第26話:キャンパーの救急処置(料理)
ボォォォォォォォォォッ!!
深夜の異世界の森。冷え切った暗闇と静寂に包まれた空間を切り裂くように、力強く、そして安定した轟音が鳴り響いた。
千秋のテントの入り口付近。アルミテーブルの上に置かれた黒い薄型の『カセットコンロ』から、勢いよく噴き出した青白い炎の音である。
アウトドア用に設計されたそのコンロは、多少の風ではビクともしない防風性能を備えており、つまみを捻るだけで一瞬にして最大火力の熱源を生み出すことができる。着火剤を探す手間も、薪を組む技術も、火が安定するまで息を吹きかけて待つ時間も、一切必要ない。
現代のキャンパーにとって、これほど頼りになる「速さ」と「利便性」を兼ね備えた道具は他に存在しなかった。
「よし、火柱安定。さすがカセットコンロ、こういう緊急事態の時は本当に頼りになるわ」
千秋は青い炎が放つ確かな熱量に安堵の息を吐きながら、足元に倒れ込んでいる獣人の少女へと視線を落とした。
ランタンの薄明かりと、カセットコンロの青い炎に照らし出された彼女の姿は、やはり痛々しいものだった。
頭の頂部にあるピンと立った狼の耳は力なく伏せられ、革の軽鎧はズタズタに引き裂かれている。そこから覗く褐色の肌には、巨大な獣の爪で抉られたような深い裂傷がいくつも刻まれていた。
千秋は恐る恐る、彼女の首筋に指を当てて脈を確認した。
「……脈はちゃんとある。それにしても」
千秋は傷口を間近で見て、驚きに目を丸くした。
赤黒い血がべったりとこびりついているものの、傷口そのものはすでに塞がりかけており、新しい皮膚が盛り上がるようにして驚異的なスピードで再生を始めているのだ。
これが、人間とは比べ物にならない生命力を持つ『獣人』の自然治癒力。普通の人間であれば、とっくに失血死していてもおかしくないほどの重傷だが、彼女自身の肉体が必死に命を繋ぎ止めている証拠だった。
「すごい……傷は自分で治そうとしてるんだ。でも……」
千秋は彼女の身体に掛けた電気毛布を、首元までしっかりと引き上げた。
傷は治りかけているものの、彼女の身体は氷のように冷たく、ガタガタと小刻みに激しい震えを繰り返している。顔面は蒼白で、唇は紫色に変色していた。
失血による体温の低下、魔獣から逃げ続けたことによる極度の疲労、そしてカロリーの枯渇。
このまま放置すれば、傷が治るよりも先に、衰弱と低体温症で命を落としてしまうだろう。
「とにかく、身体の芯から温めて、すぐにエネルギーになるものを胃袋に入れてあげないと」
千秋の脳内で、キャンパーとしてのサバイバル知識が高速で回転し始めた。
こんな時に必要なのは、温かいスープだ。それも、ただのスープではない。油分と塩分、そして豊富な炭水化物を含んだ、一杯で一気に体力を回復できる『高カロリーな汁物』。
千秋は傍らに置いてある大型のクーラーボックスを開けた。
「……うん、やっぱりこれにして正解だった。秋から冬のキャンプといえば、これに勝るものはないからね」
千秋が冷気の中から取り出したのは、二つの透明なジッパー付き保存袋だった。
一つ目の袋の中には、薄切りにされた『豚バラ肉』がたっぷりと入っている。
そして二つ目の袋の中には、いちょう切りにされた『大根』、半月切りの『人参』、そして笹搔き(ささがき)にされた『ごぼう』といった、根菜類のミックスがぎっしりと詰まっていた。
これは、日本のキャンパーたちがよく使う『時短テクニック』の一つである。
キャンプ場で硬い根菜類の皮を剥き、包丁で切り分けるのは非常に手間がかかる。おまけに、出た野菜のクズ(生ゴミ)を持ち帰るのも面倒だし、包丁やまな板を洗うための水も余分に消費してしまう。
だからこそ、熟練のキャンパーは「自宅のキッチンで事前に具材をすべてカットし、袋にまとめて入れてから持参する」のだ。
この『仕込み』をしておくだけで、現地ではただ鍋に放り込んで火にかけるだけで済む。そして今、この千秋のズボラ……もとい、合理的な事前準備が、見知らぬ獣人の少女の命を救うための最大の武器となろうとしていた。
「よし、特急で作るよ!」
千秋はアルミ製の深型クッカー(小鍋)をカセットコンロの五徳の上に乗せた。
火力を中火に調整し、クッカーの底に極少量の『ごま油』を垂らす。
ごま油特有の香ばしい匂いが、フワリと立ち昇った。
鍋が十分に熱せられたのを確認すると、千秋は一つ目の袋を開け、中の『豚バラ肉』を一気にクッカーの中へと投下した。
――ジュウウウウウウウウッ!!
静寂の森に、肉が焼ける暴力的な音が鳴り響いた。
豚バラ肉の白い脂身が熱せられ、透明な脂となってジュワジュワと溶け出していく。赤身の部分は瞬く間に茶色く色づき、豚の脂の甘く重厚な香りが、ごま油の香ばしさと混ざり合って周囲の空気を支配し始めた。
「いい感じ。豚肉は最初にしっかり炒めて、脂を出し切るのがポイントだからね」
千秋は菜箸を使って、豚肉が焦げ付かないように手際よくかき混ぜる。
豚肉全体に火が通り、たっぷりの脂がクッカーの底に溜まったところで、すかさず二つ目の袋――カット済みの根菜ミックス(大根、人参、ごぼう)を全量、鍋の中へとぶち込んだ。
――ザザッ! ジャァァァァァァッ!!
野菜の水分が豚の脂に触れ、さらに激しい音と蒸気が立ち昇る。
ここで重要なのは、すぐにお湯を注ぐのではなく、野菜を豚の脂で『コーティングするように炒める』ことだ。
特に、ごぼうは油でしっかりと炒めることで、土臭さが消えて特有の芳醇な旨味と香りが引き出される。さらに、大根や人参も油でコーティングしておくことで、後で煮込んだ時に煮崩れしにくくなり、同時にスープに深いコクを与えることができるのだ。
「ごぼうの香り、最高。これが入らないと始まらないんだよねぇ」
千秋は鍋肌から野菜が焦げ付かないように、菜箸で大きく天地を返すように炒め続けた。
大根の白い縁がうっすらと透き通り、全体に豚の脂が回ってツヤツヤと輝き始めた。ごぼうの土の香りと、豚肉の動物性の脂の匂いが、強烈な食欲を刺激する一つの「完成された香り」へと昇華されていく。
「よし、全体に油が回った。ここでお水投入!」
千秋は傍らに置いてあった二リットルのミネラルウォーターのペットボトルを開け、クッカーの中へとドボドボと注ぎ込んだ。
具材がひたひたに浸かるくらいの量を入れる。
熱々の鍋に水が入ったことで、一瞬だけ沸騰の音が止まり、シューッという静かな蒸気の音に変わった。
千秋はカセットコンロのつまみを最大まで捻り、火力を全開にする。
ボォォォォォォォォォッ!!
カセットコンロの圧倒的な熱量が、冷たい水を瞬く間に加熱していく。
わずか数分。クッカーの中の表面が波立ち始め、やがてボコボコと大きな泡を立てて沸騰が始まった。
「ここからはアクとの戦いね。これをサボると、雑味が出ちゃうから」
沸騰すると同時に、豚肉と野菜から灰褐色の『アク(灰汁)』が水面に浮かび上がってくる。
千秋は火力を少し弱め、お湯が吹きこぼれないように調整しながら、お玉を使って丁寧に、かつ素早くアクをすくい取っていった。
アクを取り除いた後のスープは、豚の脂が溶け込んだ少し白濁した色をしており、表面には黄金色の油膜がキラキラと浮かんでいる。
クッカーの中で、大根、人参、ごぼう、そして豚肉が、熱いスープの中で対流しながらグツグツと踊り続ける。
「大根が柔らかくなるまで、あと五分くらいかな……。その間に、主食の方も用意しちゃおう」
千秋はアク取りを終えると、クッカーの横の空いたスペースに、もう一つの小さなシングルバーナーをセットした。
そちらのバーナーにも火をつけ、持参していたメスティン(アルミ飯盒)でお湯を沸かす。
千秋が取り出したのは、お米ではない。プラスチックの容器に入った、四角い『パックご飯』だった。
キャンパーの知恵、その二。
お米を一から炊くのは美味しいが、時間と手間がかかる。緊急時や、疲れていてすぐに炭水化物を摂取したい時には、この『湯煎するだけのパックご飯』が最強の武器となるのだ。
千秋は沸騰したメスティンのお湯の中にパックご飯を沈め、タイマーを十五分にセットした。
「あとは、味の決め手を入れるだけ」
千秋の視線が、再びカセットコンロの上のクッカーに戻る。
菜箸で大根を一つ突き刺してみる。スッと箸の先が通り、中までしっかりと火が通って柔らかくなっているのが確認できた。人参も色鮮やかに茹で上がっている。
「よし、野菜は完璧。それじゃあ、魔法の調味料の出番だね」
千秋が調味料ボックスから取り出したのは、小さな丸いタッパーウェアだった。
その中に入っているのは、茶色くねっとりとしたペースト状のもの。
日本人のソウルフードであり、大豆と塩、そして麹の力を結集した最強の発酵食品――『味噌』である。
千秋はただの味噌を持ってきたわけではない。このタッパーの中身は、自宅で味噌と粉末の和風ダシ(かつお節と昆布のエキス)をあらかじめ混ぜ合わせてペースト状にしておいた『即席ダシ入り味噌』なのだ。
これをお湯に溶かすだけで、完璧な味付けの味噌汁が完成するという、キャンパー必須のライフハックである。
「火を一回止めて、と」
千秋はカセットコンロの火を止め、沸騰を鎮めた。
そして、お玉の上にタッパーの味噌ペーストをすくい取り、菜箸を使ってクッカーの熱いスープの中で丁寧に、ダマにならないように溶かし込んでいく。
味噌がスープに溶け出した瞬間。
これまでの『豚肉とごぼうの匂い』に、発酵した大豆特有の奥深く、包み込むような甘く芳醇な香りが加わった。
かつおダシの香ばしさと、味噌の塩気。それが豚肉の強烈な旨味と完全に一体化し、日本人が絶対に抗うことのできない「家庭の匂い」となって、周囲の空気を満たしていく。
「うん、完璧。最後にもう一回だけ火をつけて、煮立たせないように温めれば……」
千秋が再びカセットコンロの火を弱火でつけ、スープの表面が微かに揺らいだところで火を止めた。
「『特製キャンプ豚汁』の完成!」
湯気をもうもうと立てるクッカーの中には、飴色に染まった大根とごぼう、鮮やかな人参、そして旨味をまとった豚バラ肉が、黄金色の脂膜が張った味噌スープの中でたっぷりと身を寄せ合っている。
匂いだけで、冷え切った身体が内側から温まっていくような錯覚を覚えるほどの、圧倒的な完成度だった。
「ちょうどパックご飯も温まったみたいだし、急いでおにぎりを作っちゃお」
千秋はメスティンから熱々のパックご飯を取り出し、火傷しないようにタオルで包みながら封を開けた。
立ち昇る炊きたてご飯の匂い。
千秋は手を水で濡らし、たっぷりと『塩』をまぶした。
そして、熱々のご飯を両手で包み込み、三角形に素早く握っていく。
具材は何も入れない。純粋な塩気と米の甘みだけで勝負する、究極の『塩むすび』である。
ギュッ、ギュッと、愛情を込めて握られた二つの塩むすびが、アルミプレートの上に行儀よく並んだ。
「お待たせ。これで準備は全部オッケー」
千秋は、熱々の豚汁を木製のお椀にたっぷりとよそい、塩むすびの乗ったプレートと一緒に、テントの入り口に倒れている獣人の少女の元へと運んだ。
テントの中からの光と、カセットコンロの余熱。
そして何より、千秋の持ってきた豚汁の圧倒的な『匂い』が、意識の底に沈んでいた少女の生存本能を激しくノックした。
「……ん……っ」
電気毛布にくるまり、紫色の唇をしていた獣人の少女――ナドヤの耳が、ピクッと微かに動いた。
そして、彼女の鼻が、ヒクヒクと空気を嗅ぐように動く。
豚の脂。ごぼうの香り。そして、未知の発酵調味料である『味噌』の、細胞の奥深くに直接語りかけてくるような優しく強烈な匂い。
(いい、におい……)
ナドヤの意識が、その温かい匂いに一本の糸で引っ張り上げられるようにして、ゆっくりと浮上してくる。
重い瞼が、僅かに震え。
やがて、彼女はゆっくりと、その金色の瞳を開いた。
「あ……」
目を開けたナドヤの視界に入ってきたのは、真っ暗な死の森でも、凶悪な魔獣の牙でもなかった。
優しいオレンジ色のランタンの光を背にして、熱々の湯気を立てるお椀を持った、見知らぬ黒髪の女性の、心配そうな、それでいてどこか底抜けに温かい笑顔だった。
「あ、気がついた? おはよう、それともこんばんは、かな」
千秋はホッとしたように微笑み、ナドヤの鼻先に、湯気を立てる豚汁のお椀をそっと近づけた。
「とりあえず、これ食べて。身体の芯から温まるから。……安心して、毒なんて入ってないよ」
深夜の異世界の森。
傷ついた獣人の戦士と、平凡なキャンパーのOL。
一杯の豚汁が繋ぐ、新たな絆の幕開けの瞬間だった。




