第33話:ガスバーナーと「おでん」の登場
ザァァァァァァァァァァッ!!!!
バラバラバラバラッ!!
異世界ファルマ大陸の『魔の森』を、容赦のない豪雨が打ち据えている。
分厚い雨雲に覆われた夜の森は、月明かりすら届かない完全な漆黒に包まれていた。吹き荒れる強風が広葉樹の枝を大きく揺らし、時折バキィッという不気味な音を立てて木々が悲鳴を上げている。
そんな大自然の猛威が吹き荒れる地獄のような環境の中で。
「シュゴォォォォォォォォォォッ!!」
千秋が設営した巨大な『ヘキサタープ』の下だけは、別世界のように平和で、そして圧倒的な熱量に守られていた。
アルミロールテーブルの中央に鎮座しているのは、無骨な黒い金属のフォルムを持つ現代のキャンプギア、『シングルバーナー』である。
ずんぐりとした形のアウトドア専用ガス缶(OD缶)に直結されたそのバーナーからは、シューッというガスの噴出音と共に、美しくも力強い『青い炎』が勢いよく噴き上がっていた。
「ひいいいっ!? て、鉄の台から、青い炎が噴き出したぁぁぁっ!?」
「無詠唱!? しかも、魔力ゼロでこれほどの安定した高火力……! やはりチアキ殿は、火の精霊王と契約を結んだ大魔導師様だったのですねぇぇぇ!!」
ずぶ濡れになって千秋のテントに転がり込んできた女騎士リネットと、魔法使いのサリサは、シングルバーナーが放つ青い炎を見て、完全にパニックに陥っていた。
無理もない。異世界の常識では、火を起こすには乾いた薪と火打石が必要であり、この土砂降りの雨と湿気の中では、いかなる熟練の冒険者であっても焚き火を熾すことは不可能だ。魔法使いのサリサでさえ、これほどの湿気の中では空気中のマナが散らされてしまい、指先に小さな火を灯すことすらできないと絶望していたのだ。
それなのに、目の前の黒髪のOLは、ただ金属のつまみを「カチッ」と捻っただけで、薪も魔力も一切使わずに、雨音すらかき消すほどの力強い炎を生み出してしまったのである。
「だから大魔導師じゃないってば。これはガスっていう燃料を使ってるだけで、誰でも簡単に火がつけられる便利な道具なの」
千秋は呆れたように肩をすくめながら、シングルバーナーの五徳の上に、大きな底の深いアルミ鍋をドカンと乗せた。
シングルバーナーの最大の利点は、天候に左右されないことだ。薪のコンディションや風向きを気にする必要がなく、雨の日でもテントの全室やタープの下で安全に、かつ即座に強力な熱源を確保できる。
「さてと。それじゃあ、冷え切った身体を芯から温める、最強の冬キャンプ料理を作ろうか」
千秋はそう言うと、傍らに置いてあったコンテナボックスの中から、鈍い銀色に光る『巨大な袋』を三つほど取り出してきた。
それは、日本のスーパーマーケットで冬が近づくと特設コーナーに山積みになる、お馴染みの『レトルトパックのおでん』だった。
常温で長期保存が可能で、中にダシ汁と具材がたっぷりと詰まっている、ずっしりと重いパックである。キャンパーにとっては、ただ鍋にあけて温めるだけで本格的な味が楽しめる、雨の日や冬のキャンプの最強の味方なのだ。
「チアキ……。その、銀色の分厚い金属の袋はなんだ……? 中に何かが入っているようだが……」
「これもアルミホイルの親戚みたいなものなんだけどね。この中に、今日のメインディッシュが入ってるんだよ。調理済みの具材とスープが真空パックになってるから、悪くならないの」
「しんくうぱっく……。食材を腐敗から守る、古代帝国の時間停止魔法……!」
リネットがゴクリと喉を鳴らした。
千秋はキッチンばさみを取り出し、重いレトルトパックの上部をジョキリと切り裂いた。
「いくよー。中身、全量投入!」
ドプンッ! ゴロゴロゴロ……ッ!!
ドシャァァァッ!
千秋がレトルトパックを傾けると、黄金色に透き通った大量のダシ汁と共に、見たこともない奇妙な形をした具材たちが、次々と大きなアルミ鍋の中へと雪崩れ込んでいった。
「ひっ!? な、なんだこれは!?」
「ま、魔物の一部ですかぁ!?」
鍋の中を覗き込んだリネットとサリサが、再び悲鳴を上げて後ずさった。
異世界の住人である彼女たちにとって、日本の『おでん』の具材は、あまりにも常識外れで不気味な造形をしていたのだ。
「チ、チアキ! この、真ん中にぽっかりと穴の空いた茶色い筒はなんだ!? 木の幹か!? それとも、砂漠に住むというワーム型魔獣の死骸か!?」
「それは『ちくわ』だよ。お魚のすり身を棒に巻きつけて焼いた練り物。すっごく美味しいんだから」
「で、では……この、灰色でプルプルと震えている、黒い斑点のある三角形の物体は!? スライムの一種ですか!? 猛毒を持っていそうですぅぅ!!」
「こらこら、失礼なこと言わないの。それは『こんにゃく』。お芋から作ったヘルシーな食材だよ。弾力があって癖になる食感なの」
「この、真っ白で真ん丸な玉は……!? まさか、ロック鳥の卵……!」
「ただのニワトリの『ゆで卵』だってば。ダシを吸って最高に美味しくなるんだからね」
「ならば、この一番大きくて分厚い、白い円盤のようなものはなんだ!? これも魔獣の肉か!?」
「それは『大根』。野菜だよ、野菜。……もう、いちいちリアクションが大きいなぁ」
千秋はクスクスと笑いながら、三パック分のおでんの具材をすべて鍋の中に開け切った。
ちくわ、こんにゃく、ゆで卵、大根、ごぼう巻き、さつま揚げ、昆布。
巨大なアルミ鍋の中は、たっぷりのダシ汁と多種多様な具材でヒタヒタになっていた。千秋はシングルバーナーの火力を少し強め、鍋にアルミの蓋を被せた。
「あとは、これが沸騰して温まるまで数分待つだけ。雨の日は、手の込んだ料理をするよりも、こういう『温めるだけ』のズボラ飯が一番なんだよね」
「温めるだけ……。これほど得体の知れない食材の数々を、ただ煮込むだけで料理が完成するというのか……?」
リネットはまだ疑わしそうな目で鍋を見つめていたが、その表情は数分後には完全に打ち砕かれることとなる。
シュゴォォォォォォォォッというバーナーの燃焼音が響き続ける中。
タープを叩く雨音のリズムに混じって、コトコト、コトコト……という、鍋の中のスープが沸き立つ優しい音が聞こえ始めた。
それと同時に、アルミ鍋の蓋の隙間から、一筋の白い湯気がフワリと立ち昇った。
「……ッ!」
「あ……ああ……っ」
リネットとサリサの身体が、ビクンと大きく跳ねた。
その湯気と共にタープの下の空間に広がったのは、彼女たちがこれまでの人生で嗅いだことのない、極めて『優しく、繊細で、そして奥深い香り』だった。
かつお節の、スモーキーで血の通った豊かな香ばしさ。
昆布がもたらす、海の底のように深く、広大な旨味の香り。
それらが完璧な黄金比で混ざり合った、日本人が愛してやまない『和風ダシ』の香りである。
以前、千秋が作ったベーコンや、アヒージョ、コーラ煮といった料理の匂いは、暴力的なまでに食欲を直接殴りつけてくるようなパンチの効いた匂いだった。
しかし、おでんのダシの香りは違う。
攻撃性は一切ない。ただひたすらに優しく、冷え切った身体と心にスゥッと寄り添い、内側からじんわりと解きほぐしていくような、圧倒的な『癒やし』の匂いだったのだ。
「な、なんて……なんて優しい匂いなんだ……。まるで、幼い頃に母に抱きしめられた時のような、絶対的な安心感を感じる……」
「わかりますぅ……。さっきまで、あんなに寒くて、雨が怖かったのに……この匂いを嗅いでいるだけで、胸の奥がポカポカしてきますぅ……」
リネットとサリサは、うっとりとした表情で両手を胸の前で組み、テントの中に充満するダシの香りを深く、深く吸い込んだ。
外の世界では、相変わらずバケツをひっくり返したような暴風雨が吹き荒れている。
タープを叩く激しい雨音。暗闇。冷たい風。
しかし、布一枚を隔てたこの内側の空間だけは、青い炎の確かな熱源と、おでんのダシの香りが満ち溢れる『究極の安全地帯』となっていた。
この圧倒的なコントラストこそが、雨キャンプの醍醐味である。
外が過酷であればあるほど、テントやタープの下の温もりと食事が、何十倍にも、何百倍にもありがたく感じられるのだ。
大自然の猛威に震えていたはずの二人の少女の顔からは、すでに恐怖の感情は完全に消え去り、ただ目の前の鍋に対する強烈な期待と食欲だけが支配していた。
「ふふっ、いい匂いでしょ? これが日本の冬の風物詩、『おでん』だよ」
千秋はシングルバーナーの火力を弱火に落とすと、耐熱グローブをはめてアルミ鍋の蓋をパカッと開けた。
――ホワァァァァァァァァッ!!
蓋を開けた瞬間、大量の白い湯気が一気に立ち昇り、タープの下を真っ白に染め上げた。
湯気が晴れた後、鍋の中でグツグツと煮え滾る黄金色のダシ汁と、ダシをたっぷりと吸い込んで一回り大きく膨張した具材たちが姿を現す。
ちくわも、大根も、こんにゃくも、すべてが美味しそうな茶色に染まり、熱々のスープの中で踊っていた。
「さあ、お待たせ! 熱々のおでん、完成だよ! 火傷しないように気をつけて食べてね」
千秋はお玉を手に取り、チタン製のシェラカップ(キャンプ用の取っ手付きカップ)に、たっぷりのダシ汁と具材を取り分けていった。
まずは、リネットのカップに大根とちくわと卵を。サリサのカップにこんにゃくとごぼう巻きと大根を。
金属製のシェラカップは、熱いスープを注がれた瞬間に全体が熱を帯びる。
「はい、どうぞ。カップが熱いから、取っ手の部分をしっかり持ってね」
「あ、ありがとうございます……!」
「いただきますぅ……!」
千秋からシェラカップを受け取った瞬間。
リネットとサリサは、そのカップから伝わってくる『じんわりとした温かさ』に、思わず「はぁぁぁっ……」と恍惚のため息を漏らした。
雨に打たれ、氷のように冷え切っていた指先が、カップの熱によって急速に解凍されていくのを感じる。それだけでも、涙が出そうになるほどの幸せだった。
二人は、両手で大切にカップを包み込むように持ち、まずはその黄金色のダシ汁に口をつけた。
フーフーと息を吹きかけ、少しだけ冷ましてから、おそるおそるズズッとすする。
――ジュワァァァ……。
「……ッ!!!」
「あ……あぁぁぁ……っ!」
ダシ汁を一口飲んだ瞬間。
二人の身体が、雷に打たれたようにピクリと跳ねた。そして次の瞬間には、全身の力が完全に抜け、ぐにゃりと姿勢を崩しそうになっていた。
美味い。
ただひたすらに、美味い。
かつお節と昆布の旨味が、限界まで濃縮された極上のスープ。それが、食道を通り、冷え切っていた胃の腑へと落ちていく。
その瞬間、胃袋から全身の血管を駆け巡るようにして、圧倒的な『熱』と『旨味』が爆発的に広がっていったのだ。
雨の寒さで強張っていた筋肉が溶け、恐怖で縮み上がっていた細胞の一つ一つが、おでんのダシの優しさによって完全に癒やされていく。
「な、なんだこれは……! 身体の芯が……凍りついていた魂の奥底が、一気に温められていく……!」
「美味しいですぅ……! こんなに優しい味のスープ、飲んだことないですぅ……。お腹の中から、ポカポカしてきますぅ……!」
リネットは騎士としての矜持も忘れ、シェラカップを両手で持ったままハラハラと涙をこぼしていた。
サリサもまた、鼻をすすりながら、何度も何度もダシ汁をすすり続けている。
まだ具材を一つも食べていない。ただスープを一口飲んだだけだというのに、この破壊力である。
「あはは、スープだけじゃなくて、具もしっかり食べてね。大根なんか、ダシが染み染みで最高に美味しいんだから」
千秋は自分の分のシェラカップにおでんを取り分けながら、嬉しそうに笑った。
外は相変わらずの土砂降りで、タープを叩く雨音は激しいままだ。
しかし、タープの下の空間は、おでんの湯気とダシの香りに満たされ、この世のどこよりも温かく、幸せな場所に変わっていた。
「……さてと」
リネットとサリサがおでんのダシ汁に夢中になっている隙に。
千秋は調味料ボックスから、小さな黄色いチューブを取り出した。
おでんには絶対に欠かせない、強力なアクセントとなる『和辛子』。
さらに、クーラーボックスの奥底から、小さな瓶に入った『日本酒』と、熱燗をつけるためのアルミ製のチロリ(酒タンポ)をこっそりと取り出す。
雨の日のキャンプ。熱々のおでん。
ここからが、大人のキャンパーの真骨頂である。
冷え切った身体に最高の一撃を見舞うための、からしと熱燗の準備が、静かに、そして着々と進められていた。




