203Y年1月 宜蘭県
203Y年1月
中華民国/台湾 宜蘭県 頭城鎮 亀山島南東沖
雪山山脈を貫く長大なトンネルを抜け、台北のコンクリートジャングルを背にした先に広がるのは、緑の絨毯を敷き詰めた蘭陽平野だ。北端に位置する頭城鎮は開拓者が最初に足を踏み入れた「開蘭第一城」の歴史を誇り、黒潮が運ぶ豊かな恩恵を享受する港町として知られる。冬の太平洋から押し寄せる荒波は烏石港の防波堤を激しく叩き、細かな飛沫が霧となって、サーファーの聖地として知られる灰色の砂浜を洗っていた。
そこから蘭陽渓の河口を越えて平野の南側へと目を転じれば、豊かな水田地帯と砂浜が広がる五結郷の長閑な集落がある。名産のネギ畑や鴨の養殖池が点在し、海岸沿いには防風林のクロマツが並ぶ、台湾東海岸のどこにでもある平和な田園地帯だ。
台湾最南部の屏東空軍基地を拠点とする米国ロッキード社製の老兵、対潜哨戒機P-3C「オライオン」が4発のアリソンT56-A-14ターボプロップエンジンを咆哮させ、頭城鎮上空へと姿を現した。窓外には断崖絶壁が続く蘇花海岸の峻険な山並みが、冬の低い雲に押し潰されるように迫っている。
この機体は米ソ冷戦時代、アメリカ海軍対潜航空部隊の主力として、旧ソビエト連邦の潜水艦を執拗に追い詰めてきた「潜水艦キラー」の代名詞だ。全長35メートルを超える巨大な機体は末尾に長く突き出した磁気探知機ブームを、獲物を刺す毒針のように掲げている。これは潜水艦という数千トンの金属塊が地球の磁場を乱す極めて僅かな変化を、海面近くまで降下して捉える精密センサーだ。
沖合約10キロの海上に浮かぶ亀山島。その名の通り巨大な海亀が太平洋を泳いでいるかのようなこの孤島は、今もなお噴気活動を続ける活火山だ。島の周囲には、海底から湧き出す硫黄分が海水と混ざり合って紺碧の海面に乳白色の絵具を流したような「ミルクの海(夢幻牛奶海)」と呼ばれる幻想的な光景が広がる。
しかし穏やかに見える海面下では、観光客の歓声とは無縁の目に見えない「狩り」が始まろうとしていた。この付近は黒潮の本流が急激に深く落ち込む海溝の入り口に近く、深く、暗く、冷たい水塊が巨大な捕食者の潜伏を容易に許してしまう。
亀山島の南東15キロ、中華民国の領海内をパトロールしていた海洋委員会海巡署、第1巡防区指揮部所属の巡視艇「PP-10068」から緊急の無線が飛び込んできたのは正午過ぎだった。
「海面上に、潜望鏡と思われる不審な航跡を視認。方位165、距離3マイル。目標は急速に潜水、視界からロストした」
報告を受けた海軍司令部は直ちに、台湾海峡での演習に参加中だった中華民国空軍第6混合連隊、反潜作戦大隊所属のP-3C対潜哨戒機に対し、現場海域への緊急転進を命じた。
機内の薄暗い戦術情報センターでは、オレンジ色の計器光がクルーたちの顔を不気味に照らし出していた。戦術航空士を務める金少校は、複数のモニターに刻々と更新されるウォーターフォール表示に鋭い視線を走らせる。TACCOは操縦を担うパイロットとは別に哨戒作戦の全指揮を執る「戦場の演出家」だ。広大な海域のどこにどのタイミングでどの周波数の音響探知浮標を投下し、収集された音響データをどう繋ぎ合わせて敵の喉元を突くか。その全責任が双肩に懸かっている。
「ソノブイ、投下開始。アクティブ・ピンを打て」
金の冷静な指示に従い、P-3Cの機腹にある発射管から円筒形のソノブイが次々と太平洋の荒波へと射出された。パラシュートを開いて着水したソノブイは海中にハイドロフォンを展開する。ソノブイが放つ「ピン」という鋭いアクティブ音波が水中を伝播し、数秒後、機上のレシーバーに明瞭な反射音が帰ってきた。
「目標捕捉! 方位160、距離5マイル。巨大な金属製物体を探知。深度300メートル……凄まじい大きさです」
音響測定員の興奮と恐怖が入り混じった声がヘッドセットに響く。
「目標、増速! 20ノット、25……30ノットを超えました! 北方へ向けて急速離脱を開始!」
「30ノットだと? 通常動力潜水艦の最大戦速を遥かに超えている。……原潜だ」
金は呻くように言った。パッシブソノブイが捉えたスクリュー音――巨大な出力が生み出す低周波のうなりと、高速回転によって生じる気泡ノイズを機上コンピューターが膨大なデータベースと照合し、1つの脅威を弾き出した。中国人民解放軍海軍の093型原子力潜水艦、NATOコードネームは「商級」。水中排水量7000トンを超え、6門の魚雷発射管からは長距離巡航ミサイルも運用可能な、大陸の静かなる「矛」だ。
P-3Cは機体を大きく傾け、高度を100フィート以下まで下げた。海面を這うように、排気煙をなびかせて追跡を続行する。しかし機内の計器パネルではいくつかの警告ランプが点滅を繰り返していた。台湾が2013年に導入した12機のP-3Cは、本来であれば海峡の守りの要となるはずだった。だが慢性的な予算不足と米国側防衛産業の非効率による予備部品の枯渇、そして過酷な連続運用による機体の疲弊が重なり、現在、即応可能な機体はわずか数機という危機的な低稼働率に陥っていた。
「タイガー01より司令部。目標を093型原潜と断定。追跡を継続するが、燃料が限界に近い。基地帰還限界まであと15分。至急、屏東から応援機を!」
だが屏東のハンガーでは、発進可能な機体が定期整備と故障修理で1機も残っていなかった。
一方、台湾東岸、花蓮県の沖合からは、中華民国海軍が誇る盾、アメリカ製の中古のキッド級ミサイル駆逐艦「基隆」がガスタービンエンジンを全開にして北上していた。1万トンに迫る巨体でありながら30ノットの速力を誇り、強力なソナーと対潜ヘリコプターを搭載した「基隆」だが、広大な太平洋においてはその足もあまりに遅すぎた。重油の煙を撒き散らしながら波頭を切り裂くその艦姿をP-3Cのレーダーは遥か南方に捉えていたが、会合までにはまだ数時間を要する。
「基隆」の戦闘情報センターから、戦術データリンクを通じた音声が飛び込んだ。
『北東30マイル、日本の与那国島沖、防空識別圏境界付近に、日本海軍(海上自衛隊)のP-3Cの機影を捕捉した。高度と航跡から見て、彼らもこちらの不穏な動きを察知し、哨戒活動に入っている模様だ』
「何だって? 日本軍のオライオンが、すぐそこにいるのか!」
林は血走った目で窓外を見た。遥か水平線の彼方には、日本の最西端、与那国島が鉛色の海の上に低く沈んでいるはずだった。もし、世界最高峰の対潜能力を持つ海上自衛隊と今この瞬間に情報を共有し、連携して追い込むことができれば、あの大陸の怪物を海面に浮上させることも夢ではない。
しかし、林はすぐに奥歯を噛み締めた。台湾と日本の間には、軍事的な機密情報を即時に自動で共有するネットワークなど存在しない。公式な国家間の外交関係が存在しないという壁に阻まれた両国の軍組織は共通の敵を目前にしながら、互いの意図を測り合うことさえ困難だった。093型の最新の音紋データも正確な座標情報も海上の見えない国境線に阻まれ、届くことはない。
「……燃料、リミットです。これ以上の追跡はエンジン停止のリスクを伴います」
パイロットの断腸の思いを滲ませた報告がヘッドセットを打つ。
「了解した。追跡を断念し、帰投する。……『基隆』へ、あとの探索を託せ」
金は力なく椅子に背を預けた。P-3Cは4発のプロペラを唸らせて大きくバンクし、夕闇の影が忍び寄り始めた宜蘭の海岸線へと機首を向けた。
金の脳裏には、先ほど通過した頭城鎮の街並み、そしてその南に広がる五結郷の海岸線が浮かんでいた。あれらの町村には、世界中のデータを台湾に運ぶ大容量海底光通信ケーブルの陸揚げ局が、剥き出しの神経のように集中している。林の拳は膝の上で白くなるほど固く握りしめられていた。




