異世界の森は、誰にも邪魔されない最高の「秘密のキャンプ場」となったのだから。
こうして、千秋の記念すべき第一回『異世界週末ソロキャンプ』は、大成功のうちに幕を閉じたのだった。




