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四話 渉くんの消えた日 ⑦


「浅羽?」


 たった今出てきたアパートを仰ぎ見ていると、見知った顔に出くわした。


「あれ? ヨウコ先生?」


「どうした? 何か用があったのか?」


 ヨウコ先生の顔を見た途端、何故か俺は急に安心したのか、泣きそうになった。


「わしは今、学校から帰ったばかりなんだ。仮にも教師だからな。全く人使いが荒いったら──ん? どうした?」


 余程俺の顔がひどく見えたのか、眉尻を下げて俺を見る。

 俺はせきを切ったように先程のことをヨウコ先生に話してしまった。自分の記憶のこと、幸宮さんを悲しませてしまったこと。その場から逃げるように来てしまった卑怯な自分──


「──全く、美耶子のヤツ、まだ約束などと抜かしておるのかっ……」


 カリカリと頭を呆れたように掻き、ヨウコ先生は溜め息を吐いた。


「ヨウコ先生は約束が何か知ってるんですか?」


 これはズルい質問だった。自分で何も思い出せないのに、ヨウコ先生に答えを尋ねて、納得した気になりたいのだろうか。


「何だ? 知りたいのか?」


 いたずらな笑みでニヤッと笑ったかと思ったが。


「と、言いたい所だが、わしも詳しくは知らん! ただ、美耶子の口振りからすると、余程重要なことらしいのぅ」


「そ、そうですか……」


 聞いといて何だが、少しホッとした気にもなった。

 やはり、人から聞くのは間違っている。聞いたところで、思い出せるかも分からない。小さい頃の幸宮さんをほんの少し思い出しただけで、幸宮さんの全部を分かった気でいたなんて。俺はなんて愚かなことをしたのだろうか。

 結果、幸宮さんのことを悲しませるだけになってしまった……。


 これから俺は、彼女とどう向き合って行けばいいのだろう……。


「何だ男らしくないのぅ! ほれ! もう一回、美耶子に会いに行け!」


 そう言うとヨウコ先生は俺の背中の襟首を掴んだ。


「え、そんな……。今出てきたばかりなのに、どんな顔して会いに行けば……」


「そんなこと言って、このままずっと気まずいまま過ごすのか? 任務にも支障が出る! わしが美耶子との関係を取り持ってやる!」


 渋る俺を、妖怪仕込みの怪力で、ひょいっと肩に持ち上げ、ヨウコ先生は歩き出す。


「分かった! 分かったから! 自分で歩く!」


 しかしそんな叫びも通じず、ヨウコ先生は軽々と俺を持ったまま、幸宮さんの家のドアを開けた。


「美耶子! 邪魔するぞ!」


 勢いよくドアを開け放ち、俺を玄関に放り投げるように立たせた。


「あっ……」


 部屋の真ん中で先程の体勢のまま座り込む幸宮さん。

 目が合ったその瞬間、俺は気付いてしまった。彼女の目に、涙が溜まっていたことに。


「──っ!」


 幸宮さんは涙を慌てて拭きながら、


「な、何だ。いきなり開けるな……」


 と、顔背けた。必死に右手の指で目を擦るその様に、俺は心臓を抉られる気分だった。


「何だ美耶子? 泣いてたのか?」


 無神経に幸宮さんの顔を覗き込み、からかいがいがあるとでも言いたげに、ヨウコ先生は声に笑いを含んでいた。


「こ、これは……目に汗が入っただけだ!」


 必死に誤魔化していても、明らかに泣いていたのは明白だ。泣くほどに傷つけてしまうなんて、やはり俺は、さっきその場を離れるべきじゃなかったのかもしれない。


「それより、浅羽。帰ったんじゃないのか?」


「い、いや……」


 幸宮さんの顔を見ると、擦って少し赤くなった目が、痛みを物語っている。何か言わなければ。でも、何を言えば? 

 ごめんと謝るか? でも、それだと余計に幸宮さんを傷付けるかもしれない。

 ただ黙って抱き締める? いやいや、そんな恥ずかしいことは出来ない!

 逃げ出したくなる気持ちと何か上手いことを言わなければという思いに、俺は完全に泥沼にはまっていた。


「あ、あの…」


 うつ向いたまま、取り敢えず何か言おうと意を決した途端、時間切れの合図がヨウコ先生の深い溜め息とともに放たれた。


「全く…、おぬしらは……。美耶子も何意地を張っておる! 子供の頃の他愛ない口約束など、所詮おままごと。その場限りの夢物語。忘れたとて何ら不思議でもない。美耶子も約束などに執着せず、さっさと忘れることだ」


 ヨウコ先生がそう言った瞬間、幸宮さんの顔がカッとなったのが分かった。その場で座り込みながら、幸宮さんの握られた拳が、微かに震えていた。


「私にとっては大切な約束だったんだ! あの頃の私にとって、それだけが──」


 幸宮さんがこんなに声を荒らげる所を、俺は見たことがない。いつも冷静な彼女が、感情のままに叫ぶなんて……。


「ゆ、幸宮さん!」


 俺はいつの間にか叫んでいた。


「俺ともう一度約束してくれないかな……?」


「浅羽……」


「俺、今度は絶対忘れないから……」


 真っ直ぐに、彼女の目だけを見つめていた。

 顎が痛くなるほど奥歯を噛み締めながら、傷付けた彼女への責任を、取らなければならない。そんな矜持だけが俺の口を動かしていた。


「その大事な約束に釣り合わないかもしれない。けど! 幸宮さんを悲しませたままじゃ、俺が納得出来ないんだ! 何でもいい。俺がその約束を思い出すまで、代わりに何か約束出来ないかな?」


 勝手なことを言ってるのは分かってる。でも、そうしなければ俺の気が晴れなかった。


「勝手だな……」


 真顔で呟くその口調は、俺を責めているようにも聞こえた。


「それで私が納得するとでも……?」


 ごくっと息を飲み、緊張が俺の中にひた走る。静寂だけが包む空気の中、俺は彼女の次の言葉を待った。夏の暑さの中、俺の汗くさい匂いだけが、嫌に鼻につく。

 うつ向いていた幸宮さんは、それでも呆れたように溜め息を吐くと、強く肩を落とした。


「ハァ……しょうがない……。その真剣な顔に免じて、それで今は許してやる。で? 何を約束するんだ?」


「何でもいいんだ。幸宮さんが納得するなら」


「何でもいい……か……」


 すると、幸宮さんは少し考えた後、ニッ、と口角を上げ、下から俺の顔を覗き込むように、上目遣いでこう言った。


「じゃあ、私がピンチの時は必ず駆け付けて」


「ピンチ?」


「そう。何があっても」


 幸宮さん、俺より強いのに……。ピンチになることなんかあるのか?

 そう思いつつも、俺は「分かった」と、返事をした。


「あ。あと」


 え? 二個目?


「私のこと、そろそろ“さんづけ”で呼ぶの禁止」


「へ?」


「私が呼び捨てなのにおかしいだろ?」


 そう言って、腰に手を当て、少し拗ねたように口を尖らせた。

 呼び捨て? 呼び慣れた“さんづけ”から、変えるには少し勇気がいる。心の中で名前を反芻(はんすう)してみた。幸宮さん……幸宮、幸宮……。


「え、えっと。幸宮」


「なに?」


「あ、呼んでみただけ」


 すると、幸宮さんは満足げにニコッと笑った。


「──青春だのぅ~」


 静寂の中、いきなり響く声に肩が跳ねる。すぐ隣では、ヨウコ先生がニヤニヤと目をつり上げて笑っていた。

 しまった! ヨウコ先生の存在忘れてた! 恥ずかしいやり取りを完全に見られ、俺と幸宮さんは、同時に顔を真っ赤にした。


「……それはそうと、美耶子。その昔の約束とやら、ちと教えてくれんかのぅ? 無論、わしだけにっ」


 俺の方をチラリと見、ヨウコ先生は幸宮さんの耳元で囁いた。あの、聞こえてますよ?


「──言わなきゃダメ?」


「まあ、ダメ、ということもないが……」


 すると、幸宮さんは俺の顔をチラッと見た。だが、目が合った瞬間、弾けたようにすぐに顔を背けてしまう。

 その後、観念した様子で頬を赤く染め、口淀みながらも、幸宮さんはヒソヒソとヨウコ先生に耳打ちした。


「────…………」


「──ほうほう。……まあそれはなんとも……可愛(かぁい)らしいのぅ……」


 ズルい。俺も訊きたい。しかしヨウコ先生の様子から察するに、余程昔の俺は“やらかし”をしていそうだった。


 耳から顔を離し、ヨウコ先生は口に手を当て、含み笑いをしながら、


「確かに……これは浅羽には教えられんのぅ」


 と、生暖かい目でこちらを見た。


「何なんだよ……」


 えもいわれぬ疎外感に、俺はポツリと呟いた。


「ま、思い出すことだなっ。浅羽祥太郎くん?」


 からかい気味に、おでこにツンと、人差し指を当てられる。


 幸宮さんは幸宮さんで、顔をほんのりと赤く染めながら、こちらを恥ずかしそうに見つめ、やがて小さく笑った。


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