六話 海から呼ぶ声 ④
…………。
…………あ……っ。
……あさ……っ。
……浅羽!
……浅羽祥太郎!
耳は聞こえるのに起き上がれない……。
俺、死んだのかな……?
そう思っていると、何やら暖かなものが俺の唇に当たってきた。
空っぽだった肺の中に空気が入っていくのが分かる。
「──!?」
虚ろな目を静かに開けると、幸宮さんの顔が間近に覗いていた。
(え?! これって……)
「───カハッ……!」
乾いた喉の奥が鳴り、俺は精いっぱいに空気中の酸素を吸い込んだ。
「──ゲホ! ゴホ……!」
ヒドイ頭痛と共に今度こそ完全に目を覚ますと、幸宮さんの泣き顔が目の前にあった。
「──良かった! もう目を覚まさないんじゃないかと!」
「ごめ……俺──」
横に寝っころがったまま、まだ覚束ない頭で辺りを見回すと、皆が俺を不安そうな顔で覗く。
特に優希に至っては、ショックを受けたように両の手を口元に持っていき、今にも泣き出しそうに顔を歪めていた。
「……優希」
「しょうちゃん!」
呼び掛けにハッとしたのか、俺に覆い被さるように、優希が顔に飛び込んで来る。
目から涙を零し、嗚咽を交えながら、優希は俺の体にすがり付いていた。
「──もう、浅羽くん。びっくりさせないでよ」
安堵したように眉根を寄せ、椿さんは深く息を吐いた。
「ごめんなさい椿さん」
何とか半ば程まで上半身を起こし、優希の頭を撫でると、落ち着きを取り戻したのか、まだ半分ほど泣いているが、それでも優希は笑顔を見せた。まるで幼い妹をあやしている、そんな気分になる。その様子に少し安堵し、漸く俺は自分の身に何が起きたのかを確認出来た。
「ところで、あの悪霊は?」
俺は先ほど溺れた海の方を見た。海は凪いでいるのか、とても静かで、騒ぎがあったとは思えないほど不気味に夕焼けの色を映している。
「それは兄さんがやっつけたよ」
椿さんの横で、濡れた髪をタオルで拭く神井さんは、その白銀の髪を夕日に照らしながら、不遜な表情を崩さず、吐息交じりに溜め息を吐いた。
「全く……貴様は……手間をかけさせるな」
「すみません、神井さん」
あの凄い数の悪霊を、この人は一瞬でやっつけたのだろうか? しかも一人で。残念イケメンだと思っていたけれど、やっぱりこの人の実力は折り紙つきだな。
その後、神井さんが言うには、どうやらあの子供の悪霊が、ここら一帯に、更に別の悪霊を呼び寄せていたらしい。もともとこの海では、事故が多発していた。だからこそ、俺たち『雨夜ノ月』に依頼があったわけだが。
海で死んだ人の無念が生きている者を惑わし、道連れにしようと海中深くへと引きずり込んでいたのだという。
俺はまんまとその罠にはまり、危うく死にかけた。
何か情けなくて涙が出る。幸宮さんは止めてくれたのに……。
「浅羽~~ッ、お前死んだかと思ったぞ~!」
俺が溺れたと聞いて飛んできたのか、遠くから走ってきた中西が、号泣に顔を濡らしながら(ついでに鼻水もたらしながら)、うざいくらいに顔を近付けてくる。
「うわっ! きたねぇな。こっち来んなよ」
「お前それが心配してる親友に対する態度か?」
鼻水と涙をわざとらしくすすり、それを手のひらで雑に拭うと、中西はスマホを手に取った。
「とにかく、救急車──」
しかし、その手をがっと掴むモノがあった。
「え? ヨウコ先生?」
不思議そうに顔を見上げる中西。ヨウコ先生は、何故か皆に目配せをして、何かを瞬時に読み取った神井さんが「お前、先程の写真のことで話がある」と、中西を強引にその場から連れ出した。
「何ですか? ヨウコ先生?」
ヨウコ先生は座っている俺の前に、立て膝でしゃがみ込むと、突然額に手を当て、顔を静かに近付け、目を瞑った。
彼女の手の平から暖かな温もりが感じられる。冷えきった体だからか、顔全体が熱く感じられた。
そして、何かを計るような素振りをすると、静かにその目を開けた。
「うむ。どうやら瘴気には当てられておらぬようだの。肺の中にも水は入ってなさそうだし、あまり水を飲まなかったのが不幸中の幸いと言うべきか……」
「そう、なんですか?」
「まあ、美耶子の迅速な救助のお陰でもある。感謝しとけ」
そ、そういえば、さっき……。じ、ジンコウコキュウ────俺は思わず唇を触り、幸宮さんを見た。目が合い、赤くなった顔をお互い、反射的に背けてしまう。
「まあ、お主は少しそこで休んでおれ。先に着替えと荷物を片してくるから。──美耶子」
足の砂をパンパンと手で払い落とすと、ヨウコ先生は幸宮さんを振り返り、促すように指を差した。
「浅羽についていてやれ」
「あ、ああ、分かった」
気まずい雰囲気のまま、取り残された砂浜に、二つの沈黙が流れる。海に面して座る二つの影が、やたらと長く後ろに伸びていた。
優希はしばらくこちらを向いていたが、ヨウコ先生に呼ばれ、やがて奥の簡易シャワー室へと入っていった。
完全に辺りが二人だけになった瞬間、幸宮さんの静けさの横顔だけが赤い夕日に照らされて、やたらと寂しげに見えた。
「ごめん、幸宮さん。ピンチの時は必ず駆けつけるって約束したのに、逆に俺がピンチになっちゃって……」
「気にするな。それより──」
その時、幸宮さんの目に光が走った。
「名前! さん付け禁止って言ったろ?」
いたずらっぽく微笑む彼女の瞳が、赤い波の狭間で揺れていた。ふと彼女は、手を口元に持っていき、砂のついた唇の端っこを人差し指の腹で拭う。その仕草に俺は、先程の人工呼吸を思い出してしまう。
途端に早鐘の如く心臓が高鳴った。
「あ、あぁ、悪かったよ。幸宮……」
動揺を隠そうと、右手で首の後ろを触り、気付かれないよう視線と顔を逸らしながら呟く。波の音がいやに遠く感じた。
「体調の方は大丈夫なのか?」
「あ、ああ……」
「本当に?」
ぬっと顔を近付け、幸宮さんは俺の顔を覗いてきた。
「つらかったら横になっていいぞ。私の膝、貸してやる」
「え?」
ポンポンと自分の膝を打ち、幸宮さんは眩しいくらいの笑顔でそう言った。
正直、まだ体調は芳しくはない。出来れば横になりたい。でも、冗談だよな? 膝を見ながら何が正解なのか迷っていると、唐突に左手を掴まれ、俺はノールックで幸宮さんの膝の上にダイブした。
「──!」
「無理するな。顔を見れば分かる」
海に入ったのにやけにサラサラで、柔らかな太ももの感触が脳内にダイレクトに伝わり、幸宮さんの火照った体の熱が俺の顔を赤面させる。
「浅羽が無事で本当に良かった……」
ポツリと呟き、不意に、寝っ転がった俺の髪を優しく撫でる。
その様子がまるで年上のお姉さんのようで、俺は恥ずかしさのあまり、思わず身を起こした。




