第13話:禁断の甘味「スモア」に涙する男
静かな森の中に、パチパチとはぜる焚き火の音だけが響いていた。
千秋の手には、黄金色に焼き上げられ、今にもトロトロと崩れ落ちそうな特大マシュマロが刺さった竹串。
そして彼女は、それを今まさに口に放り込もうとしていた巨漢の重戦士バルガスを「待て」と制止し、クーラーボックスから二つのアイテムを取り出した。
「ビスケットと、チョコレート。この二つと、熱々の焼きマシュマロが合体した時……真の『キャンプ最強スイーツ』が完成するの」
千秋の宣言に、その場にいた異世界人たちの視線が、彼女の手元に一点集中した。
バルガスは鋭い片目を限界まで見開き、千秋が取り出した謎のアイテムを凝視している。
一つは、薄茶色をした四角い板。表面には小さな穴がポツポツと開いており、ほのかに麦の香ばしい匂いが漂ってくる『全粒粉ビスケット』。
そしてもう一つが、銀色の包み紙から姿を現した、漆黒に近い艶やかな茶色い板……『板チョコレート』であった。
「な……なんだ、その黒い板は!?」
バルガスが驚愕の声を上げた。
異世界ファルマ大陸において、カカオ豆から作られるチョコレートという概念は存在しない。彼の目には、千秋が取り出した板チョコが「黒光りする謎の鉱物」か「魔力を固めた石版」にしか見えなかったのだ。
「これ? これはチョコレートっていうお菓子。ちょっと苦味があるんだけど、これが甘いマシュマロと合わさると、とんでもない化学反応を起こすんだよね」
千秋は慣れた手つきで板チョコをパキッ、パキッと割り、ビスケットの上に二ひとかけらほど乗せた。
パキッ、という小気味よい音が響いた瞬間、板チョコの断面から、カカオ特有の芳醇でほろ苦い香りがフワリと漂い始める。
それは、マシュマロの強烈な甘い香りとは全く違う、大人びた、それでいて抗いがたい魅惑的な匂いだった。
(くっ……! なんだこの、鼻腔の奥を直接撫で回されるような香りは……! 黒い板から、こんな匂いがするだと!?)
バルガスはゴクリと喉を鳴らした。
ジンツに至っては「チアキ! 頼むから俺にもそれを! その黒い魔法の板を舐めさせてくれ!」と完全に理性を失って地面を這いずり回っているが、千秋はそれを華麗にスルーする。
「よし、準備はオッケー。バルガスさん、よく見ててね。これがキャンパーの叡智の結晶だから」
千秋は、チョコレートを乗せたビスケットを左手に持ち、右手には焼きマシュマロの刺さった竹串を持った。
そして、チョコレートの上に、熱々でトロトロに溶けかかっているマシュマロをそっと乗せる。
さらに、もう一枚のビスケットを上から被せ……容赦なく、ムギュッ! と押し潰した。
「おおおっ……!?」
バルガス、ジンツ、リネット、サリサの四人から、一斉に感嘆のどよめきが漏れた。
上からビスケットでプレスされた瞬間、キツネ色に焼けたマシュマロの表面が弾け、中から純白のドロドロとした甘いマグマ(溶けたマシュマロ)が、四方の隙間からムニュゥッとはみ出してきたのだ。
さらに、千秋はマシュマロを挟み込んだまま、竹串をスッと引き抜いた。
ここで、真の『魔法』が発動した。
マシュマロの強烈な熱が、下に敷かれていた板チョコレートに伝導したのである。
固かったはずのチョコレートが、熱を帯びて表面からツヤツヤと輝き始め、やがてドロリと溶け出した。溶けたチョコレートは、はみ出した純白のマシュマロと混ざり合い、美しいマーブル模様を描きながらビスケットの縁から滴り落ちそうになる。
香ばしい麦の香り。
マシュマロの焼けたカラメルの甘い匂い。
そして、熱によってさらに香りを爆発させたカカオのほろ苦いアロマ。
これら三つの香りが完璧なハーモニーを奏で、周囲の空気を完全に「暴力的なまでのスイーツの支配下」に置いた。
「はい、お待たせ。これがキャンプの定番スイーツ、『スモア』だよ。マシュマロもチョコも溶けててめちゃくちゃ熱いから、火傷しないように気をつけて食べてね」
千秋は、完成したばかりのスモアを、バルガスの巨大な手のひらの上にそっと乗せた。
「ス……モア……」
バルガスは、手のひらに乗せられた小さな四角い物体を、まるで国宝か伝説の魔道具でも扱うかのように、両手でそっと包み込んだ。
指先から伝わってくる、ビスケットのザラッとした感触と、内側から溢れ出す尋常ではない熱気。
隙間からは、白と黒(茶色)が混ざり合ったドロドロの液体が、今にもこぼれ落ちそうになっている。
(これを……食うのか。俺は今から、この神々しいまでの匂いを放つ塊を、口の中に入れるのか……!)
顔面凶器と恐れられ、数多の魔獣を屠ってきた重戦士バルガス。
彼の心臓は、いかなる死闘の時よりも早く、激しく脈打っていた。
彼はゆっくりと、祈るような動作でスモアを口元へと運んだ。
大きく口を開け、その凶悪な犬歯を、ビスケットの端へと立てる。
――サクッ。
静寂の森に、ビスケットが砕ける小気味よい音が響いた。
「……ッ!!」
バルガスの片目が、限界まで見開かれた。
彼の中にあった「甘味」という概念の常識が、たった一口で、根底から粉々に打ち砕かれた瞬間だった。
まず最初に彼の味覚を強襲したのは、全粒粉ビスケットの「サクサク」という軽快な食感と、ほんのりとした塩気だった。
塩気? 甘いものを食べると言っていたのに、なぜ塩味がするのだ。
バルガスの脳が一瞬混乱した直後。
その塩気を突破した先に待ち受けていたのは、熱でドロドロに溶け切った「マシュマロ」と「チョコレート」の、怒涛のような甘味の濁流だった。
ジュワァァァァァァッ……!!
噛み締めた瞬間、ビスケットの隙間から、熱々の甘いマグマが口の中いっぱいに溢れ出した。
マシュマロの暴力的なまでの強烈な砂糖の甘さと、バニラの風味。
しかし、それが単なる「甘ったるいだけの味」にならないのは、一緒に溶け出してきたチョコレートのカカオのほろ苦さが、完璧なストッパーとして機能しているからだ。
マシュマロの甘さをチョコの苦味が引き締め、チョコの苦味をマシュマロの甘さが優しく包み込む。
さらに、最初に感じたビスケットの「塩気」が、この二つの甘さを際立たせるための最高の起爆剤として働いていたのである。
サクサクのビスケット。
トロトロでフワフワのマシュマロ。
ねっとりと絡みつくチョコレート。
三つの異なる食感が、口の中で複雑に絡み合い、噛むたびに新しい味わいを生み出していく。
「あ……ぁ……」
バルガスの口から、もはや言語とも呼べない吐息が漏れた。
美味い。
美味いなどという陳腐な言葉では、到底表現しきれない。
彼がこれまで街の高級亭で食べてきた、ハチミツ漬けの果実や甘いパンなど、この『スモア』という奇跡の塊に比べれば、その辺の泥水と変わらないではないか。
こんな恐ろしいほどに洗練された甘味が、この世に存在していいはずがない。
俺は今、夢を見ているのではないか。魔竜の毒に当てられ、死の間際に見せられている極上の幻覚なのではないか。
「バルガスの旦那……? おい、大丈夫か?」
あまりにも微動だにしないバルガスを見て、ジンツが不安そうに声をかけた。
リネットとサリサも、息を呑んで彼の反応を窺っている。
ゆっくりと、バルガスが口の中のものを飲み込んだ。
ゴクリ、と太い喉仏が上下に動く。
そして。
「…………う……」
バルガスの厳つい顔が、くしゃりと歪んだ。
顔の巨大な刀傷が引き攣り、より一層凶悪な形相になった……かと思いきや。
「う……ううううっ……!!」
ポロリ。
バルガスの鋭い右目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは一滴にとどまらず、ポロポロ、ポロポロと、滝のように頬を伝い始めたのだ。
「うわあああああんっ!! 美味い……! 美味すぎる……ッ!!」
身長二メートル、体重百キロ超え、顔面凶器の重戦士が。
まるで迷子になった幼児のように、あるいは長年連れ添った伴侶に先立たれた老人のように、両手で顔を覆って大号泣を始めたのである。
「な、なんだこれは……! こんなに美味いものが、この世にあるのか……!? 俺は今まで、一体何を食って生きてきたんだ! 三十年の人生が、この小さな塊一つで全て否定された気分だ……!!」
「だ、旦那ァ!? しっかりしてくれ旦那! 魔獣の爪で腹を裂かれた時だって一滴も涙を見せなかったアンタが、お菓子一つでなんで泣いてんだよ!?」
「うるさい! お前もこれを食ってみろ小僧! 間違いなく泣くぞ!!」
涙と鼻水でグシャグシャになった顔で、バルガスがジンツに怒鳴り返す。
その光景は、もはやファンタジーの威厳など欠片も存在しない、ただのシュールなギャグ空間と化していた。
百戦錬磨の女騎士リネットは、口をあんぐりと開けて完全にフリーズしている。
魔法使いのサリサに至っては、「やはり師匠は、人の精神を破壊する古代魔法の使い手……!」と勝手な勘違いを加速させ、ガタガタと震えながらメモを取り始めていた。
そんな異世界人たちのカオスな反応を他所に。
当の千秋はといえば、愛用のローチェアに深く腰掛け、コーヒーをすすりながら、ただただ「近所の世話焼きなオバチャン」の目をしていた。
「あはは。バルガスさん、本当に甘いものが好きなんだね。喜んでもらえてよかったよ」
千秋は全く動じることなく、手元の竹串にもう一つ、特大のマシュマロを突き刺した。
そして、号泣している巨漢の戦士に向かって、悪戯っぽく微笑みかける。
「どう? よかったら、もう一個焼く?」
「……っ!! く、食う……! 食うに決まっているだろうが!!」
バルガスは涙を袖で乱暴に拭いながら、ブンブンと首を縦に振った。
もはや、そこには「魔女を監視しに来た先輩冒険者」としてのプライドなど微塵も残っていない。完全に千秋の生み出した『スモア』の虜となった、ただの一人の甘党男子がいるだけだった。
「チアキィィ! 俺もだ! 俺にもそのスモアってやつを食わせてくれ!」
「師匠! 私にも、私にもその精神破壊魔法の被検体となる権利を……!」
「ふ、不本意だが……治安維持部隊の隊長として、私もその物質の危険性を確認しておかねばなるまい。チアキ、私の分も頼む」
ジンツ、サリサ、そしてちゃっかり便乗してきたリネットが、千秋の前に一列に並んでお行儀よく正座をした。
まるで、親鳥から餌をもらう雛鳥のようである。
「はいはい、順番ね。マシュマロもチョコもたくさんあるから、喧嘩しないでよ」
千秋は呆れながらも、内心ではとても楽しんでいた。
現実世界の仕事では、他人に気を遣い、ストレスを溜め込むばかりの日々。しかし、この異世界の森では、自分の作った料理一つで、こうして屈強な戦士や騎士たちが腹を抱えて笑い、時には涙を流して喜んでくれるのだ。
キャンパー冥利に尽きるというものである。
パチパチとはぜる焚き火の音と、甘く香ばしいカラメルとチョコレートの匂い。
そして、スモアを口にするたびに「うおおおっ!」と奇声を上げながら涙を流すバルガスと、それに続くジンツたちの賑やかな歓声。
異世界の魔境のど真ん中で繰り広げられる、完全に平和でカオスな「スモア大会」は、日が傾き始めるまで延々と続くのだった。
「チアキ……あんたは、本当に恐ろしい女だ」
三つ目のスモアを平らげ、口の周りをチョコレートだらけにしたバルガスが、満足げなため息をつきながら言った。
「俺の胃袋は、もう完全にアンタの魔法に屈してしまった。……次からは、俺が最高級の『香木(薪)』と、とびっきりのハチミツを市場で手に入れてきてやる。だから……来週も、俺をこのキャンプってやつに参加させてくれないか」
「もちろん。大歓迎だよ、バルガスさん」
千秋がニッコリと笑って答えると、顔面凶器の重戦士は、照れ隠しのようにフイッと顔を背けたが、その耳まで真っ赤に染まっているのを千秋は見逃さなかった。
こうして。
千秋の異世界ソロキャンライフのレギュラーメンバーに、新たに「薪の調達とハチミツ係の甘党重戦士」という、これまた強力で個性的なキャラクターが加わったのである。
彼女のキャンプ地は、週末を迎えるごとに、ますます賑やかで、美味しくて、そして少しだけ騒がしい「第二の居場所」へと進化していくのだった。




