203Y年2月1日-2月3日 南西諸島
日本 沖縄県宮古島市
宮古島の北西、「佐和田の浜」。夜明け前の月光が「津波石」の影を長く伸ばし、東シナ海から吹き付ける北風が遠浅の海岸を鳴らす。宮古島警察署から委嘱を受けた「密航監視哨員」として早朝のパトロールを日課にする地元の漁師、真栄里は、波打ち際の砂地を見て思わず足を止めた。
潮が引いたばかりの湿った砂の上に、幾つもの「足跡」が刻まれていた。サンダルやスニーカーの類ではない、深く規則的な溝が刻まれたブーツの靴底の紋様だ。
「……なんだ、これは」
真栄里は腰を屈め、懐中電灯の細い光を当てた。足跡は波打ち際から始まり、海岸沿いの鬱蒼とした防風林へと続く。歩幅は等間隔で、かなりの重量物を背負っているのか砂が深く抉られ、足跡のすぐ傍には、海水に濡れて黒ずんだ数本の植物繊維と見たこともない形状のプラスチック製留め具が落ちていた。
沖縄県八重山郡与那国町
日本最西端の地、与那国島。台湾海峡の緊張が高まり、島に駐屯する陸上自衛隊西部方面情報隊・与那国沿岸監視隊も部内の警戒レベルを引き上げたにもかかわらず、島の「比川共同売店」前には観光バスが横付けされている。
早朝には町役場からの防災行政無線が、「昨夜遅く、久部良集落裏手の海岸に正体不明の手漕ぎ舟が接岸し、複数の不審な人影が上陸したとの110番通報がありました。住民の皆様は不要不急の外出を控え、戸締まりを徹底してください」と、甲高い警報音とともに注意を呼びかけていた。
それにもかかわらず、観光バスから降りてきたのは数十人の中国人団体観光客だ。彼らは大陸の旅行会社が主催する「琉球離島縦断ツアー」の客だという。入国審査官が駐在していない与那国島を外国人観光客がわざわざ訪れることは極めて少ないのだが、彼らはまず宮古空港にて上陸許可証印を受けてから先島各島を巡っており、帰路は石垣空港まで戻って出国する予定だという。
「……あんなに騒がしく写真を撮らんでもいいだろうに」
店先で煙草を燻らしていた地元の老人が眉を顰めた。観光客たちは島の何気ない風景を熱心に撮影している。集団の一部、高価な望遠レンズを装着したフルサイズ一眼カメラを構える数人の男女が牧場の牛にレンズを向けながら、背後にそびえ立つ陸上自衛隊与那国駐屯地のレーダードームを執拗に連写していた。
沖縄県石垣市
石垣島の公営住宅の一室。主婦の美香は夕食の準備をしながらスマートフォンの通知音に急かされていた。
夕方には市からの防災防犯エリアメールが届き、「川平湾付近で、全身黒ずくめの不審者数名が道路を横切り山林へ侵入したとの目撃情報がありました。不審者を見かけた際は直ちに八重山警察署へ通報を」と注意喚起がなされたばかりだった。地元のLINEグループやSNSには、その不審者情報と絡めるように不安を煽る書き込みが秒刻みで溢れ、止まることを知らない。
『【緊急拡散】川平湾の不審者は自衛隊の非公式部隊! 島民を盾にして中国を挑発中。石垣島も標的になる。今のうちに島を出るべき!』
『那覇空港が閉鎖されたのは、アメリカ軍が核兵器を持ち込んだからだという噂』
『自衛隊員による宮古島での暴行事件、県警が隠蔽か』
居間のテレビからは夕方のニュース番組が聞こえてくる。
『――防衛省統合幕僚監部の発表によりますと、昨日午後、中国軍の空母「福建」をはじめとする艦艇複数隻が、沖縄本島と宮古島の間の海域を南下し、太平洋へと――次のニュースです。フィリピン国防省によりますと、台湾南方のバシー海峡において中国海軍の駆逐艦が、警戒監視活動を行っていたフィリピン海軍の偵察機に対し、火器管制レーダーを照射――フィリピンのサントス大統領は「不当かつ極めて危険な軍事挑発だ」と声明を発表し――』
美香は居間でテレビゲームをしていた中学生の息子に問いかけた。
「……ねえ、ネットのこれ、本当なの? テレビのニュースでは中国の空母が通ったとか言ってるけど」
息子は画面から目を離さず、吐き捨てるように言った。
「ネットではみんな言ってるよ。テレビは政府に規制されてるんだって。宮古島ではもう戦闘が始まったって動画も上がってるし、学校でもみんな怖がってる」
美香は画面をスクロールした。そこには、見慣れた川平湾の砂浜が火の海に包まれ、真っ黒なステルス戦闘機が飛来するコラージュ画像があたかも未来の予言のように表示されていた。
日本政府は数週間前より、刻一刻と深刻化する事態に深刻な危機感を覚えていた。
防衛省は、防衛警備計画に基づく事前配備を検討し始めた。演習名目で、宮古島に熊本県北熊本駐屯地の陸上自衛隊第8師団・第42即応機動連隊、石垣島に北海道名寄駐屯地の第2師団・第3即応機動連隊、与那国島に香川県善通寺駐屯地の第14旅団・第15即応機動連隊それぞれを航空・海上輸送で送り込み、各島に駐屯する警備隊等と連携して、万一あり得る中国人民解放軍の着上陸侵攻に対する強力な抑止・対処態勢を整えようというのである。
だが、現実は机上の計画通りには運ばなかった。
自衛隊の海上輸送力は海上自衛隊のおおすみ型輸送艦3隻と、3自衛隊共同の部隊である自衛隊海上輸送群の中型~小型輸送艦艇10隻がその全てだが、修理や訓練のため、全てを常に使用できるわけではない。航空宇宙自衛隊のC-2輸送機も同様だ。宮古、石垣、与那国の3島へ、合計2000人以上の隊員や、16式機動戦闘車をはじめとする大量の重装備と補給物資を、北海道や本州、九州といった遠方から迅速に同時輸送することは、自衛隊単体では難しい。防衛省統合幕僚監部後方計画部は、民間海運のRORO船やカーフェリー、民間貨物航空機を急遽チャーターすることに不眠不休で四苦八苦した。数日間にわたる熾烈な調整の末、ようやく連隊主力の到達前であっても、各島へ1個中隊規模の先遣隊を投入する民間船舶と貨物機の手配にかろうじてめどがついた。
しかし、別の隘路が待ち構えていた。
大泉新内閣は前政権の負の遺産を収拾すべく極めて不評な緊縮改革を余儀なくされ、発足早々に支持率は急落している。参議院では与党が過半数を割る「ねじれ国会」の状況下、左派系や極右系の野党勢力が政権批判を先鋭化させ、国会審議は度々紛糾し、リベラル系のマスコミも大泉政権の強硬な安全保障政策や閣僚のスキャンダル疑惑を糾弾している。政権の政治的余力は著しく乏しかった。
それでも、沖縄の状況は少し前より格段にマシなはずであった。かつての革新系知事時代と異なり、中央政府との協調による県民生活向上や現実的な安全保障を重視する保守系の現知事時代には、沖縄県庁と官邸の全面的な対立関係は解消されている。県知事の比嘉元太は「自衛隊の活動には法令の範囲内で協力する」との姿勢を示していた。だが現場は別の隘路に突き当たっていた。
SNS上に反米軍・反自衛隊の虚偽情報が氾濫し、さらに実際に米海兵隊普天間基地近くで未解決の連続婦女暴行殺人事件が発生すると、ここ数週間の県内各地の反戦運動や米軍基地周辺の抗議デモは、本州から大挙やってきた極左暴力集団や革命政党の活動家も加わって十数年ぶりの激しさに達していた。
嘉手納飛行場やホワイトビーチ等の米軍基地、陸上自衛隊那覇駐屯地や那覇港へと通ずる幹線道路では、高齢の左翼活動家たちがレンタカーや軽トラックを車道中央に斜めに乗り捨て、路上に車座になって座り込みを展開した。自衛隊車両や米軍トラックの通行を実力で阻む活動家に対し、現場に急行した沖縄県警察機動隊が「道路交通法違反です!ただちに退去しなさい!」と警告を発しながら強制排除を試みると、現場はたちまち怒号と罵声が飛び交う揉み合いへとなだれ込んだ。
「暴力警察! 老人を殺す気か!」
「弾圧をやめろ!」
白髪の活動家たちが警察官の濃紺の出動服を掴んで引きずり倒そうとし、その様子を別の活動家がスマートフォンで動画配信しながら「警察がお年寄りを虐待しています!今すぐ拡散を!」とがなり立てる。道路上にはプラカードやメガホンが散乱し、数名がアスファルトに押さえ込まれ、公務執行妨害罪で現行犯逮捕される等、現場は収拾不能な混乱に陥っていた。
さらに活動家に浸透された県内の港湾労働組合執行部は「戦争準備への加担は拒絶する」との声明を発表し、自衛隊の重火器や装甲車両の民間港湾荷役を事実上ボイコットする姿勢を打ち出していた。
「知事の協力姿勢はありがたいが、民間の港湾労働者が動かなければ即機連の装備は陸揚げできん」
統合幕僚長の栗栖正和陸将は、苦々しい表情で書類を机に投げ出した。
「さらに港湾の運行管理システムまで、サイバー攻撃でやられている。これ以上の大規模輸送は現場で大混乱を招く」
この数日間、九州および沖縄県各地の港湾では荷揚げクレーンやコンテナ追跡システムに原因不明の障害が相次ぎ、鹿児島港や金武湾港ではランサムウェア感染によって港湾管理システムが麻痺状態に陥っていた。
民間船の確保が難航し、港湾機能が麻痺し、荷役すら拒絶される中で、即応機動連隊の事前展開計画は頓挫した。
よって先島諸島の守りは、戦闘ではなく海上監視が本来任務である西部方面情報隊与那国沿岸監視隊150人、わずか1個普通科中隊を基幹とする第15旅団八重山警備隊、宮古警備隊と、石垣・宮古島の独立地対艦ミサイル中隊及び高射中隊、各島500人程度という平時の兵力のみに委ねられることになった。
一方、警察の場合は、自衛隊という明らかな軍事組織よりも政治的制約が僅少であった。
尖閣諸島に最も近い石垣島と、沖縄本島と先島諸島を隔てるチョークポイント宮古海峡を抑える宮古島には、自動小銃を装備し野外戦闘の訓練を受けた沖縄県警察警備部国境離島警備隊、計151名が、ヘリコプター輸送で石垣空港及び下地島空港(宮古島市)に分散して前進配備された。
台湾からわずか110キロの与那国島には、沖縄県警察と増援の福岡県警察の隊員によって構成される機動隊の1個中隊70名が、チャーター機で与那国空港へ前進配備された。与那国の機動隊には、MP5機関拳銃を装備した銃器対策部隊員も含まれる。
だが警察官はあくまで国内法の執行官であり、軽武装のテロリストや密航者の制圧を前提とした装備体系である。正規軍が組織的に侵攻した場合、その火力差は歴然としていた。




