第2話:森の朝と、釣られる男
チュン、チュン、ピロロロロ……。
ピィーッ、ホロロロロロ……。
心地よい、しかしどこか聞き慣れない鳥たちのさえずりで、千秋はゆっくりと目を覚ました。
視界いっぱいに広がるのは、愛用しているカーキ色のワンポールテントの内側だ。冬用の分厚いマミー型ダウンシュラフ(寝袋)に包まれた体はポカポカと暖かく、まるで雲の上にいるような快適さだった。
だが、テントの生地越しに伝わってくる外の空気は、ピリッとするほど冷たく、そして澄み切っていた。
大きく深呼吸をすると、マイナスイオンを限界まで濃縮したような、むせ返るほど濃厚な森の香りが肺の奥深くまで入り込んでくる。現実世界の、あの排気ガスとコンクリートにまみれた東京の空気とは、明らかに成分からして違っていた。
「んんっ……あー、よく寝たぁ……」
千秋はシュラフの中で両腕をぐーっと伸ばし、思い切り伸びをした。
金曜日の夜にアパートの勝手口を開けたら、なぜか大自然のど真ん中に繋がっていた――という昨夜の出来事を思い出し、千秋はわずかに動きを止めた。
まさか夢だったのだろうか。慌ててシュラフのジッパーを下ろし、テントの入り口のファスナーをジーッと開けて外を覗き込む。
「……うん。やっぱり、夢じゃないね」
目の前に広がっていたのは、見渡す限りの鬱蒼とした深い森だった。
朝の柔らかな木漏れ日が、巨大な樹々の間から何本もの光の筋となって差し込んでいる。苔むした地面は朝露に濡れてキラキラと輝き、名も知らぬシダ植物が風に揺れていた。
そして、千秋の視線の先には、少し毒々しいほどに鮮やかな青紫色をした羽を持つ鳥が、枝から枝へと飛び移っているのが見えた。日本の山林では絶対に生息していないカラーリングだ。おまけに、少し離れた場所に生えているキノコは、なぜかぼんやりと蛍光ピンクに発光している。
「異世界だね。間違いない。異世界転移ってやつだ」
千秋はうんうんと頷き、冷静に現状を分析した。
普通ならここで「どうやって帰るの!?」とパニックになるところだが、千秋の視線の先には、昨夜自分がくぐり抜けてきた「アパートの勝手口のドア」が、空間にぽつんと浮かぶようにして存在している。ドアノブを回せば、いつでもあの狭くて生活感あふれる1Kの部屋に戻れることは確認済みだった。
つまり、帰る手段は確保されている。
「まあ、月曜の朝までに帰って、ちゃんと会社に行ければいっか。それまでは、この誰もいない最高の完ソツ(完全ソロ)サイトを満喫させてもらおう」
千秋の図太い精神力は、もはやファンタジーの常識を凌駕していた。
彼女にとって重要なのは「ここはどこか」ではなく、「ここでどれだけ快適なキャンプができるか」である。
テントから這い出した千秋は、朝のひんやりとした空気を全身に浴びながら、フリースジャケットのジッパーを首元まで引き上げた。
気温は十度前後といったところだろうか。少し肌寒いが、キャンパーにとってはこのキリッとした冷たさこそが最高のご馳走の一つである。
「さてと。まずは朝のコーヒーからだね」
千秋は折りたたみ式のローチェアに腰を下ろし、慣れた手つきで道具を展開し始めた。
コンパクトなシングルバーナーにガス缶をセットし、チタン製のクッカーにミネラルウォーターを注いで火にかける。シュコーッという小気味よい燃焼音が、静かな森に響き渡る。
お湯が沸くのを待つ間、手動のコーヒーミルで焙煎された豆をゴリゴリと挽き始めた。ガリッ、ゴリッという豆が砕ける感触とともに、芳醇でビターな香りが立ち昇り、冷たい空気に溶けていく。
ドリッパーにペーパーフィルターをセットし、挽きたての粉を投入。そこへ沸き上がった熱湯を、細く円を描くようにゆっくりと注いでいく。
プクゥーッとコーヒーの粉がハンバーグのように膨らみ、ぽたぽたと琥珀色の液体がマグカップへと落ちていく。この一連の儀式にも似た作業が、千秋にとっては至福の時だった。
「んんっ、美味い……。大自然の中で飲むコーヒーは、やっぱり五割増しで美味しいわ」
熱々のコーヒーを一口すすり、千秋はほうっと白い息を吐き出した。
誰にも邪魔されない。スマホの通知も鳴らない(そもそも圏外どころか電波という概念がない)。上司の嫌味も聞こえない。ただ、風の音と鳥の声だけがある世界。
まさに、千秋が求めてやまなかった理想のキャンプ環境がここにあった。
「よし、胃袋も起きたことだし、朝ご飯にしよう!」
コーヒーで一息ついた千秋は、傍らに置いた大型のクーラーボックスを開けた。
中には、昨日の会社帰りにスーパーで買い込んできた食材がぎっしりと詰まっている。保冷剤のおかげで、冷気はしっかりと保たれていた。
千秋が取り出したのは、真空パックにされた巨大なブロック状のベーコン。そして、卵のパックだ。
キャンプの朝食といえば、ホットサンドやスープなども定番だが、千秋の中では「絶対に外せない王道」があった。
それが、厚切りベーコンと目玉焼き――いわゆる『ハウルの動く城』的な、暴力的なまでのカロリーと旨味の塊である。
「ふふふ……このスーパー特売のブロックベーコンを、誰に遠慮することもなく、親の仇みたいに分厚く切るのがたまらないのよね」
まな板の上に鎮座した肉の塊に向け、千秋はアウトドア用のナイフを滑らせた。
スライスされた市販のベーコンとは次元が違う。厚さおよそ二センチ。もはや「ステーキ」と呼んだ方がしっくりくるほどの極厚サイズに、惜しげもなく切り分けていく。
そして取り出したるは、キャンパーの神器『スキレット』。
分厚い鋳鉄製の小さなフライパンだ。重くて手入れも面倒だが、蓄熱性が極めて高く、食材をこれ以上ないほど美味しく焼き上げてくれる魔法の道具である。
シングルバーナーの火力を上げ、スキレットをしっかりと熱する。
薄く油を敷いたところに、先ほど切り出した極厚のベーコンを二枚、無造作に放り込んだ。
――ジュウウウウウウウウッ!!
その瞬間、静寂の森に、鼓膜を刺激する凶悪な音が響き渡った。
分厚い肉が焼ける音。ベーコンから染み出した透明な豚の脂が、熱せられた鉄板の上でパチパチと弾け飛ぶ。
それと同時に、スモークされた豚肉の香ばしい匂いと、脂の甘い香りが爆発的に広がり、風に乗って周囲の森へと拡散していった。
千秋はトングでベーコンを裏返す。表面には見事なキツネ色の焼き目がつき、脂身の部分は半透明に透き通って、チリチリと端っこが焦げ始めている。
完璧な焼き加減だ。
「ここで卵、投下ッ!」
ベーコンの横の空いたスペースに、卵を二つ、片手で割り入れる。
パカッ、ジュワアァァァッ!
白身がベーコンの脂を吸い込みながら一瞬で白く固まり、縁の部分がカリカリに揚がったように波打つ。中央の黄身はぷっくりと膨らみ、鮮やかなオレンジ色を保っている。
千秋は火を弱め、ミル付きの黒胡椒を手にした。
ガリッ、ガリッ、ガリッ。
粗挽きの黒胡椒が、ベーコンと目玉焼きの上に雪のように降り注ぐ。スパイシーな香りが鼻腔をくすぐり、千秋の胃袋が「早く食わせろ」と猛烈な抗議の音を鳴らした。
「はあぁ……暴力的な匂い。これはもう、犯罪的でしょ……」
千秋が自画自賛しながら、熱々のスキレットを木製の鍋敷きの上に移動させた、まさにその時だった。
ガサガサッ、バキッ!!
「……え?」
背後の茂みが、不自然に大きく揺れる音がした。
野生動物だろうか。熊やイノシシだとしたら笑えない。千秋はトングを構え、音のした方へとゆっくり振り返った。
そこから現れたのは、熊でもイノシシでもなかった。
「……あ、あ、あああ……っ」
うめき声を上げながら茂みを掻き分けて這い出てきたのは、一人の『人間』だった。
年の頃は二十代前半くらいだろうか。ボロボロになった革製の軽鎧を身に纏い、背中には使い込まれた長い槍を背負っている。髪はボサボサで泥にまみれ、まるでロールプレイングゲームからそのまま飛び出してきたような「兵士」あるいは「冒険者」の出立ちだった。
彼の名はジンツ。
この近隣の街を拠点とする、しがない槍使いの冒険者である。
彼は現在、人生最大のピンチを迎えていた。森の奥深くで獰猛な魔獣(巨大な猪のモンスター)の討伐依頼を受けていたのだが、不意打ちを食らって荷物をすべて失い、命からがら逃げ出してきたのだ。
森の中で迷い、すでに三日間、水以外のものを一切口にしていない。
極限の飢餓状態。足元はおぼつかず、意識は混濁し、いよいよ「あぁ、俺の人生もここまでか。最期にせめて、腹一杯肉を食いたかった……」と走馬灯を見かけていた。
そんな彼の鼻腔に、突如として『神の匂い』が直撃したのである。
なんだ、この匂いは。
ジンツがこれまでの人生で嗅いだことのない、強烈な肉の焼ける匂い。香ばしい油の香り。そして、鼻の奥をツンと刺激する、食欲を極限まで狂わせる魔法のスパイス(黒胡椒)の香り。
その匂いは、死にかけていたジンツの肉体に、強制的に生存本能を呼び覚ました。
足の痛みも、疲労も忘れ、ただひたすらにその匂いの源流へと向かって、ゾンビのように森を彷徨った。
そして今、彼は千秋のテントがある開けた場所――昨夜から置かれたままになっているアンティークランタンの光が届く『結界』の内側へと、ふらふらと足を踏み入れたのだ。
本来、このランタンが作り出す結界は、悪意を持つ者や凶悪な魔物の認識を阻害し、物理的に立ち入らせない強力な魔道具の力が働いている。しかし、現在のジンツの脳内には「殺意」も「悪意」もなく、ただ純粋な『食欲』だけが100パーセントを占めていたため、結界は彼を「無害な存在」と判定し、あっさりと通過させてしまったのである。
「あ、あぁ……肉……肉が……」
ジンツの虚ろな瞳に、木製の鍋敷きの上でジュージューと音を立てているスキレットが映り込んだ。
分厚いベーコン。黄金色の黄身を持つ卵。
それは、腹を空かせた異世界の青年から見れば、もはや神が遣わした奇跡の供物以外の何物でもなかった。
「ちょ、ちょっと、あなた誰!?」
千秋は驚きの声を上げた。
見知らぬ武装した男が、よだれを滝のように流しながら、自分の朝食に向かって這い寄ってくるのだ。普通の若い女性なら悲鳴を上げて逃げ出すシチュエーションである。
しかし、千秋の第一声は悲鳴ではなく、少し困惑したような声だった。
「コスプレイヤー……じゃないよね。なんか本物っぽいし。ていうか、めちゃくちゃボロボロだけど、大丈夫ですか?」
千秋の問いかけなど、ジンツの耳には届いていなかった。
彼はスキレットの1メートル手前でついに力尽き、ドサリと地面に倒れ込んだ。しかし、その手はしっかりとベーコンの方向へと伸ばされている。
「は、はらが……減って……死ぬ……。頼む、それ……一口でいいから……」
涙と鼻水とよだれで顔をぐしゃぐしゃにしながら、地面に突っ伏して懇願する武装した青年。
千秋は、手にしたトングと、スキレットの上のベーコン、そして目の前の哀れな男を交互に見比べた。
千秋の図太いキャンパー魂は、ここでも大いに発揮された。
不審者であることには間違いない。異世界の住人だろうことも察しがつく。
だが、千秋の根底にあるのは「せっかくの美味しいキャンプ飯、一人で食べるのもいいけど、こんなに泣くほど腹を空かせてるなら、ちょっとくらい分けてあげてもいいか」という、近所の世話焼きおばちゃんのような謎の包容力だった。
「……死なれちゃ寝覚めが悪いし。食べる?」
千秋がそう言うと、地面に倒れていたジンツの首が、バネ仕掛けのおもちゃのようにガバッと跳ね上がった。
「く、食うっ!! なんでもするから食わせてくれぇぇっ!!」
森の静寂を切り裂くようなジンツの絶叫が、清々しい朝の空にこだました。
こうして、記念すべき「胃袋をつかまれた異世界人第一号」が、千秋のキャンプ地に見事に一本釣りされたのであった。




