第1話:金曜夜の扉の先は、無料のキャンプ場!?
「ああ……終わった。今週もようやく、終わった……」
金曜日の午後九時過ぎ。満員電車の揺れに身を任せながら、千秋はうつろな目で窓の外を流れるネオンサインを眺めていた。
都内にある中小企業で事務職として働く彼女の毎日は、控えめに言って「黒に近いグレー」だった。朝から晩までひたすらパソコンの画面と睨み合い、終わりの見えないデータ入力と請求書の山を処理する。上司の理不尽な小言を右から左へ受け流し、取引先からのクレーム電話に頭を下げる。
二十八歳という年齢は、世間一般から見れば立派な大人なのだろうが、千秋の精神と肉体は日々の業務でゴリゴリと削られ、週末を迎える頃には干からびたスルメのようになっていた。
「疲れた……。森に行きたい。焚き火の匂いを嗅ぎたい……」
千秋の唯一にして最大の趣味、それは「ソロキャンプ」である。
休日のすべて、そして安くない給料の大部分をキャンプギア(道具)と食材に注ぎ込む生粋のキャンパー。自然の中で一人きり、誰にも邪魔されずに好きなものを食べ、ただ火を眺めて過ごす時間は、千秋にとって何物にも代えがたい究極のデトックスだった。
しかし、現代のキャンプ事情は千秋のような社会人にとってなかなか厳しい。昨今のキャンプブームのせいで、景色のいい人気のキャンプ場は数ヶ月前から予約でいっぱい。やっとの思いで予約が取れても、隣のサイトとの距離が近すぎて夜中まで宴会の騒ぎ声が聞こえてきたり、一泊数千円という決して安くないサイト利用料を取られたりと、心からリラックスできないことも増えていた。
「はあ……予約なしで、誰もいなくて、タダで使えるキャンプ場、どっかに落ちてないかなぁ……」
そんな現実逃避の叶わぬ願いを口にしながら、千秋は最寄り駅から重い足を引きずり、築三十年の古びたアパートへと帰宅した。
ワンルーム(正確には1K)の自室のドアを開けると、そこはもはや生活空間というより「キャンプ用品の倉庫」だった。壁際高く積み上げられたコンテナボックス、部屋の隅に立てかけられたテントのポールやコット(簡易ベッド)。
狭い部屋に足を踏み入れた千秋は、カバンを床に放り投げると、部屋の片隅に置かれたひとつのアイテムに目を向けた。
真鍮製の、古びたアンティークのオイルランタンだ。
数年前に亡くなった祖父の遺品である。祖父もまた自然を愛する人で、千秋にキャンプの楽しさを教えてくれた師匠のような存在だった。このランタンは祖父が若い頃から使い込んでいたもので、ガラスのホヤには煤がこびりつき、真鍮のボディは鈍い黄金色の光を放っている。最近の便利で明るいLEDランタンとは違い、手入れも面倒で光量も少ないが、千秋はこのランタンの放つ温かい炎の揺らぎが大好きだった。
「ちょっとだけ、癒やされよう……」
千秋はスーツを着替えることもせず、ランタンのタンクにパラフィンオイルを注いだ。芯の長さを少しだけ調整し、マッチを擦って火を近づける。
シュボッ、という小さな音とともに、オレンジ色の炎がぽっと灯った。
チロチロと揺れるアナログな炎を見つめていると、ささくれ立っていた心が少しだけ丸くなっていく気がした。微かに漂うオイルの匂いも、千秋の「キャンプに行きたい欲」をほんの少しだけ満たしてくれる。
「ふう……。でも、ちょっと部屋に匂いがこもっちゃったな。換気しよ」
狭いアパートにパラフィンオイルの匂いが充満するのを防ぐため、千秋はランタンを片手に持ち、台所の奥にある勝手口へと向かった。
この勝手口を開けると、隣のアパートの壁とエアコンの室外機が並ぶ、薄暗くて狭い路地裏に出るはずだった。カチャリ、と錆びついたドアノブを回し、重い鉄の扉を外へと押し開ける。
――ヒュオォォォ……。
その瞬間、千秋の頬を撫でたのは、生ぬるい都会の空気でも、排気ガスの匂いでもなかった。
肌を刺すような、ひんやりと澄んだ冷たい風。
そして、鼻腔をいっぱいに満たす、濃密な土と青葉の匂い。
「……え?」
千秋は、開け放たれた勝手口の先を見て、完全に思考を停止した。
そこにあるはずの隣のアパートの壁がない。室外機の唸る音もない。アスファルトの地面すらない。
代わりに広がっていたのは、見渡す限りの「大自然」だった。
足元にはフカフカとした苔と落ち葉が絨毯のように広がり、見上げれば、首が痛くなるほど高くそびえ立つ、樹齢何百年とも知れない巨大な広葉樹の群れ。木々の隙間からは、東京では絶対に拝むことのできない、こぼれ落ちてきそうなほどの満天の星空が輝いていた。
「えっ……? なにこれ……?」
千秋は片手にアンティークランタンを持ったまま、呆然と勝手口の外へ足を踏み出した。
サンダル越しの足裏に、ふかふかとした土の感触が伝わってくる。後ろを振り返ると、そこには鬱蒼とした森の中に、ぽつんと「千秋のアパートの勝手口のドア」だけが、まるで空間を切り取ったかのように浮かんで繋がっていた。
どこからどう見ても、現代日本ではない。テレビで見るようなアマゾンの奥地か、あるいは――異世界か。
普通なら、ここでパニックになるはずだ。「ここはどこ!?」「夢!?」「もしかしてガス中毒で見ている幻覚!?」と叫んで部屋に逃げ帰り、ドアに鍵をかけて布団を被って震えるのが正常な人間の反応である。
しかし。
千秋は、生粋のキャンパーである。そして、細かいことは気にしない図太い性格の持ち主だった。
彼女の脳は、この圧倒的な非日常を前にして、極めて偏った「キャンパー特有の論理」で状況を処理し始めた。
「待って……」
千秋は周囲を見渡す。
足元の地面は適度に平坦で、水はけも良さそう。ペグ(テントを固定する杭)も打ちやすそうな柔らかい土だ。
周囲に他のキャンパーのテントはない。パリピが流すうるさい音楽も、マナーの悪い車のエンジン音もない。
聞こえるのは、風が木々を揺らす音と、遠くで鳴く「ホロロロ……」という奇妙な(ちょっとファンタジーっぽい)鳥の声だけ。
そして何より、この場所には「管理人」らしき存在がいない。
千秋の瞳に、ギラリとした野性のキャンパーの光が宿った。
「えっ、もしかしてここ……完ソツ(完全ソロ)の無料キャンプ場!? 予約なしで使い放題じゃん!!」
アパートの勝手口を開けたら、なぜか見知らぬ大自然に繋がっていた。
その事実に対する恐怖や疑問よりも、「最高の無料キャンプ場を見つけた」という歓喜が勝った瞬間だった。彼女の口癖である「まあ、美味しいご飯と焚き火があればいっか」というマインドが、未知の世界に対する警戒心を完全に塗り潰してしまったのである。
「ヤバい、ヤバいヤバい! これ、誰にも見つかってない穴場サイトじゃん! 場所取りしなきゃ!」
謎の使命感に駆られた千秋は、すぐさまアパートの部屋へと取って返し、玄関に積まれていた愛用のキャンプギアを次々と勝手口の向こう側――異世界の森――へと運び出し始めた。
クーラーボックス、折りたたみチェア、コット、冬用の極厚シュラフ(寝袋)。
そして、設営の素早さに定評のある愛用の「ワンポールテント」。
千秋はランタンを近くの平たい岩の上に置いた。
ランタンの温かいオレンジ色の光が、周囲半径二十メートルほどをぼんやりと照らし出す。
実はこの時、祖父の遺品であるこのアンティークランタンには「異世界を繋ぐ」という機能だけでなく、「光の届く範囲に強力な魔物よけ&認識阻害の結界を自動で張る」というとんでもないパッシブスキルが発動していたのだが、千秋がそれに気づくはずもない。彼女にとってはただの「ちょっと雰囲気のいい光源」でしかなかった。
「よーし、まずはグランドシートを敷いて、と」
慣れた手つきで六角形のシートを広げ、四隅をペグで固定していく。
カンッ、カンッ、カンッ、と、静寂の森にペグハンマーの小気味よい金属音が響き渡る。異世界の土は適度に締まっており、鍛造ペグがスルスルと気持ちよく吸い込まれていった。
「うわ、めっちゃいい土。最高かよ」などと独り言をこぼしながら、テントの生地を広げ、中心に一本のジュラルミン製のポールを突き立てる。
バサッ、という音と共に、カーキ色の美しい三角錐のシルエットが星空の下に浮かび上がった。設営開始からわずか十五分。もはや職人の領域である。
「ふう、完成!」
額の汗を拭い、千秋は満足げに腰に手を当てた。
時刻はすでに深夜。いくらタフなキャンパーとはいえ、一週間の仕事の疲れがどっと押し寄せてくる時間だ。初日から凝ったキャンプ飯を作る気力は残っていない。
「今日はもう寝よ。明日の朝、ゆっくりご飯作ればいいや」
千秋はテントの中にコットを広げ、フカフカのシュラフを広げた。
ランタンの火を少しだけ絞り、テントの入り口のメッシュ越しに外の景色を眺める。
見渡す限りの深い森。どこからともなく聞こえてくる、不思議な虫の音色。
冷たい空気がテントの中を通り抜け、疲れ切った千秋の肺を浄化していくようだった。
「はあぁ……最高。月曜の朝までに帰れればいっか。……おやすみなさい」
自分が「ファルマ大陸」と呼ばれる異世界の魔境のど真ん中にいることなど露知らず。
千秋はシュラフのジッパーを首元まで引き上げると、目を閉じて一瞬で深い眠りに落ちた。
明日、自分が焼く厚切りベーコンの匂いが、とんでもないものを引き寄せることになるとは想像もせずに。
こうして、平凡な事務職OLによる、前代未聞の「異世界週末ソロキャンプ」が、ひっそりと幕を開けたのだった。




