第31話:突然のどしゃ降り
現代日本における一週間の労働を終え、疲れ果てた身体を引きずるようにして帰宅した金曜日の夜。
千秋はいつものように、祖父の遺品であるアンティークのオイルランタンに火を灯し、アパートの勝手口の扉を開けた。
扉の向こう側に広がるのは、満天の星空と澄み切った空気に包まれた、異世界ファルマ大陸の静かな夜の森……のはずだった。
「うわっ……なんだか、すごい湿気。それに、空がどんよりしてる」
ランタンを片手に結界の中へと足を踏み入れた千秋を出迎えたのは、ねっとりとした生ぬるい風と、鼻腔を突く強い土の匂いだった。
空を見上げても、いつもなら宝石のように輝いているはずの異世界の星々は、分厚く黒い雲のベールに完全に覆い隠されてしまっていた。月明かりすら届かない森の中は、ランタンのオレンジ色の光がなければ、一寸先も見えないほどの完全な漆黒に沈んでいる。
「ペトリコール……雨が降る前の匂いだな、これ」
生粋のキャンパーである千秋の嗅覚と経験則が、天候の急変を告げていた。
大気中の湿度が一気に上がり、木々の葉がざわざわと不穏な音を立てて揺れ始めている。森の動物たちや虫の音はピタリと止まり、まるで嵐の到来を前に息を潜めているかのようだった。
「山の天気は変わりやすいって言うけど、こっちの世界でも同じなんだね。のんびりしてる暇はなさそう。急いで設営しちゃおう」
千秋はいつも以上のスピードで動いた。
愛用のワンポールテントを広げ、ペグを素早く、しかししっかりと地面に打ち込んでいく。センターポールを立ち上げ、テントの形が完成したちょうどその時。
――ポツリ。
千秋の頬に、大粒の冷たい水滴が一つ、落ちてきた。
「あ、降ってきた」
その最初の一滴は、まるで天の堰が切られる合図だったかのように。
数秒後には、ポツポツという雨音が、バラバラバラッ! という暴力的な轟音へと変わった。
ザァァァァァァァァァァッ!!!!
「うわっ、すごい勢い! バケツをひっくり返したみたいな土砂降りじゃない!」
千秋は慌ててテントの中へと滑り込み、ファスナーを半分ほど閉めた。
外の景色は、もはや白い雨のカーテンに遮られて何も見えない。大粒の雨が広葉樹の葉を激しく打ち据え、地面はあっという間にぬかるみ、水たまりが無数に形成されていく。
普通の人間であれば、この突然の豪雨にパニックになるところだろう。
しかし、千秋はテントの中から降りしきる雨を眺めながら、むしろ少しだけワクワクとした笑みを浮かべていた。
「よしよし、テントはしっかり張れたし、雨漏りもなし。……たまには、こういう『雨キャン』も悪くないんだよね。雨音って、最高のBGMになるし」
キャンパーの中には、あえて雨の日を選んでキャンプに出かける『雨キャン愛好家』が存在する。
周囲の雑音をすべてかき消してくれる雨音のASMR効果。テントという小さな布一枚に守られ、外の過酷な環境から隔絶された絶対的な安全地帯にいるという、一種の秘密基地のような心地よさ。
千秋もまた、そんな雨キャンプの魅力に取り憑かれた一人だったのだ。
とはいえ、外の雨脚はますます強まるばかり。
このままでは外で焚き火を熾すことはおろか、一歩もテントから出られないだろう。
千秋が「明日の朝には止むといいなぁ」と呑気に考えていた、まさにその時だった。
――バシャッ! バシャバシャッ!!
激しい雨音に混じって、泥水を乱暴に跳ね飛ばして走ってくる、二つの足音が聞こえてきた。
それは、千秋のテント(ランタンの結界)を目指して、森の奥からまっすぐに突き進んでくる。
「はぁっ、はぁっ……! サリサ、急げ! 結界はもうすぐそこだ!」
「む、無理ですぅぅっ……! ローブが水を吸って、重くて……!」
聞こえてきたのは、千秋のキャンプサイトの常連である女騎士リネットと、魔法使いの少女サリサの悲痛な叫び声だった。
二人は、結界の境界線を文字通り転がり込むようにして突破し、千秋のテントのすぐ目の前で、泥だらけになってへたり込んだ。
「えっ!? リネットさん!? サリサちゃん!?」
千秋は驚いてテントから顔を出した。
そこにいた二人の姿は、あまりにも悲惨なものだった。
リネットの銀色の鎧は雨水で完全に濡れそぼり、本来なら美しいはずの金髪が海藻のように顔に張り付いている。
サリサに至っては、魔法使い特有のゆったりとしたローブが雨水をたっぷりと吸い込み、まるで鉛の重りのように彼女の華奢な身体にのしかかっていた。尖った帽子は折れ曲がり、杖を握る手は寒さでガタガタと激しく震えている。
「チ、チアキ……! 無事だったか……!」
リネットは息も絶え絶えに顔を上げ、千秋の無事を確認して安堵の表情を浮かべたが、すぐにその顔を苦痛に歪めた。
「すまない……。明日の朝から合流しようと、今夜のうちに森の近くまで来ていたのだが……急激な天候の変化に巻き込まれてしまった」
「ひぐっ、ううぅ……さむい、寒いですぅ……! 森の夜の雨なんて、死んじゃいますぅ……!」
サリサが涙と雨水でぐしゃぐしゃになった顔を覆って泣きじゃくる。
現代日本人の感覚からすれば「たかが雨で大げさな」と思うかもしれないが、異世界ファルマ大陸、特に凶悪な魔獣が跋扈する『魔の森』において、嵐に見舞われるということは、文字通り『死』に直結する絶体絶命の危機なのだ。
雨は体温を急速に奪い、低体温症を引き起こす。
視界が悪くなることで、魔獣の接近に気づくのが遅れる。
そして何よりも恐ろしいのが、『火が使えなくなる』ことだった。
「チアキ、大変だ! これほどの土砂降りでは、焚き火を熾すことなど絶対に不可能だ! 火がなければ、暖をとることも、濡れた服を乾かすことも、温かい食事を作ることもできない!」
リネットが絶望に満ちた声で叫ぶ。
彼女の騎士としてのサバイバル知識が、現在の状況がいかに絶望的であるかを冷酷に告げていた。
周囲の薪は完全に水分を吸ってしまい、いくら火打石を叩いても火はつかない。このまま夜を明かせば、魔獣に襲われずとも、寒さと疲労で命を落とす危険性が高い。
「サリサ! お前の魔法でなんとかならないか!? 火属性の魔法で、この雨を蒸発させるか、せめて私たちの身体だけでも温められないか!」
「む、無理ですぅぅっ!!」
リネットの懇願に対し、サリサは首を横に激しく振った。
「火魔法の火種を出しても、この雨粒の暴力の前に一瞬で掻き消されてしまいますぅ! マナの集中も雨音で乱されて……今の私には、指先にロウソクの火を灯すのが精一杯ですぅ……!」
ファンタジー世界における魔法使いであっても、大自然の猛威の前には無力だった。よほどの高位魔導師であれば天候を操作したり、巨大な結界で雨を弾いたりできるのかもしれないが、落ちこぼれのサリサには不可能だ。
「そんな……。火魔法も使えないとなれば、いよいよ終わりだ」
リネットはガクンと膝をつき、泥水の中に両手をついた。
強き女騎士の顔に、明確な『死への恐怖』と『絶望』が浮かび上がる。
「私たちは……この冷たい雨の中で、ただ凍えて夜が明けるのを待つしかないのか。チアキ、すまない。私たちが転がり込んだせいで、あなたの小さなテントの場所を奪うわけにはいかない。私たちは、この木の下で身を寄せ合って耐えるゆえ……」
リネットは悲壮な決意を固め、ガタガタと震えるサリサを抱き寄せようとした。
異世界の常識では、雨の森での野営は「耐え忍ぶ」以外の選択肢がない。木の洞や岩陰に身を隠し、ただひたすらに体温が奪われていく恐怖と戦いながら、嵐が過ぎ去るのを待つ地獄の時間。
しかし。
そんな悲劇のヒロインのような絶望に包まれている二人の前に、一枚の真っ白でフワフワの布が、ポンッ、ポンッと投げ渡された。
「……えっ?」
「ほらほら、そんな悲壮な顔しないで。まずはそのタオルで、しっかり髪と身体を拭いて」
リネットとサリサが顔を上げると、そこには、全く焦る様子もなく、むしろこれから始まる一大イベントを楽しみにしているかのような、底抜けに明るい笑みを浮かべた千秋の姿があった。
「チアキ……? しかし、この雨では火が……」
「焚き火ができない? 雨で火魔法が消えちゃう?」
千秋はテントの中からズイッと身を乗り出し、腰に手を当てて胸を張った。
彼女の瞳の奥には、現代日本のキャンパーとしての絶対的な自信と誇りが燃え上がっている。
「山の天気は変わりやすいって言うけど、これくらいの雨でキャンプを諦めるなんて、キャンパーの風上にも置けないよ。雨が降ったなら降ったで、最高の『雨キャン』を楽しめばいいだけじゃない」
「あ、雨キャン……?」
「そう。雨が降ってて火が使えないって絶望してるお二人に、現代の『カガク』の力を使った、最高に快適で優雅な雨の日の過ごし方を教えてあげる」
千秋はそう言い放つと、テントの奥から、大きな収納袋に入った『謎の塊』と、数本の金属製のポールを取り出してきた。
「さあ、ボーッとしてないで! 今から私のキャンプサイトに、雨を完全に弾き返す『空飛ぶ屋根』をドカーンと作っちゃうからね!」
絶望する異世界人たちをよそに、千秋の逆襲……大自然の猛威に対する、現代キャンプギアによる華麗なる反撃が、今まさに始まろうとしていた。




