第25話:結界に倒れ込んだ影
深い、深い異世界の森の夜。
木々の葉が色づき、落ち葉が地面を覆い尽くす秋の終わり。深夜の魔境は、文字通り「絶対的な死の領域」と化していた。
太陽の光が届かないこの時間帯、森の支配者は人間やエルフたちから、獰猛で凶悪な夜行性の魔獣たちへと完全にすり替わる。
吐く息が白く染まるほどの冷え込みの中、漆黒の闇を切り裂くように、一つの影が木々の間を必死に駆け抜けていた。
「はぁっ……はぁっ……っ!」
荒く、血の混じった息を吐き出しながら走るのは、一人の女性だった。
頭の頂部に生えた、ピンと立った狼の耳。そして腰から伸びる、ふさふさとした長い尻尾。獣人(狼族)の弓使い、ナドヤである。
普段は寡黙でクール、そして獲物を狩る際には一切の音を立てない彼女だが、今の姿はあまりにも痛ましかった。
身に纏っている革の軽鎧は鋭い爪によって無残に引き裂かれ、そこから覗く褐色の肌には幾筋もの深い裂傷が刻まれている。傷口からは赤黒い血がとめどなく流れ出し、彼女の走る軌跡に点々と血溜まりを作っていた。
背負っている矢筒はすでに空っぽで、頼みの綱である長弓も、逃走の最中に折れて使い物にならなくなっている。
――ズシン、ズシン、バキボキィッ!!
ナドヤの背後から、大木をなぎ倒すほどの圧倒的な質量と暴力が迫ってくる。
追ってきているのは、四つの赤い目を持つ巨大な黒熊の魔獣、『ブラッド・グリズリー』だった。
立ち上がれば優に三メートルを超え、その前足の一振りは岩をも粉砕する。通常、熟練の冒険者パーティーが六人がかりでようやく討伐できるほどの強大な魔獣である。
ナドヤは単独で狩りをしている最中、不運にもこの凶悪な捕食者と遭遇してしまったのだ。必死に矢を射掛け、急所を狙ったものの、魔獣の分厚い毛皮と筋肉には決定打とならず、逆に相手の怒りを買い、執拗な追跡を受けることになってしまった。
(もう……限界だ……)
ナドヤの視界が、失血と極度の疲労によってぐらりと揺れた。
狼族の優れた身体能力をもってしても、この傷と寒さでは、これ以上逃げ切ることは不可能だ。足は鉛のように重く、心臓は破裂しそうなほど早鐘を打っている。
後ろから迫る魔獣の荒い鼻息と、血生臭い口臭が、すぐそこまで迫ってきているのを感じる。
次にあの巨大な爪が振り下ろされれば、自分の身体は紙切れのように引き裂かれ、肉塊と化すだろう。
ナドヤは覚悟を決めた。せめて最後は、狼族の戦士として、牙を剥いて立ち向かい、誇り高く死のう。
足を止め、折れた弓の代わりに腰の短剣を抜こうとした、その時だった。
「……ん?」
ナドヤの優れた獣の嗅覚と直感が、前方から漂ってくる『異質な気配』を捉えた。
狂暴な魔獣の気配が満ちるこの死の森の中で、その一角だけが、まるでぽっかりと切り取られたように『無』だったのだ。
いや、無ではない。
血の匂いも、腐敗臭も、魔素の乱れもない。ただひたすらに静かで、穏やかで、そしてどこか『温かい匂い』がする空間。
ナドヤの本能が、警鐘ではなく、強烈な「誘引」のシグナルを鳴らした。
(あそこに行けば……助かるかもしれない……!)
根拠は全くない。しかし、死の淵に立たされた生命の最後の足掻きとして、ナドヤは残された全ての力を振り絞り、その『異質な空間』に向かって文字通り転がるように飛び込んだ。
――ヒュンッ。
何かの薄い膜のようなものを通り抜けた感覚があった。
その直後。
ドゴォォォォォォンッ!!
「グルォォォォォォォォォッ!!」
ナドヤの背後、ほんの数メートルしか離れていない場所で、ブラッド・グリズリーが巨大な前足を地面に叩きつけ、怒りに満ちた咆哮を上げた。
鼓膜が破れそうなほどの凄まじい大音量。
ナドヤは地面に倒れ込んだまま、恐怖で身をすくませ、目を固く閉じた。
終わった。食べられる。
そう思って、次の激痛を待った。
しかし。
一秒、二秒、十秒と経っても、魔獣の爪はナドヤの身体に突き立てられなかった。
恐る恐る目を開け、背後を振り返る。
「……え?」
ブラッド・グリズリーは、ナドヤのすぐ目の前にいた。
それなのに、魔獣の四つの赤い目は、地面に倒れているナドヤの姿を全く捉えていない。キョロキョロと首を振り、鼻をクンクンと鳴らして周囲の匂いを嗅いでいるが、すぐ足元に血を流している獲物がいることに、全く気づいていないのだ。
それどころか、魔獣はナドヤのいる方向を「ただの木が立ち並ぶ風景」とでも誤認しているかのように、苛立たしげに地面を引っ掻き回している。
「グルァァ……ッ!」
やがて、ブラッド・グリズリーは完全に獲物を見失ったと判断したのか、忌々しげにもう一度低く唸り声を上げると、ドスドスと重い足音を立てて、森の奥深くへと去っていってしまった。
ナドヤは、自分の身に何が起きたのか全く理解できなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
彼女が転がり込んだこの空間――オレンジ色の淡い光を放つ、奇妙な真鍮のランプ(アンティークランタン)の光が届く半径二十メートルほどの円形のエリア。
ここは、『絶対に魔獣が入ってこられない、そして認識すらできない絶対の安全地帯』だったのだ。
千秋の持つアンティークランタンが張る『魔物除け&認識阻害の結界』。
この結界は、悪意や殺意を持った存在を完全にシャットアウトする。しかし、ナドヤのように、ただ「助かりたい」「安全な場所へ逃げたい」という純粋な生存本能だけで飛び込んできた者に対しては、一切の抵抗を見せずに内側へと招き入れる性質があった。
「たす、かった……のか……?」
魔獣の足音が完全に聞こえなくなったことを確認し、ナドヤは小さく安堵の息を吐き出した。
だが、安堵したことで、極限まで張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れてしまった。
全身の傷口から激しい痛みが一気に押し寄せ、大量の血を失った身体は急速に熱を奪われていく。晩秋の深夜の冷気が、容赦なく彼女の体温を奪い、ガタガタと激しい震えを引き起こす。
ナドヤの視界が、急速に暗く狭まっていく。
ぼんやりとした意識の中で、彼女の目に映ったのは、ランタンの光に照らされた奇妙な形の布の家だった。
(あそこに……誰か……)
ナドヤはそのテントに向かって手を伸ばそうとしたが、もはや指一本動かす力すら残っていなかった。
「……あ……」
ドサリ。
獣人の少女は、力尽き、冷たい地面の上で完全に意識を手放した。
* * *
「……んん……?」
同じ頃、その奇妙な形の布の家――ワンポールテントの中では。
千秋は、マイナス十五度対応の極厚マミー型シュラフにすっぽりと包まれ、さらに底に敷いた電気毛布のスイッチを『中』にして、まるで冬眠中のクマのようにぬくぬくと爆睡の海を漂っていた。
外の気温はすでに五度を下回るほど冷え込んでいるはずだが、最新のカガクの力に守られたテントの内部は天国のように暖かく、快適そのものである。
千秋が目を覚ましたのは、テントの外から聞こえた微かな「ドサッ」という重い音のせいだった。
「……なんだろう、今の音」
千秋はシュラフのファスナーから顔だけを出し、眠い目をこすりながらテントの壁越しに外の気配を窺った。
先ほど、遠くの方で地響きのような大きな咆哮が聞こえた気もする。
もしかして、熊やイノシシのような野生動物がキャンプサイトの近くをウロウロしているのだろうか。
「結界があるから大丈夫なはずだけど……でも、動物が突進してきてテントのロープに引っかかったりしたら厄介だな」
千秋はのそりと起き上がり、シュラフから抜け出した。
フリースジャケットを羽織り、小さなLEDのヘッドライトを手に取る。
ソロキャンパーにとって、夜中の野生動物への警戒は必須スキルである。もしクマだとしたら、音を立てずに様子を窺うのが定石だ。
千秋は息を殺し、テントの入り口のファスナーを、ジリ、ジリ……と音を立てないようにゆっくりと下げていった。
ほんの少し開いた隙間から、片目だけで外の様子を覗き込む。
外はランタンのオレンジ色の光がぼんやりと周囲を照らしているだけで、静まり返っていた。
野生動物の姿は見えない。
しかし。
テントのすぐ目の前、タープの下のアルミテーブルの傍らに、『何か』が倒れているのを発見した。
「……えっ?」
千秋は思わず声を漏らしそうになり、両手で口を覆った。
倒れていたのは、動物ではなかった。
いや、半分は動物のようだが、半分は人間だった。
頭にはピンと立った犬のような(狼の)耳があり、腰からは長い尻尾が垂れている。だが、顔立ちや身体の作りは間違いなく人間の女性のものだった。
何より千秋をギョッとさせたのは、彼女の着ている革の服がズタズタに引き裂かれ、全身が赤黒い血にまみれていたことだ。
(な、なに!? コスプレ……? いや、血糊にしては生々しすぎるし、こんな夜中の森の奥にいるわけない! ってことは、ジンツさんたちみたいな異世界人の……獣人さん!?)
千秋の頭の中で、状況が一瞬にしてパズルのピースを合わせるように組み上がった。
異世界ファルマ大陸には、エルフであるロイドがいるのだから、獣人がいても不思議ではない。そして、彼女が全身血だらけで倒れているということは、何らかの魔獣に襲われて、この『結界』の中に逃げ込んできたということだ。
千秋は咄嗟にテントのファスナーを全開にし、倒れている獣人の少女の元へと駆け寄った。
「ちょっと! 大丈夫ですか!?」
千秋が肩を揺すると、獣人の少女――ナドヤは、微かに「うぅ……」とうめき声を漏らした。
息はある。だが、触れた肌は氷のように冷たく、ガタガタと激しく震えている。
傷口からの出血は、彼女自身の驚異的な自然治癒力のおかげか、あるいは寒さで血管が収縮しているためか、今はなんとか止まりかけてかさぶたのようになっている。即死するような致命傷には見えない。
だが、問題は『極度の疲労』と『寒さ』だった。
(このまま放置したら、凍死するか衰弱死しちゃう……!)
千秋のキャンパーとしての危機管理能力が、瞬時に警告を発した。
身体を温め、カロリーを摂取させなければならない。
手っ取り早いのは焚き火で暖をとることだが、今は深夜。火はすっかり消えて灰になっており、一から麻紐に火花を散らして薪を組んで火を育てるには、どんなに急いでも数十分はかかってしまう。
衰弱しきっている彼女には、その数十分の猶予すら致命的になるかもしれない。
「火を熾してる暇はないな……。それなら」
千秋の表情が、一瞬にして真剣なものへと変わった。
彼女はナドヤを自分のテントの入り口付近まで引きずり寄せ、自身の使っていた電気毛布の端を彼女の身体に掛けて冷気を遮断した。
そして、傍らのコンテナボックスから、ある『現代の文明の利器』を取り出した。
それは、焚き火のような風情もロマンもない。
しかし、現代のキャンパーにとって、これほど頼りになる「速さ」と「利便性」を兼ね備えた道具はない。
「こういう緊急事態の時は、やっぱりカガクの力に頼るのが一番だね」
千秋が取り出したのは、薄型の黒いボディを持つ『カセットコンロ』だった。
アウトドア専用に作られた、風に強いタフなモデル。そして、その横にはカセットガス(CB缶)が一本。
カチャッ、という金属音と共にガス缶をセットする。
つまみを押し込み、左へと捻る。
――カチッ。
ボォォォォォォォォォッ!!
点火用の火花がガスに引火し、轟音と共に、勢いよく燃え盛る青い炎がバーナーのヘッドから噴き出した。
着火剤も、薪も、火を育てる時間も一切不要。
つまみを捻るだけで、一瞬にして最大火力の熱源を生み出す現代の魔法。
「よし、一発着火。あとは、身体の芯から温まる即効性のある『日本の家庭の味』を作ってあげるからね」
千秋はクッカー(小鍋)を青い炎の上に乗せ、クーラーボックスへと手を伸ばした。
深夜の異世界の森。
傷ついた獣人の少女を救うため、千秋の「超時短・緊急キャンプ飯」の調理が、轟々(ごうごう)と燃えるカセットコンロの青い炎と共に幕を開けた。




