第32話:タープという名の「空飛ぶ屋根」
ザァァァァァァァァァァッ!!!!
漆黒の森を打ち据える、容赦のない雨音。
千秋のキャンプサイトのすぐ外側では、大粒の冷たい雨が地面の泥を跳ね上げ、あっという間に水たまりを広げていた。異世界ファルマ大陸の『魔の森』において、火が使えない土砂降りの雨は、そのまま低体温症と魔獣による死を意味する。
ずぶ濡れになりながら千秋のテントに転がり込んできた女騎士リネットと、魔法使いのサリサは、恐怖と寒さでガタガタと震えながら、完全に絶望の淵に沈んでいた。
しかし。
現代日本で幾多のキャンプ場を渡り歩き、酸いも甘いも噛み分けてきた「図太い事務職OL」にして「生粋のソロキャンパー」である千秋の反応は、彼女たちの悲壮感とは全く無縁のものだった。
「山の天気は変わりやすいって言うからねぇ。まあ、雨が降ったら降ったで、別の楽しみ方があるのがキャンプのいいところだよ」
千秋は全く焦る様子もなく、雨具として愛用の撥水性マウンテンパーカーのフードを深く被り、テントの奥から大きな収納袋を引きずり出してきた。
中から取り出したのは、折りたたまれた頑丈そうな金属製の長い棒と、大量の丈夫な紐、そして金属製の杭(鍛造ペグ)。最後に、丁寧に折りたたまれた巨大な『布の塊』だった。
「チアキ……。その布切れや鉄の棒で、一体何をしようというのだ……?」
寒さに震えながら、リネットが青ざめた顔で問いかけた。
彼女の目には、千秋が取り出した道具が、とても大自然の嵐に対抗できるような代物には見えなかった。
布は確かに大きそうだが、ただの布だ。雨を吸い込めば重くなり、やがて水が滴り落ちてくる。鉄の棒も細く、強風が吹けば簡単に折れ曲がってしまうだろう。
「まあ見ててよ。今からここに、私とリネットさん、サリサちゃんが三人で寝転がっても余裕で雨をしのげる『空飛ぶ屋根』を作ってあげるから」
千秋はニッと笑うと、躊躇することなく土砂降りの雨の中へと飛び出していった。
そして、手慣れたキャンパーの流れるような動きで設営を開始する。
まずは、巨大な布――『ヘキサタープ(六角形のタープ)』を地面に広げる。
タープはキャンプにおける「屋外のリビング」を作るための必須アイテムである。強い日差しを遮る日よけとして、そして雨天時には雨を完全に防ぐ屋根として機能する。
千秋はタープの両端に二本のメインポールを差し込み、それを立ち上げるためのロープ(ガイロープ)をペグで地面に打ち込み始めた。
カンッ! カンッ! カンッ!
雨音に負けない、力強い金属音が森に響く。
千秋が使っているペグは、テントに付属しているようなアルミ製の細いものではない。どんなに硬い地面や、逆に雨でぬかるんだ地面でもガッチリと食い込む、重くて頑丈な黒鉄の『鍛造ペグ』である。
それを専用の真鍮製ペグハンマーで容赦なく打ち込み、ロープをピンと張る。
二本のメインポールが立ち上がり、巨大な布が空中に持ち上げられた。
「お、おい! チアキ! そんな細い柱と紐だけで、あの巨大な布を空中に浮かせるつもりか!? 風に煽られて吹き飛んでしまうぞ!」
リネットが悲鳴のような声を上げる。
しかし、千秋の動きは止まらない。メインポールが立ち上がった後、今度は六角形の布の残り四つの角から伸びるロープを、それぞれ外側に向かって引っ張り、ペグを打ち込んでいく。
ロープの張り具合を自在に調整できる金具『自在金具』をキュッと滑らせ、布全体に均等なテンション(張力)をかける。
ピンッ。
最後にロープを引き絞った瞬間。
だらりと垂れ下がっていた巨大な布が、まるで鳥が翼を広げたかのように、美しい曲線を維持したまま空中にピシッと張り詰めた。
「よし、設営完了! 雨の日仕様の、低空スタイル・ヘキサタープの完成だよ!」
千秋がペグハンマーを肩に担ぎ、満足げに振り返った。
所要時間、わずか五分足らず。
泥だらけの地面の上に、巨大な布一枚で作られた『広大な屋根』が出現したのだ。
千秋は雨に濡れたフードをバサッと脱ぎ、タープの下――雨の当たらない安全地帯から、呆然としている二人に向かって手招きをした。
「リネットさん、サリサちゃん! ずっとそこにいたら風邪ひいちゃうよ。早くこっちに入りなよ!」
「あ……ああ……」
リネットとサリサは、半信半疑のまま、恐る恐る千秋のいるタープの下へと足を踏み入れた。
その瞬間。
「……っ!?」
「雨が……雨が、当たらないですぅ……!?」
二人の瞳が、極限まで見開かれた。
タープの下の空間に入った途端、それまで容赦なく全身を打ち据えていた大粒の雨が、嘘のようにピタリと止んだのだ。
見上げれば、千秋が張った巨大な布が、空の大部分を覆い隠している。
布の表面に当たった雨粒は、染み込むことなく、まるで弾かれるようにして水滴のままコロコロと滑り落ち、タープの傾斜に沿って外側へと流れ落ちていく。
タープの縁からは、流れ集まった雨水が小さな滝のように地面へと注がれていたが、その内側であるタープの下は、完全に乾燥した『絶対的な安全空間』となっていた。
「な、なんだこれは……!? これほど薄い布一枚で、嵐のような豪雨を完全に弾き返しているだと!?」
「す、すごいですぅ! 魔力結界の波紋すら見えないのに……これは、水属性の魔法を完全に無効化する伝説の『海竜の皮膜』で作られた外套ですか!?」
リネットがタープの裏側を信じられないものを見るような目で見つめ、サリサが興奮して震える声で叫んだ。
彼女たちのファンタジー全開の勘違いに、千秋はクスクスと笑った。
「海竜の皮膜じゃないよ。これは『ポリエステル』っていう素材に、テフロンっていう強力な撥水加工がされてるの。水が染み込まないように、布の表面がツルツルにコーティングされてるってわけ。おまけに縫い目にはシームテープが貼ってあるから、どれだけ大雨が降っても絶対に下には漏れてこないんだよ」
「ぽりえすてる……てふろん……! やはり、古代神代の魔導帝国が残した遺物……! チアキ殿は、神代の技術を現代に蘇らせた大賢者様だったのですね!」
「だから賢者じゃないってば。普通のキャンパーだよ」
千秋は呆れながらも、タオルを取り出して二人に渡した。
「ほら、まずはそのタオルでしっかり身体を拭いて。いくら雨をしのげても、濡れたままだと体温が奪われちゃうからね」
リネットとサリサは、渡されたフワフワのタオル(柔軟剤の香りがする)で、冷え切った身体と髪を拭き始めた。
タオルが雨水を吸い取り、少しずつ身体の強張りが解けていく。
ふと、リネットが周囲の音に気がついた。
パラパラパラパラ……。
ポツポツポツポツ……。
タープの薄い布を隔てたすぐ向こう側では、相変わらず激しい雨が降り続いている。
しかし、タープの下という安全な空間に入ったことで、その雨音の聞こえ方が、先ほどまでとは全く違うものに変わっていたのだ。
先ほどまでは、自分を殺そうとする自然の猛威であり、恐怖の象徴であった轟音。
それが今は、張られた布の表面を弾く、小気味よい一定のリズムを持った音へと変化している。
「……不思議な音だ」
リネットが、ポツリと呟いた。
彼女は目を閉じ、タープに当たる雨音に耳を澄ませた。
パラパラ、ポツポツ、サーッ……。
不規則なようでいて、どこか規則性のある自然のノイズ。
「最初はあんなに恐ろしかった雨の音が……今は、なんだか心地よく聞こえる。心が、スッと落ち着いていくような……」
「わかりますぅ……。なんだか、お母さんの子守唄を聞いているみたいで……すごく、眠たくなってきちゃいましたぁ……」
サリサもまた、濡れた髪をタオルで拭きながら、とろんとした目で雨音を聴いている。
「ふふっ。それが『雨キャン』の最大の魅力なんだよね」
千秋はローチェアを三脚展開し、二人に座るように促した。
そして、自分もチェアに深く腰掛け、タープの縁から流れ落ちる雨のカーテンを眺めながら言った。
「キャンパーの間ではね、雨の音には『ASMR』……まぁ、リラックス効果みたいなのがあるって言われてるの。テントやタープに雨が当たる音を聞きながら、温かいコーヒーを飲んだり、本を読んだりする。外は嵐なのに、自分たちだけは絶対に安全な場所に守られてるっていう特別感が、余計に心を落ち着かせてくれるんだよね」
千秋の言葉に、リネットとサリサは深く頷いた。
確かに、今の彼女たちの心には、先ほどまでの絶望感や恐怖は微塵も残っていなかった。
タープという「空飛ぶ屋根」に守られたこの空間は、異世界の魔の森のど真ん中にあるとは信じられないほど、圧倒的な安心感と静寂(心地よい雨音というノイズに包まれた静寂)に満ちていた。
布一枚。たったそれだけの物理的な障壁が、大自然の脅威をエンターテインメントへと変えてしまったのだ。
「チアキ……。あなたは本当に、恐ろしいほどに頼りになる女だ。私がどれほど剣の修行を積もうとも、この大自然の猛威を前にしては無力だった。それを、あなたはこんな魔法のような布一枚で、私たちを恐怖から救い出してくれた……」
リネットはタオルを膝に置き、千秋に向かって深く、騎士としての最上級の敬礼である、胸に手を当てる仕草を見せた。
「この命、そしてこの安心感。一生かけても返しきれない恩だ」
「大げさだなぁ。キャンプの知識がちょっと役に立っただけだよ。それに……」
千秋は立ち上がり、キャンプ道具の入ったコンテナボックスへと向かった。
「まだ安心するのは早いよ。雨はしのげても、身体が冷え切ってることには変わりないからね。ここからが、私の『雨キャン』の本当の力のお披露目なんだから」
千秋の言葉に、リネットとサリサが顔を見合わせる。
「本当の力、とは……?」
「チアキ殿、でも、この雨の中では薪が湿ってしまって、焚き火は絶対に不可能ですぅ。火魔法も、この湿気と雨粒の中では維持できませんし……温かいものを食べるのは、諦めるしかないのでは?」
サリサが悲しそうに言う。
異世界の常識では、雨が降れば火は使えない。それが絶対のルールだった。
しかし、千秋がコンテナから取り出してきたのは、薪でも着火剤でもなかった。
「焚き火がダメなら、ガスを使えばいいじゃない」
千秋がドヤ顔でアルミテーブルの上に置いたのは、無骨な形をした黒い金属の道具と、小さなボンベだった。
現代のキャンパーの最強の切り札、燃焼効率抜群の『シングルバーナー』と、その燃料である『OD缶(アウトドア缶)』である。
「この雨音のBGMの中で……冷え切った身体の五臓六腑に染み渡る、熱々で最高のお鍋料理を作ってあげるからね!」
千秋はバーナーの五徳を展開し、ガスのつまみを捻った。
――カチッ。
シュゴォォォォォォォォォォッ!!!
雨の湿気をものともせず、シングルバーナーから青く力強い炎が噴き上がる。
薪を燃やす煙すら出ない、純粋なガスの炎。
「ひいいいっ!? 鉄の台から、青い炎が噴き出したぁぁぁっ!?」
「無詠唱!? しかも、魔力ゼロでこれほどの安定した高火力……! やはりチアキ殿は、火の精霊王と契約を結んだ大魔導師……!!」
またしても勘違いを加速させてパニックになる二人をよそに、千秋は「はいはい」と聞き流しながら、大きな鍋をバーナーの炎の上にドカンと乗せた。
タープの下、心地よい雨音に包まれた空間で。
冷えた身体を限界まで温める、最強の冬キャンプ料理の調理が、今まさに始まろうとしていた。




