第30話:ホロホロのコーラ煮と、男たちの歓喜
深い森の木々が、夕日を浴びて黄金色に染まり始める頃。
千秋のキャンプサイトは、言葉では言い表せないほどの『暴力的なまでの甘辛い匂い』に完全に支配されていた。
焚き火台の上に鎮座する黒鉄の万能鍋、ダッチオーブン。
その分厚い蓋の上には熱々の炭(上火)が乗せられ、下からは焚き火の熾火がじっくりと熱を加え続けている。
上下からの熱でオーブン状態となった鍋の内部では、十キロの塊から切り出された二キロの極上オーク肉が、『コーラ』という現代の秘薬と、醤油、ニンニク、生姜によって、数時間にも及ぶ過酷な錬成を受けていた。
蓋の隙間から時折、プシュウゥゥゥという音と共に細い湯気が吹き出す。
その湯気が放つ香りは、時間が経つにつれて劇的な変化を遂げていた。最初はコーラの甘いカラメル臭と醤油の香ばしさが際立っていたが、今ではオーク肉から溶け出した極上の動物性脂と見事に融合し、匂いだけで白米が三杯は食べられそうなほどの『究極のテリヤキ臭』へと進化しているのだ。
「……はふぅ、はふぅ……。ま、まだか……チアキ、まだ食えないのか……?」
「俺の胃袋は、もう限界だ……。この匂いを嗅がされ続けて、酒だけで腹を持たせるのは拷問に近いぞ……」
タープの下では、オーク肉を狩ってきた張本人であるジンツとバルガスが、すっかり生気を失った顔で項垂れていた。
彼らの手には木のジョッキが握られており、待ち時間の間に果実酒やエールを何杯も煽っていたのだが、ダッチオーブンから放たれる匂いが強烈すぎて、アルコールでは全く空腹をごまかしきれていなかったのだ。
むしろ、酒を飲んだことで食欲がさらにブーストされ、生き地獄のような数時間を味わう羽目になっていた。
「あはは、ごめんごめん。でも、塊肉をホロホロにするには、これくらいじっくり時間をかけないとダメなんだよ」
千秋はローチェアに座り、のんびりと缶ビール(三本目)を傾けながら笑った。
現代の圧力鍋を使えばもっと早いが、ダッチオーブンでじっくりと水分を飛ばしながら煮詰めていくこの『放置時間』こそが、キャンプならではの贅沢な時間の使い方なのだ。
「でも、匂いもすっかり香ばしくなってきたし……水分もいい感じに飛んで、ソースが煮詰まってる頃合いだね」
千秋がそう言うと、死にかけていたジンツとバルガスが、弾かれたように顔を上げた。
彼らの目に、かつての戦場で見せたようなギラギラとした光が宿る。
「そ、そろそろ……そろそろなのか!?」
「うむ! いよいよ、あの硬いオーク肉の塊がどうなったのか、真実を知る時が来たのだな!」
千秋は「大げさだなぁ」と苦笑しながら、ローチェアから立ち上がった。
両手に耐熱グローブをはめ、専用のリフター(蓋を持ち上げる金具)を手に持つ。
焚き火台の前に立つと、ジンツとバルガスだけでなく、いつの間にかやってきていたリネットやサリサ、そしてエルフのロイドまでもが、息を呑んでダッチオーブンを囲い込んだ。
「それじゃあ、開けるよ。火傷しないように、ちょっと離れててね」
千秋はリフターの先端を、ダッチオーブンの蓋の取っ手に引っ掛けた。
ズッ、と重い鉄の擦れる音が鳴る。
そして。
ガァァァァァァンッ!!
重厚な蓋が持ち上げられた瞬間。
鍋の中に閉じ込められていた、数時間分の熱気と香りが、一気に外界へと解き放たれた。
「おおおおおぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!」
周囲を取り囲んでいた異世界人たちから、地鳴りのような歓声と悲鳴が同時に上がった。
濛々(もうもう)と立ち昇る湯気が風に流され、鍋の中の全貌が姿を現す。
そこにあったのは、もはや彼らが知る『オークのブロック肉』ではなかった。
ダッチオーブンの底でグツグツと煮え滾っているのは、コーラの水分が完全に飛び、糖分と醤油が極限まで煮詰まってできた、とろみのある『漆黒の飴色ソース』。
そして、そのソースの海に浸かっている巨大な肉の塊は、見事なまでにテリッテリの、まるで宝石のように輝く黄金色のコーティングを纏っていた。
「な、なんだこの美しい輝きは……! 肉が……肉が光っているぞ!!」
「しかもこの匂い! ただ肉を焼いただけでは絶対に出ない、甘くて、しょっぱくて、香ばしくて……脳髄が直接溶かされそうな匂いだ!!」
バルガスとジンツが、鍋を覗き込んでヨダレを滝のように流している。
千秋の宣言通り、コーラの大量の糖分が、最高のテリヤキソースとなって肉の表面を完璧にキャラメリゼしていたのだ。
「ふふふ。見た目と匂いは合格みたいだね。でも、一番の問題は『硬さ』でしょ?」
「そ、そうだ……。いくら美味そうな匂いでも、あのオーク肉だ。ブロックのままでは、到底噛み切れる硬さではないはず……」
バルガスがゴクリと喉を鳴らしながら、一抹の不安を口にする。
千秋は耐熱グローブを外すと、トングとアウトドアナイフを手に取った。
「ジンツさん。ちょっと、このお肉にナイフを入れてみてよ」
「えっ? 俺が切るのか?」
「うん。狩ってきた本人が確かめるのが一番でしょ」
千秋からナイフとトングを受け取ったジンツは、緊張した面持ちでダッチオーブンの前へと進み出た。
彼もまた、過去に何度も硬いオーク肉に悩まされてきた一人だ。この巨大な塊にナイフを入れるには、両手で体重をかけても刃が通らないほどの抵抗があるはずだと覚悟していた。
「よし……いくぜ。うおおおおっ!!」
ジンツは気合いと共に、ナイフの刃をテリッテリに輝くオーク肉の塊へと突き立てようとした。
しかし。
――スッ。
「……え?」
ジンツの声が、間の抜けたものになった。
気合いを入れて力を込めたはずの右手は、まるで空を切ったかのように、一切の抵抗を感じなかったのだ。
いや、空を切ったのではない。ナイフの刃は、間違いなくオーク肉の分厚い塊の中心まで達している。
まるで、常温で柔らかくなったバターに熱いナイフを入れたかのように。いや、豆腐を切るよりも滑らかに。
刃が、一切の抵抗なくスゥッと肉の底まで沈み込んでしまったのだ。
「な、なんだこれ……!? 刃が……勝手に沈んでいく……!」
ジンツが混乱したまま、ナイフを横に引こうとした瞬間。
――ホロォッ……。
信じられない光景が、全員の目の前で展開された。
切り分ける間でもなく。
ナイフを入れたそばから、あの強靭で絶対に噛み切れないはずだったオーク肉の筋繊維が、まるでほどける糸のように、自重に耐えきれずにホロホロと崩れ落ちたのだ。
「ば、馬鹿なッ!!?」
「オーク肉が……あの強靭な筋繊維の塊が、力を入れずとも崩れ去っただと!?」
バルガスが目玉が飛び出んばかりに驚愕し、リネットやロイドも言葉を失ってフリーズしている。
千秋の狙い通り、コーラに含まれる炭酸ガスと酸味が、数時間の煮込みによって肉のタンパク質を徹底的に分解し、極限の柔らかさを実現していたのである。
「ほら、一口サイズに崩して、ソースをたっぷり絡めて食べてみて!」
千秋の言葉に我に返ったジンツは、震える手でフォークに持ち替え、ホロホロに崩れたオーク肉の一片を突き刺した。
持ち上げようとするだけでも、肉が自重で崩れ落ちそうになるほど柔らかい。それをなんとか口元まで運び、パクリと放り込んだ。
――ジュワァァァァァァァッ!!!!
「ッッッッッッッッッッ!!!」
ジンツの目が、限界まで見開かれた。
噛む、という動作すら必要なかった。
舌の上に肉を乗せた瞬間、テリッテリの甘辛いコーラ醤油ソースが口いっぱいに弾け飛ぶ。そして、肉の繊維は舌と上顎で軽く押しつぶしただけで、まるで淡雪のように溶けて消えてしまったのだ。
消えた後に残るのは、オーク肉特有の暴力的なまでの強烈な旨味と、とろけるような脂の甘み。それが、コーラと醤油の完璧な味付けによって、旨味の核爆発を引き起こしている。
「あ……あぁ……っ……!」
ジンツは、もはや言葉を発することすらできず、両手で顔を覆ってその場に崩れ落ちた。
美味い。美味すぎる。そして、何よりも『柔らかい』。
自分が知っている、あのゴムのような硬いオーク肉とは完全に別の食べ物だ。これは、神が食す幻の天界豚の肉なのではないか。
「ジ、ジンツ! おい、大丈夫か!? 一体どんな味が……ええい、俺も食うぞ!!」
我慢の限界を超えたバルガスが、自前のフォークを突き出し、巨大な塊から豪快に肉をむしり取って口へと放り込んだ。
「おおおおおぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!」
数秒後、森中に響き渡るような、バルガスの野太い咆哮が轟いた。
彼は顔の刀傷をくしゃくしゃにして、両目から滝のように涙を流していた。
「美味い……! 美味すぎる!! なんだこの柔らかさは!? 歯がなくても食えるぞ!! オーク肉の旨味が……俺の口の中で、暴力的なまでに暴れ回っている!!」
「俺たちの……俺たちの知ってるオーク肉じゃない!! チアキ、アンタやっぱり女神か何かだろ!! こんな神の食べ物、一生ついていくしかねえ!!」
ジンツとバルガス。
屈強な異世界の戦士二人が、ダッチオーブンの前で男泣きしながら、ホロホロのオーク肉を狂ったように貪り食い始めた。
その光景を見ていたリネットやサリサ、ロイドたちも、「私も!」「我にもその奇跡の肉を!」と殺到し、キャンプサイトは一時、完全なる肉の争奪戦のカオスと化した。
「あはは! 大成功だね! コーラ煮はキャンプの基本だからねぇ」
千秋は、歓喜のあまり狂乱状態に陥っている異世界人たちを微笑ましく眺めながら、自分用に確保しておいた小皿のオーク肉を一口食べた。
甘辛くて、香ばしくて、口の中でとろける最高のお肉。
千秋はすかさず、左手に持っていた冷たい缶ビールを喉へと流し込んだ。
「くぅぅぅっ! 最高!! やっぱり、この濃い味付けのお肉にはビールが一番合うわー!!」
プハァッと息を吐き出し、千秋は至福の笑みを浮かべた。
男たちのロマンである「巨大な塊肉」。
それを、現代のキャンパーの叡智である『ダッチオーブン』と、漆黒の秘薬『コーラ』が見事に極上の料理へと昇華させた瞬間だった。
秋の冷たい風が吹き抜ける森の中で、熱々のコーラ煮と冷たいビールの無限ループに酔いしれながら、千秋のソロキャンプ(という名の異文化交流会)は、最高潮の盛り上がりを見せていくのだった。




