第39話:濡れた新聞紙とアルミホイルの魔法
特大の焚き火から放たれる圧倒的な熱量が、冬の森の冷たい空気をぐんぐんと押し退けていく。
千秋のキャンプサイトは、まるでそこだけが常夏のオアシスになったかのような温もりに満ちていた。
焚き火台の傍らに作られた『熾火』の山の中には、濡れた新聞紙とアルミホイルで二重に包まれたサツマイモのカプセルが、静かに、しかし確実に熱を帯びながら眠っている。
「焼き芋が焼き上がるまで、あと二十分くらいかな。みんな、その前に温かい飲み物で乾杯しようよ」
千秋はローチェアから立ち上がると、アルミテーブルの上でシングルバーナーに火をつけた。
冬の夜、ただ火を囲んで待つだけでは寒さと口寂しさに耐えられない。そんな時にキャンパーの五臓六腑を温めるのは、やはり『ホットドリンク』の存在である。
千秋は二つのクッカー(小鍋)を用意し、それぞれに別々の飲み物を仕込み始めた。
「まず、テオ君とマイちゃんにはコレね」
千秋は小さめのクッカーに牛乳を注ぎ、火にかけた。牛乳の縁に小さな泡が立ち始めたところで、持参してきた『ココアパウダー』と砂糖をたっぷりと入れ、木べらで丁寧にかき混ぜる。
カカオの甘く濃厚な香りが、フワリとタープの下に広がった。
「わぁ……すっごく甘くて、いい匂い!」
「お菓子みたいな匂いがします……!」
テオとマイが、目を輝かせてクッカーを覗き込む。
千秋は温まったココアを二つのシェラカップに注ぎ分け、さらにその上に、白い小さなマシュマロをいくつか浮かべた。熱いココアの表面で、マシュマロがシュワシュワと音を立てて溶け始め、真っ白な泡となって広がっていく。
「はい、特製ホットココア、マシュマロ乗せ! 熱いから、少しずつフーフーして飲んでね」
「ありがとう、チアキねーちゃん!」
「いただきます!」
姉弟は両手でシェラカップを包み込み、溶けかけのマシュマロと一緒にココアをすすった。
「んん〜っ! あっま〜い!!」
「美味しいです……! お腹の底から、ぽかぽかしてきます!」
二人の顔が、まるで春の陽だまりにいる子猫のようにとろけた。
冬のキャンプにおいて、ホットココアは絶対的な正義である。特に、甘いものに飢えている異世界の子どもたちにとっては、これほど贅沢で幸せな飲み物はないだろう。
「さてと、次は大人たちの番だね」
千秋はもう一つの大きめのクッカーを火にかけ、そこに『赤ワイン』をドボドボと気前よく注ぎ込んだ。
安物のパックワインだが、この後に入れる魔法のスパイスによって、それは極上の飲み物へと変貌を遂げる。
「チアキ、その赤い液体はなんだ? 酒のようだが……」
「うん、赤ワインだよ。ジンツさんやリネットさんにも前に飲んでもらったことあるでしょ?」
「ああ、あの果実の酒か! しかし、それをそのまま火にかけるのか? 酒の香りが飛んでしまうのではないか?」
バルガスが不思議そうに首を傾げる。
異世界でも酒を温めて飲む文化(前回の熱燗のような)は少しずつ千秋から伝授されつつあったが、ワインを直接鍋で煮立てるという行為は、彼らには野蛮にすら見えたのだ。
「そのままだと飛んじゃうけど、こうやって『魔法の粉』と『木の実』を入れると、すっごく美味しくなるんだよ」
千秋は調味料ボックスから、シナモンスティック、クローブ(丁子)、スターアニス(八角)、そして輪切りにしたレモンとオレンジのドライフルーツを取り出した。さらに、蜂蜜をたっぷりと絞り入れる。
「これが、冬キャンパーの最強のガソリン、『ホットワイン(グリューワイン)』だよ!」
クッカーの中でワインが温まり始めると、スパイスたちの複雑でエキゾチックな香りが、ワインの芳醇なアルコール臭と混ざり合って爆発的に立ち昇った。
シナモンの甘くスパイシーな香り。クローブの鋭くも奥深い香り。そして柑橘系の爽やかな酸味。
「おおお……! なんだこの、鼻腔をくすぐる複雑な香りは!」
「す、素晴らしい匂いだ……! これだけで、身体が熱くなってくるような気がするぞ!」
ジンツとバルガスが、たまらずクッカーの前に身を乗り出した。
千秋はワインが沸騰する直前で火を止め、お玉を使って大人たちのシェラカップにホットワインを注ぎ分けていった。もちろん、シュラフの中でイモムシ状態になっているロイドの分も忘れない。
「はい、お待たせ。大人の冬の特権、ホットワインだよ。乾杯!」
千秋の音頭で、大人たちがそれぞれのカップを軽くぶつけ合った。
そして、一口すする。
――ズズッ。
「……ッ!!!」
「くぅぅぅっ……!! こ、これは……!!」
ジンツとバルガスの顔が、驚愕と歓喜で真っ赤に染まった。
温かいワインが食道を滑り落ちた瞬間、アルコールの熱とスパイスの刺激が、文字通り『身体の芯から燃え上がるような』圧倒的な温もりをもたらしたのだ。
安ワイン特有の渋みや酸味は、蜂蜜の甘みとフルーツの香りで完全にかき消され、ただひたすらに濃厚で、深く、心安らぐ極上の飲み物へと進化している。
「美味い……! なんだこの酒は! エールのように胃に溜まらず、蒸留酒のように喉を焼くこともない! ただ、身体の奥底から熱と活力が湧き上がってくるようだ!」
「チアキ……! やはりあなたは天才だ! この寒空の下で、これほど美味い酒が飲めるなど……俺は、俺は今、猛烈に感動している!!」
男たちが涙ぐみながらホットワインを煽る中、リネットもまた、うっとりとした表情でカップを両手で包み込んでいた。
「素晴らしい……。スパイスの複雑な香りが、まるで高位の回復魔法のように、疲れた身体と心を癒やしてくれる。冬の夜の森が、こんなにも美しい場所だと思えたのは初めてだ」
そして、シュラフの中で顔だけを出しているロイドも、カップからストロー(千秋が気を利かせて持ってきた)でチュウチュウとホットワインをすすりながら、幸せそうに目を細めていた。
「うむ……。この複雑な香辛料の調合……まさに錬金術の極致……。我がゆりかご(シュラフ)の温もりと相まって、もはや私は天界に昇る一歩手前だ……」
「ロイドさん、それ以上ダメになると本当に森の妖精になっちゃうよ」
千秋はクスクスと笑いながら、自分もホットワインを一口飲んだ。
スパイシーな香りと、蜂蜜の甘みが冷えた身体に染み渡る。
特大の焚き火の熱。ホットワインのアルコール。そして、仲間たちの笑顔。
これ以上ないほどに完璧な、冬の夜のキャンプの時間が流れていく。
* * *
ホットワインを飲みながら談笑すること数十分。
「……ん?」
千秋が、ふと鼻をヒクヒクと動かした。
焚き火の煙やスパイスの香りに混じって、ごく微かに、しかし確かな『甘く焦げるような匂い』が漂ってきたのだ。
「みんな、ちょっと待って。……そろそろ、いけるかも」
千秋はホットワインのカップを置き、耐熱グローブをはめてトングを手にした。
そして、焚き火台の傍らの『熾火の山』へと近づく。
「おっ! ついにあの、紙と銀紙に包まれた芋の出番か!」
「待っていたぞ! チアキの故郷の『ヤキイモ』とやら、どれほどの味なのか!」
ジンツとバルガスが、ホットワインで真っ赤になった顔をさらに輝かせて身を乗り出した。
テオとマイも、ココアのカップを置き、ワクワクとした目で千秋の手元を見つめている。
千秋はトングの先で、熾火の灰の中から銀色のカプセルを一つ、そっと取り出した。
ジュゥゥッ、と微かな音を立てているそれは、外側のアルミホイルが熱で少しだけ変色し、隙間からプシューッと細い湯気を噴き出していた。
「よし、一つ試しに開けてみるね。熱いから、みんなは下がってて」
千秋は銀色のカプセルをアルミテーブルの上に置き、トングの先を使って、表面のアルミホイルをピリリと破いた。
――プシュウウウウウウッ!!
その瞬間。
カプセルの中に閉じ込められていた高圧の蒸気が、一気に外界へと解き放たれた。
そして、それと同時に。
「……ッ!!?」
「な……なんだ、この匂いは……!?」
タープの下にいた全員が、一斉に目を見開き、鼻から思い切り空気を吸い込んだ。
甘い。
ただひたすらに、甘い。
蜂蜜や砂糖のような直接的な甘さではない。大地の奥深くで育まれたサツマイモ自身のデンプンが、極限の熱と蒸気によって分解され、究極の『糖分』へと変換されたことで放たれる、暴力的なまでの『蜜の匂い』だった。
それは、高級な焼き菓子やケーキが焼き上がった時の匂いにも似ているが、もっと野性味があり、人間の根源的な食欲を直接揺さぶるような圧倒的な引力を持っていた。
「す、すごい……! お芋から、こんなに甘くていい匂いがするなんて……!」
「村で茹でて食べるお芋とは、全く違う匂いだよ! ケーキみたい!」
マイとテオが、ヨダレを垂らしそうな顔でテーブルににじり寄る。
千秋は破いたアルミホイルの下から現れた、黒く焦げた『新聞紙』を、トングで丁寧に剥がしていった。
濡らして巻いたはずの新聞紙は、熾火の熱で完全に水分が飛び、パリパリの炭の一歩手前の状態になっていた。
しかし、その新聞紙の層が、アルミホイルの中で発生した水蒸気を適度に保ちつつ、サツマイモの表面が焦げるのを完璧に防ぐ『防壁』として機能していたのだ。
「これが、濡れた新聞紙とアルミホイルの魔法だよ」
千秋が、最後の新聞紙の層を剥がし終えた。
そこに現れたのは、真っ黒な炭などではない。
赤紫色の皮が、熱でパンパンに張り詰め、ところどころ皮が破れて……そこから、黄金色に輝く『蜜』がジュクジュクと溢れ出している、完璧な焼き上がりのサツマイモだった。
「おおおおおおっ……!!」
「光っている……! 芋が、黄金の蜜を流して光っているぞ!!」
バルガスが、もはや拝むような姿勢で両手を合わせている。
「さて、中身がどうなってるか……割ってみるよ!」
千秋は両手に耐熱グローブをはめたまま、熱々のサツマイモの真ん中を両手で掴み。
一気に、パクリと二つに割った。
――ホワァァァァァァァッ!!!!
「ッッッッッッッッッッ!!!!!」
割れた断面から、とてつもない量の湯気が立ち昇り、それと同時にタープの下の空間が『甘い蜜の暴力』によって完全に支配された。
サツマイモの断面は、パサパサとした粉を吹いているような状態ではなかった。
水分をたっぷりと含み、まるで極上のスイートポテトや、黄金色のクリームのように、トロトロで、テリッテリに輝いていたのだ。
「な、なんだこれは……! 俺の知っている芋じゃない! まるで、魔法で作られた黄金の菓子のようだ……!」
「うわぁぁぁぁっ! おいしそう! 早く! 早く食べたいよぉ!!」
ジンツが絶叫し、テオが地団駄を踏む。
千秋は満足げに頷き、残りの銀色のカプセルもすべて熾火の中から取り出し、テーブルの上に並べた。
「みんな、お待たせ! 冬キャンプの王様、『究極のねっとり焼き芋』の完成だよ!」
特大の焚き火の炎が赤々と燃え盛る中。
黄金色の蜜を滴らせる熱々の焼き芋が、異世界人たちの前に解き放たれた。
ホットワインとココアで温まった彼らの胃袋に、さらなる究極の甘味が襲い掛かろうとしている。
冬の夜の宴は、ついに最高潮の盛り上がりを迎えようとしていた。




