第12話:マシュマロという謎の白い塊
千秋の号令を受け、異世界の冒険者ジンツの働きは迅速かつ完璧だった。
彼は森の中から集めてきた広葉樹の薪を、手慣れた様子で焚き火台へとくべ、火を育てていく。最初は勢いよく高く上がっていたオレンジ色の炎が、やがて落ち着きを見せ始めた。
薪の形が崩れ、芯まで火が通って真っ赤に発光する炭のような状態。
これこそが、キャンパーたちが愛してやまない焚き火の最終形態――いわゆる『熾火』と呼ばれる状態である。
炎が直接上がっていないため、煙も少なく、一見すると火力が弱まったように見える。しかし、その実態は強烈な遠赤外線を放つ極めて安定した熱源であり、食材を焦がさずに中までじっくりと火を通すための「最高の調理環境」なのだ。
「ジンツさん、完璧! 見事な熾火だよ。これなら絶好の焼き加減になるはず」
「おう! 任せとけ! で、チアキ。今日のお昼ご飯は何を食わせてくれるんだ!? 俺の胃袋はもう限界突破してるぜ!」
尻尾を千切れんばかりに振る大型犬のようなジンツと、その後ろでヨダレを拭いながら目を輝かせている女騎士のリネット、そして魔法使いのサリサ。
すっかり千秋のキャンプ飯の虜となっている常連組の期待を一身に背負いながら、千秋はふふっと不敵な笑みを浮かべた。
「みんな、お昼ご飯の前に……今日は特別に『おやつタイム』を前倒ししようと思うの」
「お、おやつ、だと……?」
切り株に腰掛け、腕を組んで目を光らせていた巨漢の重戦士、バルガスが、ドスの効いた低い声で反応した。
身長二メートル超え、顔面には巨大な刀傷、全身を傷だらけの重厚な鎧で覆った歴戦の猛者。どう見ても「おやつ」という可愛らしい響きが似合う人物ではない。
しかし、先ほどジンツから「このでっかいおじさんは筋金入りの甘党である」という極秘情報を仕入れていた千秋は、怯えることなく彼に満面の笑みを向けた。
「そう、おやつ。バルガスさん、甘いものは嫌いじゃないでしょ?」
「ふん……! 俺を子ども扱いする気か、魔女め。だが、貴様がどうしても俺に献上したいというのなら、一口くらいは味見してやらんこともない」
顔を背けながら、必死に「甘党であること」を隠そうと威厳を保つバルガス。しかし、その顔の傷がピクピクと動き、喉の奥でゴクリと唾を飲み込む音が聞こえたのを、千秋は聞き逃さなかった。
(ふふふ……チョロい。この顔面凶器のおじさん、めちゃくちゃチョロいぞ)
千秋はクーラーボックスの蓋を開け、一番上に大事にしまっておいた「本日の主役」を取り出した。
それは、透明なビニール袋に入った、見慣れない食べ物。
一つ一つがピンポン玉よりも一回り大きく、真っ白で、見るからにフワフワとした謎の塊が、袋の中にぎっしりと詰まっている。
アウトドアやBBQの定番として、スーパーのお菓子コーナーなどで売られている『特大サイズのキャンプ用マシュマロ』である。
「よし、焚き火といったらコレでしょ。今日は奮発して、一番大きいサイズのやつを買ってきたからね」
「……なんだ、それは」
バルガスが、鋭い片目でその白い塊を睨みつけた。
「白い、塊……? まさか、白スライムの幼生を丸めたものか?」
「ヒィッ! またしてもスライムの幼生ですか、師匠!!」
バルガスの言葉に反応し、過去に肉まんをスライムだと勘違いして怯えていたサリサが、再び悲鳴を上げて千秋の背後に隠れた。
異世界ファルマ大陸において、スライムは決して食用ではない。そのゼリー状の体は強酸性であり、人間が口にすれば胃袋を溶かされて死に至る危険な魔物である。
「違う違う、スライムじゃないから。サリサちゃんも、前にお肉まんの時に学習したでしょ? これは『マシュマロ』っていう、甘くて美味しいお菓子なの!」
「マ、マシュマロ……? 聞いたこともない名だな。貴様、本当にこんなフワフワした謎の物質が美味いと言うのか?」
疑心暗鬼のバルガスをよそに、千秋は袋の口を開けた。
その瞬間、袋の中に閉じ込められていた空気が外に漏れ出す。
「……っ!?」
バルガスの鼻腔を、微かな、しかし極めて強烈な「ある香り」がくすぐった。
それは、異世界の酒場や市場では絶対に嗅ぐことのできない、純度の高い砂糖の甘い匂い。そして、現代の菓子メーカーが添加した、ふくよかで魔法のような『バニラ』の香りだった。
バルガスは無意識のうちに、大きく鼻から息を吸い込んでいた。
(な、なんだこの甘美な香りは……! ただの砂糖の匂いではない。花のように芳醇で、それでいて脳髄を直接溶かすような、恐ろしいほどの甘い気配がするぞ……!)
異世界において「甘味」というのは、非常に高価で貴重なものである。
庶民が口にできる甘いものといえば、森で採れる酸味の強い果実か、ごく稀に手に入る野蜜くらいのものだ。サトウキビなどから精製される純粋な砂糖は、南方からの輸入品であり、王侯貴族や一部の大商人でなければ日常的に口にすることはできない。
バルガスは冒険者としてそれなりに稼いではいるものの、街の菓子屋で売られている素朴なハチミツ漬けの木の実や、甘い果実水を飲むのがせいぜいの楽しみだった。
そんな彼の前に、現代日本の「精製された砂糖の塊」であり、香料によって究極の甘さを演出されたマシュマロが姿を現したのだ。
「ふふっ。そのまま食べてもフワフワしてて美味しいんだけどね、キャンプの時は『火を通す』のが一番の贅沢なの」
千秋は百円ショップで買ってきた、長さ三十センチほどの長い竹串を取り出した。
そして、特大マシュマロを一つ取り出し、その中心に竹串をプスリと真っ直ぐに突き刺した。
表面にまぶされた粉が微かに舞い、マシュマロのプニプニとした弾力が竹串をしっかりと挟み込む。
「さて、バルガスさん。よく見ててね」
千秋はローチェアに座ったまま、マシュマロの刺さった竹串を、真っ赤に燃える焚き火の『熾火』の上へと突き出した。
炎は上がっていない。ただ、見えない強烈な熱気だけが、下から上へと立ち昇っている空間。
千秋はマシュマロが火に直接当たらないよう、十数センチほどの絶妙な距離を保ちながら、手首をクルクルと回して竹串を回転させ始めた。
「これ、焦らないのがコツなんだよね。直火に当てると一瞬で真っ黒焦げの炭になっちゃうから。こうやって、遠火でじっくり、じっくりと全方位から熱を当てていくの」
静かな森の中に、千秋が竹串を回す微かな音だけが響く。
バルガスは、切り株に座ったまま、その太い腕を膝に置き、身を乗り出すようにして千秋の手元を凝視していた。
彼の鋭い片目は、マシュマロという未知の白い塊から一瞬たりとも離れることはない。
――数秒後。
変化は、劇的に訪れた。
「おおっ……」
ジンツが感嘆の声を漏らした。
真っ白だったマシュマロの表面が、熱を帯びることで徐々に色を変え始めたのだ。
最初はほんのりと黄ばんだような象牙色になり、それがクルクルと回されるうちに、全体が均等に、美しい『キツネ色』へと染まっていく。
そして、ただ色が変わるだけではない。
――プクゥッ……。
内部の空気が熱せられ、ゼラチンと砂糖が溶け出すことによって、マシュマロそのものが風船のようにぷっくりと膨らみ始めたのだ。
元のサイズの1・5倍ほどに膨れ上がったマシュマロの表面には、微かにひび割れが入り、そこから中のトロトロになった純白の液体(溶けたマシュマロ)が今にも溢れ出しそうになっている。
「……ッ!!」
バルガスは、息をするのも忘れてその光景を見つめていた。
視覚的な変化もさることながら、彼を最も狂わせようとしているのは、やはり『匂い』だった。
チリチリ、と表面が焼ける音とともに。
マシュマロの主成分である砂糖が熱せられ、キャラメリゼ(焦がし砂糖)されることで生まれる、香ばしくて濃厚なカラメルの香り。
それが、先ほどまでのバニラの香りと混ざり合い、熱に乗ってダイレクトにバルガスの顔面を直撃した。
(な、なんだこの暴力的な匂いは……!! 甘い。ただ甘いだけじゃない。焦げた砂糖の香ばしさが、俺の脳の奥底にある『食欲』という本能を、強引にこじ開けようとしている……!)
バルガスの分厚い胸板が、激しく上下に動いた。
口の中には、すでに致死量かと思うほどの唾液が分泌されている。ゴクリ、ゴクリと何度も喉を鳴らすが、それでも湧き出る唾液を抑えきれない。
「いい? ここからが一番難しいところ。表面はサクッと、中はトロトロの完璧な状態を見極めるの。……今!」
千秋が竹串を引き戻した。
その先端に刺さっているのは、もはや先ほどの白い塊ではない。
全体が完璧な黄金色に包まれ、ぷっくりと膨らみ、表面には微細な気泡が浮かんでいる。そして、重力に負けそうになるほど中身がトロトロに溶け、竹串から滑り落ちそうになっている『極上の焼きマシュマロ』である。
「うおおおぉぉぉっ!! チ、チアキ!! 早くそれを俺に食わせろ!!」
「師匠! 私も、私もその奇跡の魔法菓子をいただきたいです!!」
ジンツとサリサが理性を失って飛びかかろうとするが、千秋はそれをヒョイと躱した。
「ジンツさんたちは後! これは、初めてうちのキャンプ地に来てくれたバルガスさんへの、歓迎のおやつだからね。はい、バルガスさん」
千秋は、黄金色に輝く焼きマシュマロが刺さった竹串を、巨漢の重戦士の目の前にスッと差し出した。
「お、俺に……これを……?」
バルガスは震える太い腕を伸ばし、その竹串を受け取った。
手元にやってきたことで、カラメルの香ばしい匂いとバニラの甘い香りが、さらに暴力的となって彼の嗅覚を蹂躙する。
熱々のマシュマロから立ち昇る微かな湯気。
表面のキツネ色に焼けた薄い膜の下で、トロトロに溶けた中身がマグマのように脈打っているのがわかる。
(食う……! 俺はこれを食うぞ! 毒だろうが魔女の呪いだろうが知ったことか! こんな美味そうな匂いを嗅がされて、我慢できる者がいるはずがない!)
バルガスの戦士としての理性が、完全に甘党の本能に敗北した瞬間だった。
彼は大きく口を開け、鋭い牙のような犬歯を剥き出しにして、その黄金色のマシュマロに喰らいつこうとした。
しかし。
「あ、ちょっと待ってバルガスさん」
千秋の落ち着いた声が、バルガスの行動をピタリと停止させた。
寸止めを食らったバルガスは、目を血走らせながら千秋を睨みつける。
「な、なんだ魔女め! お預けを食らわせる気か!? 今すぐ俺の口にこの甘い塊を入れさせろ!!」
「違う違う。お預けじゃないよ。……それ、そのままでも十分美味しいんだけど、今日はもっと『最高に罪深い食べ方』を教えてあげるって言ったでしょ?」
千秋は、悪魔のように魅惑的な笑みを浮かべたまま、傍らに置いてあったクーラーボックスから、新たな二つのアイテムを取り出した。
一つは、茶色くて薄い、四角い形をしたサクサクの『全粒粉ビスケット』。
もう一つは、銀色の銀紙に包まれた、黒光りする『板チョコレート』だった。
「ビスケットと、チョコレート。この二つと、熱々の焼きマシュマロが合体した時……真の『キャンプ最強スイーツ』が完成するの」
千秋の言葉に、バルガスは目を丸くした。
目の前にある黄金色の塊だけでも、すでに狂おしいほどの甘い匂いを放っているというのに。それが、まだ『未完成』だと言うのか。
焚き火のパチパチという音が響く中。
顔面凶器の重戦士バルガスの運命を決定づける、禁断の甘味の錬成が、今まさに始まろうとしていた。




