第24話:バター醤油の魔力
異世界の秋の森。澄み切った冷たい空気を切り裂くように、千秋のタープの下では、アルミホイルの包みから漏れ出す「バターと醤油」の暴力的な香りが渦巻いていた。
「さあ、開けてみて! 熱いから気をつけてね!」
千秋の合図とともに、テオとマイの姉弟は、ゴクリと大きく唾を飲み込んでから、目の前に置かれた銀色の包みへと手を伸ばした。
指先でそっと、上部で折り込まれていたアルミホイルの端をつまむ。そして、宝箱の封印を解くように、左右にゆっくりと開いていった。
――プシュウウウウウッ!!
完全に開かれた瞬間、それまで狭い隙間から漏れ出していただけの湯気が、まるで火山が噴火したかのような勢いで一気に空高く立ち昇った。
同時に、周囲の空間を支配していた香りが、さらに一段階上の次元へと爆発した。
「……っ!!」
「あぁ……っ!」
姉弟の口から、言葉にならない歓喜の吐息が漏れた。
湯気が晴れた後に現れたのは、まさに『秋の味覚の宝石箱』と呼ぶにふさわしい光景だった。
底に敷かれた玉ねぎは、加熱されて半透明になり、自身の甘い水分をたっぷりと滲み出させている。その玉ねぎのベッドの上で、サーモンピンクの『甘塩シャケ』が、ふっくらと見事に蒸し上がっていた。
シャケの身の隙間からは、白く濁った良質な脂がジュワジュワと溢れ出している。
そして、そのシャケの周囲を彩るように配置された深紅の異世界キノコ『ホムラタケ』は、熱を通されたことでさらに色鮮やかな朱色へと変化し、表面がツヤツヤと輝いていた。
何よりも彼らの視覚と嗅覚を強烈に刺激したのは、全体をコーティングしている黄金色の液体だった。
溶けきった北海道産バターと、最後に数滴垂らした醤油。それらがシャケの脂とキノコのエキス、玉ねぎの水分と混ざり合い、ホイルの底で奇跡の『特製バター醤油ソース』を生み出していたのだ。
「す、すごい……! お魚が、キラキラ光ってる……!」
「それにこの匂い……。香ばしくて、甘くて、少しだけしょっぱくて……お腹がぺこぺこになっちゃう匂い……!」
テオは目を輝かせ、マイは両手を胸の前で組んでうっとりとした表情を浮かべた。
ファルマ大陸の辺境の村で暮らす彼らにとって、海魚と乳製品、そして大豆発酵調味料(醤油)の組み合わせは、もはや未知の魔法の領域である。
「ほらほら、匂いだけ嗅いでてもお腹はいっぱいにならないよ。冷めないうちに食べてみて。木製のスプーンで、シャケとキノコと玉ねぎを一緒にすくって、ソースをたっぷり絡ませるのがオススメ!」
千秋がそう言うと、テオは待ちきれないとばかりに、手にした木製のスプーンをホイル焼きの中へと勢いよく突き立てた。
サクリ、と。
分厚いシャケの身が、驚くほど柔らかく崩れる。テオはそこにホムラタケと玉ねぎを乗せ、底に溜まった黄金色のソースをたっぷりとすくい取ってから、大きく口を開けて一気に放り込んだ。
「アッヅ! はふっ、ほふっ……!」
熱々の具材に最初は目を白黒させたテオだったが、数回咀嚼した瞬間。
彼の動きがピタリと止まり、その小さな瞳が極限まで見開かれた。
「……!? な、なんだこれぇぇぇっ!!」
テオが大声で叫んだ。
「お魚なのに、お口の中でとろけちゃう! それに、このソース……! あまじょっぱくて、すっごくコクがあって、お魚の脂と混ざってめちゃくちゃ美味しいよ!!」
バターの濃厚な風味と、醤油のキリッとした塩気が、甘塩シャケの旨味を何十倍にも引き上げている。直火で焼いたのではなく、アルミホイルで蒸し焼きにしたことで、身のパサつきは一切なく、しっとりとした極上の食感が保たれていた。
「テ、テオったら、大きな声を出して……。私も、いただきます」
マイもまた、震える手でスプーンを動かし、具材をすくって上品に口へと運んだ。
――コリッ。
マイの口の中で、心地よい音が鳴った。
彼女が驚いたのは、シャケの美味しさもさることながら、自分たちが持ってきた異世界の食材『ホムラタケ』の食感だった。
「わあ……! ホムラタケが、すごくいい歯ごたえになってる……! コリコリしてるのに、噛むたびに中からバターとお醤油の味がジュワァッて溢れてきて……!」
千秋も自分の分のホイルを開け、ホムラタケを一つ口に入れてみた。
(なるほど……! これは、エリンギだ。食感は完全に厚切りのエリンギ。でも、キノコ自体の旨味がすごく強くて、バター醤油との相性が抜群すぎる!)
ホムラタケは、千秋の予想を遥かに超える優秀な食材だった。シャケの主役級の存在感を全く邪魔することなく、むしろ食感のアクセントとして完璧な脇役を演じきっている。
そして、底に敷かれた玉ねぎが、すべての旨味を吸い込んでトロトロの極上ソースの一部と化しており、これを一緒に食べることで味に奥深さと優しい甘みが加わっていた。
「おいしい……! 美味しいです、チアキさん! こんなに美味しいお料理、私、生まれて初めて食べました……!」
マイは感極まったように目尻に涙を浮かべながら、スプーンを動かす手を止められなくなっていた。
テオに至っては、もはや言葉を発することすら忘れ、「んふっ!」「はふぅ〜っ!」と獣のように唸りながら、ホイルの中身を一心不乱にかき込んでいる。
魚の身をほぐし、キノコと共にソースに絡め、口に運ぶ。
たったそれだけの単純な動作が、これほどまでに至福の瞬間を生み出す。アルミホイルというオーパーツと、日本の調味料が生み出した奇跡のコラボレーションは、姉弟の胃袋を完全に陥落させていた。
しかし。
この『鮭と異世界キノコのホイル焼き』の真の恐ろしさは、味そのものだけではなかった。
「……あれ?」
半分ほど食べ進めたところで、テオが不思議そうにお腹の辺りをさすった。
「なんだか、お腹の底が……すっごくあったかい……」
「ふふ、ホムラタケの効果が出てきたみたいだね」
千秋もまた、自分自身の身体に起きている変化に気づいていた。
ホムラタケを食べてから数分。胃の腑に落ちた赤いキノコが、まるで体内で小さな焚き火を熾したかのように、じんわりと、しかし力強い熱を発し始めたのだ。
その熱は胃から血液に乗って全身へと巡り、指先から足のつま先まで、ポカポカとした心地よい温もりで包み込んでいく。
「わあ……本当だ。温泉に入った後みたいに、身体の芯から温かくなってくる……!」
千秋は驚きと共に、思わずフリースジャケットのジッパーを少しだけ下げた。
秋の森を吹き抜ける冷たい風が、今は全く寒く感じない。むしろ、火照った身体を冷ましてくれる心地よい涼風として感じられるほどだった。
「すごいね、このホムラタケ! 食べたら本当に身体がポカポカになるなんて……キャンパーにとって、これ以上ない最強の冬の食材じゃない!」
「えへへ、すごいでしょ! 冬にこれをスープに入れて食べると、雪の中で遊んでも全然寒くないんだよ!」
テオが得意げに笑い、ホイルの底に残ったバター醤油のソースを一滴残らずスプーンですくい取った。
身体の芯から発するホムラタケの魔力(熱)と。
目の前でパチパチとはぜる、焚き火の物理的な熱。
そして、極上のキャンプ飯で満たされた胃袋の満足感。
これらが三位一体となって押し寄せ、千秋と姉弟の間に、言葉では言い表せないほどの『究極の癒やしの空間』を作り出していた。
* * *
気がつけば、森の木々の隙間から差し込んでいた日差しは赤みを帯び、夕暮れの時間が訪れていた。
異世界の森の夜の訪れは早い。
日が傾き始めると同時に、昼間よりもさらに一段階冷たい秋の空気が、森全体を覆い尽くすように降りてくる。
ヒュオォォォ、と木枯らしのような風が吹き抜けた。
「……ふぁぁぁ。なんだか、眠くなってきちゃった……」
テオが丸太の椅子に座ったまま、コクリコクリと舟を漕ぎ始めた。
お腹がいっぱいになり、ホムラタケの効果で身体が芯からポカポカしているため、強烈な睡魔が彼を襲っているのだ。
千秋は焚き火に新しい薪をくべ、火を少しだけ大きくして暖をとった。
「肌寒い秋の夕暮れなのに、全然寒くないね。むしろ、この冷たい空気が気持ちいいくらい」
「はい……。焚き火の温かさと、ホムラタケの温かさが混ざって……ここは、天国みたいです」
マイもまた、とろんとした目で焚き火の炎を見つめていた。
温かいほうじ茶(千秋がティーバッグで淹れたもの)を入れたシェラカップを両手で包み込み、ゆっくりと息を吐き出す。
虫の音が聞こえ始め、空には一番星が瞬き出す。
静かな秋の夜のキャンプが、至福の空間へと変わっていく瞬間だった。
(ああ……これだから、キャンプはやめられないんだよなぁ)
千秋はローチェアの背もたれに深く寄りかかり、星空を見上げた。
仕事のストレスも、都会の喧騒も、ここには何一つ存在しない。ただ、火の揺らぎと、自然の音と、美味しいご飯の余韻だけがある。
このまま時間が止まってしまえばいいのにとすら思える、完璧な時間。
しかし、子どもたちを夜の森に引き留めておくわけにはいかなかった。
「……さてと。マイちゃん、テオ君。そろそろ村に帰らないと、完全に暗くなっちゃうよ。森の夜は危ないからね」
千秋が優しく声をかけると、マイはハッとして我に返り、隣でうたた寝をしていたテオの肩を揺らした。
「はっ! そうですね、暗くなる前に帰らないと、お母さんに心配をかけてしまいます。テオ、起きて! 帰るわよ!」
「んニャ……もう食べられないよぉ、シャケ……むにゃむにゃ……」
寝ぼけ眼で目をこするテオの姿に、千秋はクスクスと笑った。
「チアキさん、今日も本当にごちそうさまでした。私たちが持ってきたキノコを、あんなに魔法みたいに美味しいお料理にしてくれて……本当にありがとうございました」
「ううん、私の方こそありがとう。ホムラタケ、最高に美味しかったよ。これから寒くなる季節にはぴったりの食材だから、また見つけたら物々交換しようね」
「はいっ!」
マイは満面の笑みで頷いた。
そして、千秋がテーブルの上を片付けようと、使い終わったアルミホイルの包みに手を伸ばした時のことだった。
「あっ! チアキさん、待ってください!」
マイが慌てた様子で、千秋の手を両手でガシッと掴んだ。
「ん? どうしたの?」
「その……その『魔法の銀紙』は、どうするんですか?」
「どうするって、もう使い終わったから丸めてゴミ袋に捨てるけど……」
千秋が当然のように答えると、マイは信じられないものを見るような、悲痛な叫び声を上げた。
「す、捨てる!? こんな、こんな伝説のミスリルの極薄魔道具を、ゴミとして捨てるなんて……そんな罰当たりなこと、神様が許しません!!」
「ええっ!? だからミスリルじゃなくてアルミだってば! 百円ショップで買えるんだって!」
「お願いです、チアキさん!」
マイは、シャケの脂とバター醤油のソースがこびりついた、クシャクシャのアルミホイルを両手で大切そうに包み込んだ。
「捨てるくらいなら……どうか、この魔法の銀紙を私にください!」
「えぇ……いや、洗えば使えないこともないけど、ペラペラだし、使い捨ての道具なんだよ?」
「私が綺麗に洗います! 川の清らかな水で丁寧に汚れを落として、皺を伸ばして……我が家の『家宝』として、代々大切に受け継いでいきますから!!」
マイの目は真剣そのものだった。
村の誰も持っていない、紙のように薄くて火に強い銀色の金属。これを家宝にすれば、村長でさえもひれ伏すかもしれない、と彼女は本気で信じ込んでいるのだ。
前に魔法使いのサリサがホットサンドメーカーを拷問器具だと勘違いした時もそうだったが、異世界人のこの強固なファンタジーフィルターには、どれだけ現代のカガクを説明しても全く意味をなさない。
「家宝って……アルミホイルを家宝にされたら、日本の製造メーカーの人が泣いて喜ぶのか困惑するのかわかんないよ……」
千秋は呆れ果ててため息をついた後、クスッと笑って肩をすくめた。
「まあ、いっか。マイちゃんがそんなに言うなら、持って帰っていいよ。でも、破れやすいから気をつけて洗ってね」
「本当ですか!? ありがとうございます、チアキさん!! 一生大切にします!!」
マイは感涙にむせびながら、使い古しのアルミホイルをまるで割れ物を扱うように胸に抱きしめた。
そして、寝ぼけているテオの手を引き、千秋に向かって何度も何度も頭を下げた。
「チアキねーちゃん、またね! 次はおっきなイノシシのお肉持ってくるからね!」
「うん、気をつけて帰るんだよー! ホイル、大事にしてねー!」
千秋は手を振り、二人の姿が森の奥へと消えていくのを見送った。
すっかり日が落ち、星々が夜空に輝き始めた異世界の森。
千秋のキャンプサイトには、再び静寂が戻ってきた。
しかし、彼女の身体の中には、ホムラタケがもたらした温かい火の魔力が、まだじんわりと燻り続けている。
「……さてと。子どもたちも帰ったし、大人の夜の時間を始めようかな」
千秋はクーラーボックスからキンキンに冷えた缶チューハイを取り出し、プシュッと小気味よい音を立てて蓋を開けた。
秋の冷たい風と、身体の中のポカポカとした熱。
そのギャップを楽しみながら、千秋のソロキャンプの夜は、優しく、そしてゆったりと更けていくのだった。




