第19話:女将ミレーヌとの意気投合
「私の……私の夢が……食の世界を支配する野望が……たったのサンビャクエン……」
異世界の森のど真ん中、千秋の張ったタープの下。
オースの街で一、二を争う有力商人であるゴードンは、地面に両手と両膝をつき、まるで魂の抜け殻のように真っ白に燃え尽きていた。
金貨百枚という破格の条件で独占契約を持ちかけたにもかかわらず、「スーパーで三百円で買えるから」「面倒くさいから」という、彼にとっては全く理解不能な理由で一蹴されてしまったのだ。彼の頭の中では、まだ見ぬ王都の貴族たちが落としていくはずだった金貨の雨が、サラサラと音を立てて砂のように崩れ去っていく映像がリフレインしていた。
しかし、そんな絶望のどん底にいる大商人をよそに、千秋のキャンプサイトの常連組たちは、完全にゴードンを無視して『食欲』を満たすことに夢中になっていた。
「うおおおっ! この皮のパリパリ感、たまんねえ! 噛むたびに魔法の粉の味が爆発しやがる!」
「ジンツさん、私の分まで取らないでください! ああ、このチキンステーキという料理、神々の宴に出されても遜色ありません!」
「うむ……素晴らしい。塩茹での肉とは次元が違う。魔法の粉もさることながら、この肉汁を閉じ込める焼き加減……チアキ、貴様やはりただ者ではないな!」
ジンツ、サリサ、リネット、そして少し離れた切り株で無言のまま肉を貪っているバルガス。彼らは、千秋が『マジックソルト』で味付けした皮パリパリのチキンステーキを、一心不乱に胃袋へと流し込んでいた。
誰一人として、ゴードンの悲劇に同情する者はいない。美味い飯の前では、人間の野望など無力なのだ。
「あーあ。あんた、また欲張るからそんなふうにフラれるんだよ。みっともないねぇ」
そんな中、ゴードンの背後から呆れたような声が降ってきた。
彼の妻であり、オースの街で大衆酒場『豊穣の角亭』を取り仕切る名物女将、ミレーヌである。
彼女は、地面で「サンビャクエン……」と譫言を繰り返す夫をポンポンと軽く足の先で小突くと、背負っていた小さな木製の酒樽をドスンと地面に下ろした。
そして、千秋に向かって豪快な笑みを向けた。
「ごめんね、チアキ。うちの旦那、商売のことになると周りが見えなくなる質でさ。あんな大金積まれても全く動じないなんて、あんた大したタマだよ。気に入ったね」
「あはは……。まあ、私はただの週末キャンパーなんで。面倒なことには巻き込まれたくないだけですよ」
千秋が苦笑いしながら答えると、ミレーヌは腕を組み、千秋の顔をじっと見つめた。
その視線は、先ほどの夫のように「利益を生み出す道具」として値踏みするようなものではない。純粋に、一人の人間として、そして「美味いものを作る料理人」としての興味と好意に満ちていた。
「でも、あんたの料理が本物だってことは、よーくわかったよ。あの香辛料の使い方は、王都の宮廷料理人だって足元にも及ばないだろうね。……商人としての取引は無しだ。でも、酒場の女将として、あんたとは『飲み友達』になれそうな気がするよ」
ミレーヌはそう言うと、酒樽の栓をポンッと抜き、持参していた木製のジョッキに並々と琥珀色の液体を注いだ。
トクトクトク、と小気味よい音が鳴り、周囲に甘く芳醇な果実の香りと、ツンと鼻を突くアルコールの匂いが漂い始める。
「どうだい? これはうちの酒場で出してる自慢の『果実酒』さ。近隣の村で採れたリンゴに似た果実を、数年かけてじっくり発酵させたものでね。アルコール度数は少し高いけど、フルーティーで飲みやすいよ。……あんたの持ってるその『びーる』ってやつと交換して、一杯やらないかい?」
ミレーヌからの、酒飲みとしてのストレートな誘い。
その言葉を聞いた瞬間、千秋の中にある『酒飲みキャンパー』としてのスイッチが、カチリと音を立ててオンになった。
平日の五日間、理不尽なクレームや上司の小言に耐え、満員電車に揺られてすり減った精神を回復させるための、週末のキャンプ。
そのキャンプにおける最大の目的であり、究極の癒やしこそが、大自然の空気をツマミにして飲む『お酒』なのである。
美味しいご飯と、美味しいお酒。この二つが揃って初めて、千秋のソロキャンプは完成すると言っても過言ではない。
「……ふふっ。いいですよ、ミレーヌさん。受けて立ちましょう」
千秋は不敵な笑みを浮かべると、傍らに置いてあった大型のクーラーボックスの蓋を開けた。
その瞬間、冷気がフワァッと白い煙のように漏れ出す。
「おやっ……!? なんだい、その箱は。中から冷たい風が……氷魔法の魔道具かい!?」
「これはクーラーボックス。氷や保冷剤を入れておけば、外が暑くても中をずっと冷たいまま保てる、キャンパーの必須アイテムですよ」
千秋は、氷水の中に沈めておいた、キンキンに冷えた350ミリリットルの『缶ビール』を二本、水滴を滴らせながら取り出した。
銀色と金色のパッケージが眩しい、日本の大手ビールメーカーが誇る定番の生ビールである。
異世界ファルマ大陸において、お酒は基本的に常温で飲むのが普通だ。冷やして飲む文化は、一部の氷魔法を使える特権階級の間にしか存在しない。
「冷たい酒……! へえ、それは面白いね。でも、その銀色の鉄の筒に、どうやって酒が入っているんだい? 蓋らしきものが見当たらないが」
「まあ、見ててください。これも現代のカガクの力ですから」
千秋はプルタブに指をかけ、力を込めた。
――プシュッ!! カシュゥゥゥッ!!
炭酸ガスが弾ける、極めて爽快で暴力的な金属音が森に響いた。
同時に、缶の口からシュワシュワと白い泡が微かに吹きこぼれ、ホップの苦味と麦芽の香ばしい匂いが弾け飛ぶ。
「ヒィッ!? 鉄の筒が鳴いた!? 中に風の精霊でも閉じ込めていたのかい!?」
「ただの炭酸ガスですよ。さて、ミレーヌさん、グラスを貸してください」
千秋は、驚いて目を丸くしているミレーヌから空の木製ジョッキを受け取ると、そこに缶ビールを注ぎ入れた。
黄金色の液体がジョッキの底に打ち付けられ、シュワシュワと音を立てながら、きめ細かくクリーミーな純白の泡を作り出していく。黄金と白の、黄金比とも言える『7対3』の完璧なバランス。
グラスの表面には、一瞬にして冷たさを示す水滴がびっしりと張り付いた。
「さあ、どうぞ。日本のキャンパーが愛してやまない、キンキンに冷えた『生ビール』です。……それじゃあ、乾杯!」
「か、かんぱい……!」
カチン、と木製ジョッキとアルミ缶を打ち合わせる二人。
千秋はミレーヌから受け取った琥珀色の果実酒を、ミレーヌは千秋から渡された黄金色のビールを、それぞれ口へと運んだ。
千秋は果実酒を一口含む。
「……んっ! 美味しい!」
それは、想像以上に濃厚で洗練された味だった。リンゴに似た果実の爽やかな酸味と、ハチミツのような深い甘み。しかし、喉を通る時にはしっかりとしたアルコールの熱さを感じさせる。まるで上質なサングリアか、高級なシードルを飲んでいるような贅沢な味わいだ。
一方の、女将ミレーヌ。
彼女は恐る恐る、純白の泡に唇をつけ、その下にある黄金色の液体を口の中に流し込んだ。
「……ッ!?」
その瞬間、ミレーヌの目が見開かれた。
まず彼女を襲ったのは、これまで経験したことのない『圧倒的な冷たさ』。
喉を通る液体の温度が、体温との温度差によって、まるで刃物のように鋭く、しかし心地よく食道を滑り落ちていく。
次にやってきたのは、舌の上でパチパチと弾ける『炭酸の刺激』。異世界の果実酒にも微発泡のものはあるが、これほどまでに強く、連続して弾ける刺激は初めてだった。
そして最後に味覚を支配したのは……強烈な『麦の旨味』と『ホップの苦味』だった。
異世界のエール(麦酒)は、常温発酵のため酸味が強く、フルーティーなものが多い。しかし、この『びーる』とやらは違う。
甘さは一切ない。ただひたすらに研ぎ澄まされたドライな苦味と、麦の香ばしさが口の中を駆け抜ける。
一見すると罰ゲームのような苦味だが、それが炭酸の刺激と、キンキンに冷えた温度と合わさることで、奇跡のような『爽快感』を生み出しているのだ。
「……ぷはぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
ミレーヌはジョッキを口から離すと、腹の底から溜まっていた息を、最高の笑顔と共に吐き出した。
「なんだい、これは……!! 苦い! 確かに苦いんだが、嫌な苦味じゃない! 冷たさとパチパチ弾ける刺激が、口の中の脂っこさも、身体の疲れも、全部洗い流していくじゃないか!!」
「ふふっ。それがビールの醍醐味ですよ。特に、汗をかいた後や、お肉を食べた後に飲む冷たいビールは、悪魔的な美味しさですからね」
千秋が笑って答えると、ミレーヌは「たまらないねぇ!」と大笑いし、再びジョッキをあおってグビグビと音を立ててビールを喉に流し込んだ。
たった数十秒で、ミレーヌはジョッキを空にしてしまった。
酒場の女将としてのプライドも忘れるほどの、見事な飲みっぷりである。
「いやぁ、恐れ入ったよ。チアキ、あんたの持ってる『びーる』は、酒飲みの本能を狂わせる危険な薬だね。……こんなに美味い酒を、森の中で一人で飲んでたなんて、あんた本当にいい度胸してるよ」
ミレーヌは口元を手の甲で拭い、千秋の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、先ほどまでの「ちょっと面白い魔女」に対する好奇心ではなく、同じ酒を愛する者へのリスペクトが宿っていた。
「あんた、本当にいい飲みっぷりだね。酒の味がわかってる人間の顔をしてる」
「仕事で疲れた後の週末の一杯のために、一週間生きてるようなもんですから」
「あはは! わかる、わかるよ! 酒場の客の愚痴を聞き続けるのも、結構骨が折れるからねぇ。……でもね、チアキ」
ミレーヌの表情が、スッと真剣なものに変わった。
口元には、好戦的な笑みが浮かんでいる。
「これだけ美味い酒があるんだ。最高の酒には、最高の『ツマミ』が必要だと思わないかい?」
「……ツマミ、ですか」
「そうさ。さっきのチキンステーキも美味かったが、あれは『飯のおかず』だ。酒飲みの舌を満足させ、さらに酒を煽りたくなるような、最高に尖った酒のツマミ。……あんたなら、何か面白いもん作れないかい?」
それは、食の都の酒場を長年仕切ってきた女将からの、料理人――いや、『酒飲みキャンパー』に対する、真っ向からの挑戦状だった。
ビールに合う、最高のツマミ。
その言葉を聞いて、千秋の心臓がドクンと大きく跳ねた。
キャンパーの血が、そして酒飲みの魂が、激しく燃え上がるのを感じる。
「……面白いもん、ね」
千秋はゆっくりと立ち上がり、クーラーボックスの中を覗き込んだ。
そこには、今日のこの瞬間のために用意しておいた、とっておきの食材たちが眠っている。
仕事のストレスをぶち撒け、泥酔するための最高の舞台装置。
「いいですよ、ミレーヌさん。受けて立ちましょう。ちょうど、ビールを無限に飲める『悪魔の料理』を作ろうと思ってたところですから」
千秋の目が、キリッと細められた。
彼女はクーラーボックスから、いくつかの食材を取り出し、アルミテーブルの上に並べた。
一つは、スーパーの冷凍コーナーで買ってきた『冷凍のむきエビ』がたっぷりと入った袋。
そしてもう一つは、先週、テオとマイの姉弟からもらって余っていた、異世界の森で採れる肉厚のキノコ。
さらに、千秋は調味料ボックスから、ひときわ存在感を放つアイテムを取り出した。
黄金色に輝く『エキストラバージン・オリーブオイル』のボトル。
丸々と太った『ニンニク』。
そして、真っ赤な『鷹の爪(唐辛子)』である。
「ニンニク……? それに、その黄金の油はなんだい?」
「ふふふ。今からお見せするのは、油で食材を煮込む『アヒージョ』という料理です。ニンニクとオイルの香りが、ミレーヌさんの理性を完全に吹き飛ばしますよ」
千秋は愛用のスキレットを再び火にかけ、そこにオリーブオイルをドボドボと、底が完全に浸るほど惜しげもなく注ぎ込んだ。
スキレットが熱を帯びるにつれ、オイルが微かに波打ち始める。
そこに、千秋は薄切りにした大量のニンニクと、半分に折って種を抜いた鷹の爪を容赦なく投入した。
――シュワワワワワワッ!!
ニンニクが熱いオイルに触れた瞬間、細かい泡が立ち上がり、強烈な香りが爆発した。
オリーブオイルの青々とした香りと、ニンニクの食欲を根源から狂わせる暴力的な匂い。そして、鷹の爪が放つピリッとした刺激的な香気が混ざり合い、キャンプサイトの空気を一瞬にして「酒場の深夜」のような濃密なものへと塗り替えていく。
「な、なんだいこの匂いは……!? 油で煮る料理なんて聞いたこともないが、この香りは反則じゃないか……!」
ミレーヌがゴクリと喉を鳴らし、身を乗り出した。
少し離れた場所では、チキンステーキを食べ終えて一息ついていた男陣営――ジンツ、バルガス、ロイド、そして復活しかけていたゴードンが、その強烈なニンニクの匂いに釣られて、ゾンビのようにフラフラと近づいてこようとしていた。
「おい、チアキ! なんだその恐ろしく美味そうな匂いは! 俺にも食わせてくれ!」
「チアキ殿! また未知の料理法か!? 油を大量に消費するなど、なんと贅沢な……」
男たちが騒ぎ始めたが、千秋とミレーヌの周囲には、すでに強固な『結界』が張り巡らされていた。
魔物を寄せ付けないランタンの結界ではない。
それは、酒を片手に美味しいツマミを前にした女たちが放つ、男の介入を一切許さない『女子会(飲み会)の絶対領域』である。
「あんたたち男はすっこんでな! これは私とチアキの、女同士の酒盛りなんだからね!」
「そうそう! お肉はもう焼いてあげたんだから、大人しく見ててよね!」
ミレーヌの豪快な一喝と、千秋の冷酷な宣告により、男たちはシュンとして引き下がるしかなかった。
指をくわえて遠巻きに見つめる男たちを完全に無視し、千秋はスキレットの中で踊るニンニクがうっすらと色づいたタイミングを見計らった。
「さあ、油にニンニクの香りが移ったところで……メインの具材、投入!」
千秋は、冷凍のむきエビと、一口大に切った異世界のキノコを、グツグツと沸き立つオリーブオイルの海の中へと一気に放り込んだ。
――ジュワァァァァァァァァァッ!!!!
激しい音と共に、オイルが弾け、エビが鮮やかな赤色へと変わっていく。
森の静寂を完全に打ち破る、究極の酒のツマミ『アヒージョ』の完成が、目前に迫っていた。
千秋とミレーヌの、終わりなき泥酔女子会の夜が、今まさに始まろうとしている。




