四話 渉くんの消えた日 ➅
「ったく、相変わらず感がいいな……」
家を出た後、ぶつくさと文句を言い、俺は幸宮さんの住んでいるアパートへと出掛けた。
と、その前に一応連絡してみるかな。俺はポケットに入れていたスマホを取り出した。表示画面の時計を見ると、10時08分。少し早いかなとも思ったが、自分の中のモヤモヤをこのままにはしておけず、俺はメッセージを送信する。
『今、幸宮さんの家、行っていい?
話があるんだけど』
文面はこれでいいかな?
送信すると、すぐに返信がきた。
一言、『ОK!』のスタンプ。
いや、シンプル過ぎだろ。
そう思いつつも、俺は幸宮さんの住んでいるアパートに到着する。
近所にあるピンク色の外壁のアパート。ここの201号室だったな。
チャイムを押し、ジーッというベルが鳴ると、幸宮さんはバタバタと何やら足音を響かせていた。ガタガタと何かを片付けるような音まで、玄関先まで聞こえる。早く来すぎちゃったかな?
その音を聞きながら、少しの間待ってみる。
すると、幸宮さんは、汗をかきながら玄関のドアを開けた。
「あ、浅羽。早いな」
焦っていたのか、頬に少し張り付いた髪を耳にかきあげながら、幸宮さんは笑顔を見せた。
「ごめん、少し早かった?」
「い、いや、ちょうど今運動してた所だ」
運動? この暑いのに家の中で? そう思ったが、まあ別に突っ込むほどのことでもないか。
「取り敢えず上がってくれ」
家の中に通され、俺はテーブルの前に座った。相変わらず家具はテーブルと衣装ケースの一つずつのみ。片付いた部屋、というか物がない部屋という印象が強い。
「そ、それで話というのは……」
麦茶をテーブルに二つ置きながら、挙動不審に、目を左右に動かし、幸宮さんは髪を耳にかけた。
出された目の前の麦茶を一口飲むと、昨日の出来事を頭の中で思い出す。
「──俺、少しだけ思い出したよ。幸宮さんのこと」
その瞬間、幸宮さんの眼球の光が少しだけ揺れ動いた。
「昨日偶然、母がアルバム見せてくれてさ。そこに幸宮さんの写真があったんだ」
俺は、アルバムから抜き取ってきた写真を幸宮さんに見せた。
そこには小さいながらも、ハッキリと、幼い頃の幸宮さんの姿が写っていた。改めて幸宮さんと対面し、写真と見比べると、俺は確信する。やはりこれは小さい頃の幸宮さんだ。
「これ、幸宮さん……だよね?」
写真の中の幸宮さんを指さしながら、
「まさか一緒の道場に通ってたなんて……。俺、びっくりしたよ!」
興奮冷めやらぬ感じで嬉々として俺は続けた。
「幸宮さんも言ってくれれば良かったのに。でもまさか俺の方が昔強かったなんて……今は逆転しちゃったなぁ~」
そう付け加えると、しばらくの間、幸宮さんは写真をじっと見つめていた。
驚きで目を見開かせていたが、不意に力無く肩を落とし、だんだんと、何故か少しだけ、目から光を失っていった。
「ああ、そのことか……」
あれ? どうしたの?
静かに呟くその様子に、思っていた反応とは違い、俺は少し心臓が跳ねるのを感じた。
「七歳……くらいかな? 私は一時期、家の都合でここら辺に住んでたんだ……。浅羽とは違う小学校だったが……」
「そう、なんだね」
幸宮さんの様子が何処かおかしい。淡々と覇気無く喋る様は、いつもの明るい彼女とは少し違って見えた。
「お前の父親が亡くなり、道場が閉鎖してから、私も引っ越したから。……浅羽とは九年振りくらいかな…?」
視線を落としながら、幼い頃の写真を幸宮さんは撫でていた。注がれた麦茶のコップの側面から、水滴がポタリとテーブルの上に伝い落ちる。静寂の時の中で、蝉の声だけが耳に届いていた。
不意に、幸宮さんの息を飲む音が聞こえた。
「なあ、浅羽」
真っ直ぐにこちらを見つめ、幸宮さんは続けた。
「他に何か思い出さないか?」
「ほ、他?」
「約束とか……」
「や、約束?」
そういえば初めて会った時も約束がどうのって言ってたな……。
でも、やはり頭にモヤがかかっているのか、何も思い出せない。
「ごめん。俺あの頃のこと、あんまり覚えてなくて……」
「そうか……」
うつ向き加減に、写真を俺に差し戻しながら幸宮さんは、
「……まあ、覚えてないならいい」
そう視線を落とし、何かを振り払うように首を振った。そのしゅんとした様子が俺の胸を締め付ける。
「いや言ってよ。思い出すかもしれないし……」
「……いや、無理に思い出さなくていい。私から言うことでもないしな……」
そういうと幸宮さんは、寂しそうな笑顔を向けた。それはそれ以上何も言えない、拒絶した笑顔だった。
「──私、この後用があるから、今日は帰ってくれないか?」
目線を逸らし、それ以上こちらを見ようとはしなかった。
俺、また誰かを傷付けたのか? 優希に続き、幸宮さんまでも……。そう思うと、俺はその場に居たたまれず、逃げるように静かに立ち上がった。
「ごめん、今日は帰るよ」
玄関で靴を履きながらそう言うと、ドアを少し開けた。
でも。
このまま去ってしまったら、幸宮さんとはギクシャクしたままなんじゃないか?
優希の時のように、もう二度と笑いかけてはくれないかもしれない。
「あ、あのさぁ──」
胃を掴まれるような不快感を感じながらも、俺は短く息を飲んだ。
「俺、あの頃のこと、あんまり覚えてないのかも知れない。……けど──、これから先のことは覚えてるから……絶対」
それ以上、幸宮さんの顔を見る余裕は俺にはなかった。
重い足取りでアパートを後にすると、やけにアパートのピンクの壁が目に染みた。




