203Y年1月 高雄/新北/桃園
中華民国/台湾 高雄市
台湾海峡と南シナ海が交錯する暗澹たる波濤のただ中に、香港船籍の古びた1万2000トン級汎用バルクキャリアが錨泊していた。船体側面の黒塗りは海水で荒れ、赤錆の斑点が無数に広がる。船尾では、赤地に白いバウヒニアの花を描いた小さな香港特別行政区区旗が生ぬるい南西風に吹かれて頼りなくたなびいていた。
マレーシアのクアンタン港から合板用の原木を積み込み、高雄港第2港口沖合約6キロメートルの海域にて錨を下ろしているこの外航貨物船は翌朝午前7時30分、小港地区の第4号原木専用バースへと着岸する予定となっていた。
着岸と同時に、海巡署南部分署・第7巡防区第5岸巡隊の巡視官をはじめ、内政部移民署国境事務大隊・高雄港国境事務隊の移民官、ならびに財政部関務署高雄関の税関吏員らによる合同臨検が控えている。しかし船底近くの無人の第4バラストタンク内に潜む者たちには、夜明けを待つ気など毛頭なかった。
「0200時、潜行を開始する」
舟山群島に拠点を置き、中国人民解放軍東部戦区海軍の精鋭をもって編成された特殊作戦ユニット――通称「蛟龍突撃隊」の水中浸透分隊。その先遣偵察班を率いる沈少校は耐圧ガラスで保護された軍用ダイバーズウォッチの緑の燐光を見つめ、低い声で命じた。
バラストタンク底部の注排水バルブが静かに開放され、黒々とした海水が満ちた。船体外部の水圧と内部の均衡が取れた瞬間、喫水線下、船底キール付近に密かに増設されていた脱出用エスケープハッチが油圧音もなく外側へ開く。冷たい海中へ、黒色のネオプレン製ウェットスーツに身を包んだ8名の隊員たちが滑り出した。
彼らが装着しているのは、呼気泡を海面に一切放出しない完全閉鎖循環式リブリーザーだ。肺から吐き出された二酸化炭素は水酸化リチウムのキャニスターに化学吸着され、純度の保たれた酸素と窒素が閉鎖回路内を巡回するため、頭上の海面には気泡ひとつ立ち上らない。
各隊員の背中には、黒く艶消し塗装された流線型の水中推進器が固定されていた。静音型ブラシレスモーターが滑らかに回転を始めると、隊員たちは水深15メートルの暗黒の中を、高雄港の内港水路へ向けて速やかに無音滑進を開始する。
高雄港のアプローチ海域は外洋の潮流と臨海工業地帯の排水、泥砂が交錯し、視界がわずか2メートル前後に制限される濁った海域だ。隊員たちは手首に装着した慣性航法ソナーナビゲーターの液晶表示だけを頼りに前進する。港口を守る巨大なケーソン防波堤の基礎コンクリート、潮流を減衰させるために沈められた無数の異形消波ブロックの不気味な影が、濃緑色の泥水の中から出現しては過ぎ去った。
彼らが牽引するのは、耐水圧気密構造を備えたミリタリーハードケースだ。内部には消音器を装着したQCW-05式5.8mm消音短機関銃、暗視ゴーグル、遠隔起爆信管を備えたC4プラスチック爆薬のほか、台湾の量販店「全聯福利中心」のビニール袋や台湾ワークマン風の作業服、使い古されたジーンズ、そして帯封のついた新札の新台湾ドル数百万元分が厳重に密封されている。
港内の防波堤を潜り抜け、台湾中油の石油精製バースに近い紅毛港沿岸の岸壁の影に到達すると、沈少校はゆっくりと水面へ浮上した。
暗視スコープ越しに見える夜景の中、中国鋼鉄の高炉の威容や巨大な石油タンク群が、湿気を帯びた空に巨大な影を落としている。海巡署の100トン型巡視艇の白い船体が遠くの係留桟橋に見えたが、甲板に人影は無かった。
沈少校は短くハンドサインを出すと、波音に紛れてコンクリート護岸へ静かに這い上がった。
中華民国/台湾 新北市淡水区
同時刻、高雄港から北へ直線距離で300キロメートル余り離れた台湾北部、台北の喉元に位置する淡水河口から北西沖合約15海里、ソナー音波が散乱し、潜航中の潜水艦が発見されにくい浅水深の海域。福建省寧徳海軍基地を出撃した039A型・通常動力攻撃型潜水艦は、水深40メートルの泥交じりの海中で極微速の無音潜航を続けていた。
「深度10に浮上。潜望鏡深度へ到達、全周クリア」
艦長の静かな号令を受け、司令塔が海面を割った。夜光虫がかすかに明滅する海面に、暗い灰色の鋼鉄の背中が無音で浮かび上がる。
この時間帯、米国の画像偵察衛星や日本の情報収集衛星の軌道も、台湾の軍民用リモートセンシング衛星「福衛」の撮影範囲も、この海域を捉える位置にはないことを、解放軍連合参謀部情報局はいとも簡単に確認していた。軌道解析と公開情報のクロスチェックがあれば、衛星観測の空白時間は素人でも割り出せる。
上甲板に姿を現したのは12名の解放軍特殊部隊員たちだ。
「来たぞ。予定通りの船だ」
夜霧の向こうからポンポンとくぐもったディーゼル音を響かせながら接近してきたのは、船首に「金祥富6号」と青ペンキで書かれた台湾籍のFRP製一本釣り漁船である。この漁船の船主は、台湾最大の黒社会組織「竹聯幇」に連なる密輸グループの幹部であり、中国側の実業家を装う国家安全部員からアモイ経由で巨額の暗号資産を通じた資金の還流を受け、買収されていた。
039A型の甲板から手際よく渡された縄梯子を伝い、工作員たちが次々と漁船の甲板下、氷詰めの魚倉スペースへと滑り落ちていく。
「早く入れ! 淡水河口の海巡の定期哨戒間隔は15分だぞ!」
台湾人船長が冷や汗を流しながらスロットルレバーを倒した。日頃から淡水河口の八里や浅水湾を出入りしている地元の沿岸漁船が帰港するたびに、海巡署が魚倉の底まで開けて臨検を行うことなど無い。工作員たちの入境や小火器の搬入を、海巡署や警察が把握する術はなかった。
中華民国/台湾 桃園市大園区
台北盆地の西端に連なる林口台地と台湾海峡の間に広がり、年間数千万人の旅客が往来する台湾最大の空の玄関口、台湾桃園国際空港。
南シナ海からの湿った風が滑走路を揺らす中、カンボジアのプノンペン国際空港からの定期直行便が重々しい接地音とともに滑走路に着陸した。滑走を終えた機体は誘導路を静かに進み、第1ターミナルのボーディングブリッジへと収まる。
到着コンコースは乗り継ぎ客や、情勢緊迫により激減したとは言え、いまだ尽きない東南アジアからの観光客、実業家たちの群れで瞬く間に埋め尽くされた。
航空警察の巡回が目を光らせる緊迫した空気の只中を、仕立ての良い麻のスーツを着こなした東南アジア華僑風の男3人が歩いていた。周囲の雑踏に溶け込み、目立たぬよう足並みを揃えて外籍旅客の入国審査レーンへと向かう。
「次の方、どうぞ」
審査ブースの中で、内政部移民署国境事務大隊・桃園機場第1隊の移民官が手招きした。ブースの前に立ったのはグループの1人、40代半ばに見える浅黒い肌の男性であった。提示された旅券の表記名は「HENG SOCHET」。カンボジア王国の一般用旅券である。
移民官は旅券を光学パスポートリーダーにセットした。瞬時にマルチスペクトルスキャンが走り、紙面のマイクロ文字、ホログラムの屈折角、ICチップ内の公開鍵基盤電子署名が読み解かれる。各国旅券サンプルデータベースとの照合結果――真正。偽変造なし。同時に、台湾電子入国カードの事前申告データが画面上に展開された。台北市信義区の高級ホテルへの宿泊、電子部品商談の見本市への出席、5日後の復路便の確定ステータス。何ひとつ不審点はない。
「両手の親指をそちらのセンサーに置いてください」
男は素直に従う。外來人口個人生物特徵識別系統による生体認証データベースとの照合が瞬時に完了した。過去の強制退去者リストや要注意人物リストに該当なし。
「入国の目的は?」
「台北で開催される機械見本市の視察と、新竹のサプライヤーとの商談です。5日滞在します」
男は淀みのない英語で答え、穏やかな笑みを浮かべた。
「……ご協力ありがとうございました。良いご滞在を」
移民官は息を吐き、旅券の空白ページに鮮やかな紫のインクで上陸許可証印を押した。
「多謝」
男は親しみやすい笑みを浮かべると、スタンプが押された旅券を受け取り、軽やかな足取りでゲートをくぐり抜けた。
第1ターミナルの到着ロビーへと踏み出した3人は、ポケットの中で暗号化されたスマートフォンを起動させた。画面には事前にセキュアチャネルで送られていた台北市内のセーフハウスの住所が表示される。火器や爆発物は、すでに黒社会の密輸ルートを通じてアジトへ運び込まれているはずだった。
彼らが手にしていた旅券は、決して粗雑な偽造品などではない。プノンペンのカンボジア内務省身元確認総局が正規のデータベースに登録し、本物のICチップを埋め込んで正式に発給した「真正の」カンボジア旅券であった。中国国家安全部が、カンボジアのシアヌークビルなどを拠点とする中国人犯罪組織を通じて内務省高官を巨額の賄賂で買収し、正規の戸籍台帳に華僑身元を合法的に登録させて発給させた産物だ。
このような「真正」旅券の行使や、民間船舶、潜水艦、水中スクーターやゴムボートまで用いた海からの不法上陸により、この半年ほどで台湾島内へ新たに潜入した中国人民解放軍の特殊作戦部隊員・武装工作員の数はすでに200人を超えていた。高度な訓練を受けたコマンド部隊にとって、高雄港であろうと淡水河口の砂浜であろうと、あるいは桃園国際空港の入国ゲートであろうと、1度水際をすり抜けてしまえば、それぞれの「目的地」への移動を遮る関門は、もはや台湾国内に存在しない。
台北、新北、基隆、桃園、台中、台南そして高雄など台湾各地の大都市、それに新竹、松山、花蓮の空軍基地や左営、澎湖・馬公の海軍基地、さらには龍潭の陸軍司令部といった防衛関連施設の周囲に分散した「招かれざる客」たちは市街地で一般市民に溶け込み、あるいは山野や廃墟、犯罪組織のアジトに潜み、暗号化無線機に耳をそばだてて「その時」を待っていた。




