第18話:金貨100枚のマジックソルト
「さーて、そろそろお昼ご飯のメインディッシュに取り掛かろうかな」
千秋はローチェアから立ち上がると、クーラーボックスの中からラップに包まれた大きな肉の塊を取り出した。
日本のスーパーの精肉コーナーで買ってきた、国産鶏もも肉の一枚肉である。すでに筋切りと厚みを均等にする下処理は済ませてあり、表面にはうっすらとオリーブオイルが塗られていた。
キャンプの昼下がり。青空の下でビールや炭酸水と共に楽しむ肉料理として、千秋が最も愛してやまないメニューの一つ、『皮パリパリのチキンステーキ』を焼くための準備だ。
「おっ、チアキ! ついに肉か! 今日はなんの肉を食わせてくれるんだ!?」
「鳥肉だよ、ジンツさん。火の加減はどう? 今回は『中火の遠火』でじっくり焼きたいんだけど」
「任せとけ! 熾火の配置を調整して、完璧な熱源を作ってやるぜ!」
薪割り担当の槍使いジンツが、手慣れた様子で焚き火台の炭をトングで動かし、火力を調整する。
千秋はその間に、愛用の黒光りするスキレット(鋳鉄製の分厚いフライパン)を取り出し、焚き火台の五徳の上に乗せた。スキレットが熱を持つのを待つ間、周囲には常連組の異世界人たち――サリサ、リネット、バルガス――が、今か今かとヨダレを垂らしながら千秋の手元を凝視している。
そして、その常連組の少し後ろには、今日初めてこのキャンプ地に足を踏み入れたオースの街の有力商人・ゴードンと、その妻である酒場の女将・ミレーヌの姿があった。
「ふむ……。あの黒い鉄の皿のような調理器具。あれほど分厚い鉄を均等に鋳造する技術など、ドワーフの熟練工にしかできないはず。それを野外で直火にかけるなど、なんという贅沢な使い方だ……」
ゴードンは商人の目をギラつかせながら、千秋の持つキャンプギア一つ一つの『金銭的価値』を値踏みしていた。
彼にとって、この森の魔女(と勝手に勘違いしている)千秋は、莫大な利益を生み出す金の卵だ。ジンツたちが「神の肉」と騒ぐ料理がどれほどのものかはまだわからないが、彼女が扱う道具の異常性を見る限り、料理の腕も尋常ではないことが予想できた。
「ほら、あなた。食い入るように見つめすぎだよ。魔女さんがやりづらそうじゃないか」
「静かにしろ、ミレーヌ。これから彼女の真の力が試されるのだ。この目でしっかりと、彼女の料理の『秘密』を見極めねばならん」
ゴードンが息を潜めて見守る中、千秋は熱したスキレットに少量の油を引いた。
そして、トングで鶏もも肉を掴み、皮の面を下にして、スキレットの中央へと静かに置いた。
――ジュウウウウウウウウッ!!
肉が鉄板に触れた瞬間、激しい音と共に、真っ白な煙が立ち昇った。
鶏の皮から染み出した黄金色の脂が、熱せられた鉄の上でパチパチとはぜる。
この「皮目をじっくりと焼く」工程こそが、チキンステーキを至高の領域へと引き上げる最大のポイントである。千秋は肉の上にアルミホイルを被せ、さらにその上から水を張ったメスティン(アルミ飯盒)を『重し』として乗せた。
「師匠、あれは一体……? 肉を鉄の箱で押し潰す、新たな拷問儀式ですか!?」
「違うよサリサちゃん。こうやって重しを乗せて皮を鉄板に密着させることで、皮が反り返るのを防いで、全体を均一にパリッパリに焼き上げることができるの」
千秋の解説に、サリサは「なるほど、均等な圧力をかけて熱伝導を最大化する物理魔法……!」とまたしても的外れな感心をして手帳に書き込んでいる。
十分ほどじっくりと皮目を焼き、重しを外して肉を裏返す。
その瞬間、現れたのは、見事なまでにキツネ色に輝き、表面に細かい気泡を浮かべた『完璧なパリパリの鶏皮』だった。
「おおおっ……!」
「なんという美しい焼き色だ……。これだけでも、すでに城の料理長を超える腕前と言っていい……」
リネットやバルガスが感嘆の声を漏らし、ゴードンもまたその見事な焼き上がりに唸った。
鶏肉の香ばしい匂いと、溢れ出した脂の甘い香りが、風に乗ってキャンプ地全体を包み込む。
だが、ゴードンにとっては、ここまではあくまで「優れた調理技術」の範疇だった。彼が真に狙っているのは、ジンツが吹聴していた『魔法の粉』の正体である。
「よし、火が通ったね。それじゃあ、仕上げの味付けにいこうか」
千秋が、傍らの調味料ボックスに手を伸ばした。
ゴードンはゴクリと唾を飲み込み、目を皿のようにして千秋の動きを追った。
千秋の手から取り出されたのは、透明なプラスチック製の小さなボトルだった。
パッケージには『マジックソルト』と書かれており、中には真っ白な岩塩の粒だけでなく、緑色、茶色、薄黄色といった、様々な色と形をした微細な粒が混ざり合っているのが外からでもはっきりと見えた。
(な、なんだあの硝子の小瓶は……!? 白一色の塩ではない。色とりどりの粉末が、一つの瓶の中に封じ込められている……!?)
ゴードンの心臓が、早鐘のように打ち始めた。
異世界ファルマ大陸において、香辛料というのは単一で使われるのが基本である。胡椒なら胡椒、香草なら香草。それらを組み合わせるという発想はごく一部の宮廷料理人にしか存在せず、ましてや「最初から完璧な比率でブレンドされた調味料」など、錬金術の極致と言っても過言ではない。
「魔法の粉って、これのことだよね。キャンプには絶対欠かせない、万能スパイス」
千秋はボトルの蓋をパカッと開けた。
そして、スキレットの上でジュージューと音を立てている熱々のチキンステーキに向かって、その粉をパラパラと振りかけた。
――ピリッ、ジュワァァァッ。
粉が熱せられた鶏の脂に触れた瞬間。
爆発が、起きた。
「……ッ!?」
ゴードンは、無意識のうちに一歩、後ずさっていた。
彼の嗅覚を直撃したのは、単なる「焼けた肉の匂い」ではなかった。
まずは、食欲の根源を揺さぶる『ガーリック(ニンニク)』のパンチの効いた強烈な香り。
次に、肉の臭みを完全に消し去り、清涼感と気品を付与する『バジル』と『パセリ』の爽やかなアロマ。
そして、それらを奥深い甘みで包み込む『フライドオニオン』の香ばしさ。
これら数種類のハーブとスパイスが、鶏肉の動物性の脂と混ざり合い、熱によって極限まで香りを引き出され、一つの巨大な「旨味の竜巻」となって周囲の空気を飲み込んでいったのだ。
(ば、馬鹿な……! あり得ない!!)
ゴードンは両手で顔を覆い、ガクガクと膝を震わせた。
商人として数多の香辛料を嗅いできた彼の鼻が、この粉の『異常性』を正確に分析してしまっていた。
(ニンニク、香草、玉ねぎ……それに、この奥底で全体を引き締めているのは、極めて純度の高い岩塩! これほどの種類の香辛料を、互いの香りを殺し合わせることなく、完璧な黄金比で調合しているだと!? 人間技ではない……これを作った者は、味覚の神に愛された天才錬金術師に違いない!!)
ゴードンの脳内で、この『魔法の粉』の価値が天文学的な数字へと跳ね上がっていく。
もしこの粉を一つまみでもスープに入れれば、どんな粗末な具材でも高級料亭の味に変わるだろう。肉に振れば、それは王の晩餐となる。
この粉の独占販売権を手に入れれば、オースの街どころか、王都の貴族たちの胃袋を完全に掌握できる。金貨の雨が降るどころの話ではない。国が買えるほどの莫大な富が約束されるのだ。
「はい、お待たせ! 皮パリパリのチキンステーキ、マジックソルト味。焼き上がり!」
千秋がナイフとフォークを使い、スキレットの上でチキンステーキをザクッ、ザクッと切り分けた。
ナイフを入れるたびに、パリパリに焼けた皮が心地よい音を立て、断面からは透明な肉汁がとめどなく溢れ出す。
その肉汁に、振りかけられたマジックソルトの粒が溶け込み、飴色のソースのような輝きを放っていた。
「うおおおぉぉぉっ!! チアキ! 早く! 早く俺の口にそれを放り込んでくれ!!」
「師匠! その魔法の粉が肉と融合する神聖な儀式、しかと見届けました! さあ、私にもお恵みを!」
「騎士としての矜持にかけて、私が先陣を切って毒見をしよう!」
ジンツ、サリサ、リネット(とバルガス)が、狂ったようにシェラカップを突き出してくる。
千秋は「はいはい、順番ね」と苦笑しながら、彼らの器に切り分けたチキンステーキを乗せていった。
「ま、待たれよ!!」
その時。
森の広場に、商人ゴードンの悲痛なまでの叫び声が響き渡った。
彼は泥だらけになるのも構わず、ドスドスと重い足取りで千秋の前に駆け寄り、そのまま地面に両膝をついた。
「ま、魔女殿……! いや、チアキ殿! お願いです、私にも……私にもその奇跡の肉を、一口でいいから味見させてはいただけないだろうか!?」
「えっ、ゴードンさん? あ、うん。いいですよ。どうせ多めに焼いたし」
千秋は少し驚いたものの、予備として切り分けておいたひとかけらを、小皿に乗せてゴードンに差し出した。
ゴードンは震える両手でその小皿を受け取った。
小皿の上に乗っているのは、皮がキツネ色に輝き、肉汁とスパイスが絡み合った、たった一口分の鶏肉。
しかし、ゴードンにとってそれは、自身の商人としての運命を左右する究極のアイテムだった。
「ご、ゴクリ……」
太い喉仏を大きく上下させ、ゴードンは小皿に顔を近づけた。
鼻孔を突き抜ける、ガーリックとハーブの鮮烈な香り。
彼は意を決して、その肉片を指でつまみ、口の中へと放り込んだ。
――サクッ。
――ジュワァァァァァァッ!!
「おおおおおおぉぉぉぉぉぉッ!?」
ゴードンの口から、言葉にならない咆哮が漏れた。
皮のサクサクとした食感の直後、爆発的に広がる鶏肉の旨味。しかし、それ以上に彼の脳髄を破壊したのは、やはり表面にまぶされた『魔法の粉』の威力だった。
岩塩の研ぎ澄まされた塩味が、肉の甘みを限界まで引き上げる。
ガーリックの風味が食欲を強制的にブーストさせ、パセリやバジルの香りが肉の脂っこさを完全に中和する。
噛めば噛むほど、異なるスパイスの香りが次々と現れては消え、口の中を万華鏡のような味覚のパレードで満たしていく。
「す、素晴らしい……! 完璧だ! なんという計算し尽くされた味の設計! 一切の無駄がなく、全ての香辛料が己の役割を百二十分の一に果たしている!」
ゴードンは涙を流しながら、天を仰いだ。
自分が今まで扱ってきた高級スパイスが、ただの砂利のように思えるほどの衝撃。
この粉さえあれば、食の世界を支配できる。
ゴードンの中に眠っていた強欲な商魂が、最高潮に達して暴走を始めた。
「チアキ殿!!」
ゴードンは這いずるようにして千秋の足元にすがりつき、彼女が持っている『マジックソルト』のボトルを見上げた。
「お願いします! その『魔法の粉』を……その透明な小瓶に入った奇跡の霊薬を、私に売ってください! いや、私と独占契約を結んでいただきたい!!」
「独占契約……?」
「そうです! その粉の製法、あるいはその粉そのものを、我が商会に独占的に卸していただきたい! 契約金として、直ちに『金貨一百枚』をご用意いたしましょう! いや、王都での販売ルートが確立すれば、その十倍、二十倍の利益をお約束しますぞ!!」
金貨一百枚。
それは、オースの街で小さな豪邸が建ち、一生遊んで暮らせるほどの莫大な大金である。
ジンツやサリサが「き、金貨百枚!?」と腰を抜かし、リネットでさえも「ゴードン殿、正気か!?」と目を剥くほどの破格の条件だった。
ゴードンは確信していた。
いかに強力な魔女であろうと、これほどの金貨を積まれて心が揺らがない人間などいない。ましてや、こんな森の奥で粗末な布の家に住んでいるような女だ。富への渇望は必ずあるはずだ。
しかし。
相手は、異世界の常識が全く通用しない、生粋の「週末ソロキャンパー」にして、平日は労働にすり減っている「事務職OL」であった。
「金貨百枚かぁ……」
千秋はマジックソルトのボトルを眺めながら、首を傾げた。
「すごい金額なんだろうけど、私、異世界のお金もらっても現実世界(日本)じゃ使えないし、換金するのも面倒くさいしなぁ」
「な、なに……?」
「それに、この粉の製法って言われても、私これ自分で作ったわけじゃないし。近所のスーパーマーケットの調味料コーナーで、三百円くらいで買ってきた市販品だし」
スーパー・マーケット。サンビャクエン。
またしても繰り出される未知の古代語(?)に、ゴードンは目を白黒させた。
「さ、サンビャクエン……? それは、金貨何枚分の価値なのですか!?」
「うーん、こっちの通貨の価値がわかんないけど……まあ、お札一枚(千円札)出せばお釣りが来て、缶ジュース二本くらい買える値段かな」
「か、缶ジュース……!? も、もしかして、その奇跡の粉は……誰でも手に入れられるような、安価なものだとおっしゃるのですか!?」
千秋はあっけらかんと頷いた。
「そうだよ。キャンパーなら誰でも持ってる定番のスパイスだからね。無くなったらまたスーパーで買えばいいだけだし。だから、独占契約とか言われても困るっていうか……正直、面倒くさいから嫌です」
「め、面倒くさいから……嫌……?」
ゴードンの口から、魂の抜けたような声が漏れた。
食の世界を支配できる奇跡の粉。金貨百枚の独占契約。
商人が一生に一度出会えるかどうかのビッグビジネスが、「スーパーで三百円だから」「面倒くさいから」という、全く理解不能な理由で、たったの五秒で粉砕されたのだ。
「そんな……私の、私の夢が……食の支配者となる野望が……サンビャクエン……」
ゴードンは膝から崩れ落ち、地面に両手をついて、真っ白に燃え尽きた灰のように動かなくなってしまった。
「あーあ。あんた、また欲張るからそんなふうにフラれるんだよ」
絶望のどん底に突き落とされた夫を尻目に、妻のミレーヌが呆れたようにため息をついた。
彼女は背負っていた酒樽を地面に置き、千秋に向かってニヤリと豪快な笑みを向けた。
「ごめんね、チアキ。うちの旦那、商売のことになると周りが見えなくなる質でさ。……でも、あんたの料理が本物だってことは、よーくわかったよ」
ミレーヌは酒樽の栓をポンッと抜き、木のジョッキに並々と琥珀色の液体を注いだ。
「商人としての取引は無しだ。でも、酒場の女将として、あんたとは『飲み友達』になれそうな気がするよ。……どうだい? うちの自慢の果実酒と、あんたの持ってるその『びーる』ってやつ。交換して、一杯やらないかい?」
その言葉に、千秋の「酒飲みキャンパー」としてのスイッチがカチリと音を立てて入った。
「……ふふっ。いいよ、ミレーヌさん。ちょうど、最高にビールに合うヤツを仕込もうと思ってたところだから」
千秋はクーラーボックスから、冷えた缶ビールと、そして小さなオリーブオイルのボトルを取り出した。
絶望する商人の横で、女将とOLによる、ニンニクとオイルの暴力的な香りが支配する『アヒージョ女子会』の幕が、今まさに上がろうとしていた。




