第23話:鮭とキノコのホイル焼き
木々の葉が赤や黄色に染まり始めた、異世界の秋の森。
肌を刺すような冷たい風が吹き抜ける中、千秋の張ったヘキサタープの下だけは、焚き火の柔らかな熱によって心地よい温もりに包まれていた。
「チアキねーちゃん……まだかなぁ?」
丸太の椅子に座った十歳の少年テオが、両手で自分の膝を抱えながら、焚き火台の方を食い入るように見つめていた。その視線の先にあるのは、真っ赤に燃える炭――熾火の端にポンと置かれた、二つの銀色の包みである。
現代日本のキャンパーが愛用する『アルミホイル』によって包まれた、甘塩シャケとホムラタケのホイル焼き。
火にかけてから、すでに数分が経過していた。
「あとちょっとだよ、テオ君。美味しいものを作るには、待つ時間も大事なスパイスだからね。じっくり中まで火が通るのを待つのも、キャンプの醍醐味なんだから」
千秋は愛用のローチェアに深く腰掛け、チタン製のマグカップに入ったホットコーヒーをすすりながら、穏やかな笑みを浮かべた。
平日の五日間、現代のオフィスでパソコンの画面と睨み合い、理不尽な業務に追われてすり減った精神が、この静かな「待ち時間」によってゆっくりと修復されていくのを感じる。
焚き火のパチパチとはぜる音。秋の乾いた風が木々を揺らす音。そして、目の前で自分の作った料理を心待ちにしてくれている、異世界の純朴な子どもたちの姿。
(はぁ……最高。やっぱり、美味しいご飯と焚き火があれば、他には何もいらないよね)
千秋が一人で至福の喜びに浸っている横で、テオの姉であるマイが、不思議そうな顔をして焚き火台を指差した。
「チアキさん、一つ聞いてもいいですか?」
「ん? どうしたの、マイちゃん」
「あの……お料理を作る時って、普通はもっとメラメラと燃えている火の中に入れるんじゃないんですか? チアキさんは、わざわざ火が落ち着いて、赤く光っているだけの炭の上にあの銀色の箱を置きましたよね。あれで、中のお魚までちゃんと焼けるんでしょうか?」
マイの疑問はもっともだった。
ファルマ大陸の農村では、料理といえばかまどに薪をくべ、強い炎で鍋を煮立たせたり、串に刺した肉を直接火に当てて焼いたりするのが一般的だ。火が上がっていない炭の上に食材を放置するなど、彼女の常識からすれば「火力が足りない」ように見えたのである。
「ああ、それね。キャンプ料理の基本なんだけど、メラメラ燃えてる直火の中に食材を入れると、表面だけが真っ黒焦げになって、中は生焼け……なんてことになりがちなの」
「表面だけ焦げて、中は生焼け……」
「そう。でも、ああやって薪が燃え尽きて、芯から真っ赤に光ってる状態……キャンパー用語で『熾火』って言うんだけどね。あの状態になると、炎は上がっていないのに、すっごく強くて安定した熱(遠赤外線)を出し続けるの」
千秋は焚き火台の方へ手をかざす仕草をした。
「熾火の熱はじんわりと、でも確実に食材の中まで浸透していくんだよ。アルミホイルっていう熱を伝えやすい素材で包んで、あの熾火の上に置いておけば……外側を焦がすことなく、中まで完璧に蒸し焼きにできるってわけ」
千秋の解説を聞いたマイは、目を丸くして感嘆の吐息を漏らした。
「すごい……! 魔法使いが炎の精霊に語りかけて火力を調整しているわけでもないのに、火の性質をそこまで理解して操るなんて……。チアキさんは、炎の賢者様みたいです」
「いやいや、賢者なんて大げさな。ちょっとキャンプの経験があるだけだよ」
魔法という概念が存在する異世界において、純粋な物理法則と経験則だけで自然の力を操る千秋の姿は、マイにとって畏敬の対象にすら見えていた。
そんな二人の会話の最中。
――プクゥッ……。
「あっ! チアキねーちゃん、見て!! 魔法の銀紙が、ぷくーって膨らんできたよ!」
ずっとアルミホイルの包みを凝視していたテオが、バンバンと千秋の膝を叩いて叫んだ。
千秋とマイが視線を向けると、確かに、先ほどまでは平べったかったアルミホイルの包みが、まるで風船に空気を入れたように、パンパンに膨れ上がっていた。
「わっ……本当だ。中に空気が入ったみたいに膨らんでる……。どうして?」
「ふふふ。あれはね、中の食材にしっかり熱が通って、水分が蒸気になった証拠だよ」
千秋は満足げに頷いた。
銀色の密閉空間の中で、今、とんでもない化学変化が起きている。
底に敷かれた玉ねぎが熱せられ、自身の持つ甘い水分を放出する。
その蒸気で蒸し焼きにされた甘塩シャケの身からは、サーモンピンクの細胞の間に蓄えられていた上質な脂が、じゅわっと溶け出す。
そして、それらの旨味の混ざり合った熱いスープを、深紅のキノコ『ホムラタケ』がスポンジのようにたっぷりと吸い込んでいるのだ。
さらに、一番上に乗せた北海道産バターが溶け落ち、すべての食材を濃厚なコクでコーティングしていく。
「さて……そろそろ頃合いかな。ここからが、ホイル焼きの『真の魔法』の時間だよ」
千秋はローチェアから立ち上がると、革製の耐熱グローブを右手にはめ、トングを手にした。
そして、熾火の上でパンパンに膨らんでいるアルミホイルの包みの上部――折り込んで密閉していた部分の隙間を、トングの先端を使ってほんの少しだけ、数ミリほど開いた。
――プシュウウウウウッ……!!
開いた隙間から、閉じ込められていた高圧の蒸気が、勢いよく外の世界へと噴出した。
それと同時に、シャケの脂とバターの甘い香りが周囲にフワリと漂い始める。
だが、千秋の真の狙いはこれだけではない。
「ここで、とっておきの隠し味を投入します」
千秋の左手には、いつの間にか小さなプラスチック製のボトルが握られていた。
中に入っているのは、真っ黒な液体。
日本人の食卓には絶対に欠かせない、大豆から作られた万能発酵調味料――『醤油』である。
「ね、ねえちゃん、その黒いお水はなに?」
「これはお醤油って言ってね、お豆から作った調味料なんだけど……これを入れると、味が百万倍美味しくなるの」
千秋はボトルの口を、アルミホイルの僅かな隙間に向けた。
そして、ボトルを軽く押し、黒い液体を数滴、包みの中へと滴り落とした。
チョロリ。
醤油が、熱々のシャケと溶けたバターの上へと落ちる。
そして、そのうちの数滴が、意図的に食材ではなく、熱せられたアルミホイルの金属面や、その下の熾火へと直接こぼれ落ちた。
――ジュワワワワワァァァァァッ!!!!
瞬間。
森の空気が、完全に塗り替わった。
「……ッ!!?」
「あ……ああ……っ!」
テオとマイが、同時に目を見開き、両手で自分の口元を覆った。
アルミホイルの隙間から、醤油が極限の熱に触れて一気に気化し、焦げることで発生する『メイラード反応』の香りが、白煙となって爆発的に噴き出したのだ。
それは、もはや「良い匂い」などという生易しい言葉で表現できるものではなかった。
発酵バターの濃厚で甘い乳製品の香りと。
醤油の持つ大豆の旨味が焦げた、香ばしくも塩気のある鋭い香り。
そこに、シャケの良質な脂の匂いと、ホムラタケの土の香りが複雑に絡み合う。
プクプク、プクプク……。
ホイルの隙間から、沸騰したバターと醤油が混ざり合ったソースが煮え滾る音が聞こえてくる。
その音と共に、休むことなく漂い続ける『暴力的な匂い』。
日本の居酒屋や屋台の横を通り抜けた時、誰もが足を止めてしまうあの「バター醤油焼き」の凶悪なアロマが、風に乗ってテオとマイの顔面を直撃した。
「はふぅ……っ、はふぅぅ……っ」
テオの口元から、タラリと透明なよだれが垂れ落ちた。
彼はそれを袖で拭うことすら忘れ、ただただアルミホイルの包みを、まるで神の使いでも見るかのような熱烈な視線で凝視している。
彼の胃袋は、この匂いを嗅いだ瞬間に「今すぐこれを胃の中に叩き込め」と脳に緊急指令を出し、お腹の底からキュルルルルッという大音量の抗議の音を鳴り響かせていた。
「テ、テオ、はしたないわよ……よだれを拭きなさい……」
姉のマイが弟をたしなめようとするが、彼女自身の声も完全に上ずっていた。
マイの顔は、食欲という根源的な本能を直接揺さぶられたことで真っ赤に染まり、喉の奥でゴクリ、ゴクリと何度も唾を飲み込んでいる。
彼女もまた、テオと同じくらい、いやそれ以上に大きなお腹の虫を鳴らしてしまっていた。
異世界の質素な味付けの料理しか知らない彼らにとって、現代日本の「バター醤油」という悪魔的な組み合わせは、文字通り理性を破壊する劇薬に等しかった。
甘み、塩気、旨味、香ばしさ。
それらが三位一体、四位一体となって襲いかかってくるのだ。抗えるはずがなかった。
「な、なんて凶悪な匂いなの……。お腹が……お腹が空きすぎて、立っていられないくらい……!」
「チアキねーちゃん!! もういい!? もう食べていい!? 僕、お腹と背中がくっついちゃいそうだよぉぉっ!!」
テオが地団駄を踏みながら、悲痛な叫び声を上げた。
千秋はその様子を見て、クスクスと楽しそうに笑いながら、耐熱グローブをはめた手でトングを握り直した。
「あはは、ごめんごめん! 匂いで焦らしすぎちゃったね。でも、この匂いを嗅いで極限までお腹を空かせるのが、一番のスパイスだから」
千秋は熾火の上から、二つの銀色の包みを丁寧につまみ上げた。
アルミホイルの隙間からは、まだチリチリ、プクプクとバター醤油が沸き立つ音が聞こえ、暴力的な香りがとめどなく放たれ続けている。
「それじゃあ、テーブルに運ぶね」
千秋はアルミテーブルの上に置かれた木製の鍋敷きの上に、二つのホイル焼きを並べて置いた。
銀色の密閉空間の中で、シャケ、玉ねぎ、ホムラタケ、そしてバターと醤油が完璧な調和を果たした、秋の最高傑作。
「さあ、お待たせしました!」
千秋が宣言すると、テオとマイは弾かれたように椅子から立ち上がり、テーブルの前に身を乗り出した。
彼らの瞳には、もうホイル焼きしか映っていない。
秋の冷たい風をものともしない、熱気と食欲に満ちたキャンプの昼下がり。
「『鮭と異世界キノコのホイル焼き、バター醤油風』の完成だよ! 熱いから、ヤケドしないように開けてね!」
千秋の合図と共に。
テオとマイは、震える手で魔法の銀紙の封印を解きにかかるのだった。




