203Y年1月 新竹/台北
203Y年1月
中華民国/台湾 新竹県新竹市 新竹空軍基地
冷たく乾いた季節風が新竹南寮飛行場を取り囲む防風林を激しく揺らし、海峡から運ばれる塩害を含んだ湿気が剥き出しのコンクリート滑走路の端に白く滲んでいる。
台湾積体電路製造の最先端半導体の一大生産拠点として世界の耳目を集める「台湾のシリコンバレー」新竹は、対岸の中国大陸・福建省からわずか150キロメートル余り。ジェット戦闘機なら離陸から10分強で到達するこの場所は、最前線の盾としての重圧を24時間背負い続けていた。
午前10時過ぎ、基地内に設置されたスピーカーから空気を切り裂くサイレンが鳴り響いた。
「スクランブル! スクランブル!」
緊急発進待機施設の鉄扉が地響きと共に開く。中華民国空軍第2戦術戦闘航空団、第41戦闘飛行隊所属のフランス製「ミラージュ2000-5」2機が姿を現し、尾翼に描かれた「飛龍」のエンブレムが冬の陽光を浴びて鈍く輝く。
ミラージュ2000-5は優雅な三角翼が最大の特徴だ。水平尾翼を持たない設計は、高高度での格闘戦において瞬発力を発揮する。パイロットたちが耐G服のジッパーを喉元まで締め上げ、キャノピーを閉鎖した。単発のフランス製スネクマM53-P2ターボファンエンジンが高周波の咆哮を上げ、アフターバーナーから噴出する紅蓮の炎が背後の空気を陽炎のように歪める。2機のミラージュは、翼下パイロンに中距離空対空ミサイルMICAを4発と短距離空対空ミサイルMAGIC2を2発、DEFA 554・30mm機関砲と数百発の銃弾をフル装備して急上昇を開始した。
「タイガー01。高度2万フィートへ上昇。識別不明機との接触進路を維持する」
酸素マスク越しに冷静な声を発するリード機の林少校。ヘルメットのバイザー越しに見えるのは、薄い雲海の下に広がる鈍い群青色の台湾海峡だ。ミラージュのコックピットに搭載された多機能ディスプレイには、RDYレーダーが捉えた未確認機の位置が不気味な赤い輝点として表示されている。
国立台湾大学のすぐ近く、蟾蜍山の山体をくりぬいた地下壕に所在する聯合空中作戦指揮センターからの無線が、緊迫した情報を送り続ける。
「識別不明機は推定、中共軍の無人攻撃機、TB-001A。海峡中間線を突破し、速度を上げている。台北首都圏へ直進。迎撃許可範囲に接近中だ」
TB-001A。通称「双尾蝎」。 全長10メートル、翼幅20メートルに及ぶ巨大な機体は、2つのプロペラエンジンと、機体後部に伸びる2本のテールブームが特徴だ。12か所の機外兵装ステーションに精密誘導爆弾やミサイルなど1.5トンの兵装を搭載できる不気味なシルエットが、台北市民の頭上に死の影を落とそうとしていた。
台北市大安区
「……な、何だ!?」
羅斯福路を歩いていた桜木祐希は街中に響き渡った異様な音に足を止めた。台北市と新北市の全域で波打つような唸り声を上げる防空サイレンがビル群に反響し、行き交う人々の動きを凍りつかせた。人々のスマートフォンの画面が一斉に「国家級警報」の通知で埋め尽くされる。
『防空警報。中共軍航空機が接近中。直ちに地下シェルターまたは頑強な建物内へ避難せよ』
「冗談だろ……本物かよ」
公館駅近くの五叉路では交通警察官が笛を吹き鳴らし、車両を強引に停止させる。バスから降りてきた乗客が怯えた表情で、「防空避難」のステッカーが掲示された近くの地下街や、厚いコンクリートで作られた大学の建物へと雪崩れ込む。
見上げた冬の澄んだ青空を切り裂くように、2本の真っ白な飛行機雲が台北の摩天楼に向かって鋭く伸びていた。スクランブル発進した台湾空軍機だ。
「雨婷!」
祐希は逃げ惑う群衆に押されるようにして地下街へと駆け込んだ。
台北市上空 高度2万5千フィート
林少校のミラージュ2000は台北市の西北端、陽明山国家公園のはるか上空にて、超音速で目標を捕捉しつつあった。 眼下には。淡水河の河口と台北盆地の密集した街並みが、箱庭のように見えている。機載レーダー画面上でTB-001を示す輝点が、陽明山北麓の海岸から12マイルの位置にある領空境界線まで、あと数マイル地点で明滅している。
「タイガー01、目標を視認。11時方向、距離5マイル」
バイザーの奥で、林の瞳が鋭く細められた。 無骨なグレーの低視認塗装を施された巨大なドローンが、紺碧に輝く台湾海峡を見下ろすように悠然と飛行しているのがかすかに見えた。 林の指が操縦桿の武器発射スイッチに添えられた。
「目標が領空線を超えた瞬間、撃墜せよ」
「了解。マスターアーム・オン、兵装AAMを選択、レーダーロックオン」
機内の警告音は、射撃管制用追尾モードに入ったことを告げる単調なビープ音へと変わった。 MICAは「撃ちっぱなし」能力を持つ。母機が残って誘導せずとも、一度発射されればミサイル自体のレーダーで目標を追い詰める。
あと数秒。あと数マイル。 林は自分の心拍が激しく早まるのを感じた。これを撃てばこの島の平穏は完全に終わり、本当の戦争が始まるかもしれない。
その時だった。
「目標、急速に旋回! 進路を北西に変更、海峡側へ離脱を開始!」
「射撃中止!繰り返す、射撃中止!」
TB-001は領空侵入のわずか数秒前で機体を大きく傾け、台北から遠ざかる進路へと転じた。
「逃がすか……。いや、深追いは厳禁だ」
林は苦渋を滲ませながら、操縦桿を引き戻した。 無人機は悠々と中間線を越え、大陸側の空へと消えていく。その胴体下に吊るされた電子偵察ポッドには、緊急事態に対応するため一斉に稼働した台北周辺の防空レーダーサイトの配置や電波帯域、天弓・ペトリオット地対空ミサイルの射撃管制周波数、そして迎撃機と防空指揮所の切迫した無線交信記録といった、極めて貴重な電子情報《E L I N T》が大量に吸い込まれているはずだった。
台北市大安区
警報の波状音が止み、長く引き伸ばされた単音の解除信号が街に流れる。公館駅の地上へ通じる階段には、避難していた人々が慎重な足取りで溢れ出していた。 桜木祐希は湿り気を帯びたコートの襟を立て、骨まで染み通るような冷気に身を震わせた。 熱帯の面影を失ったグレーの空から雨とも霧ともつかない微細な水滴が降り注ぎ、バロック様式の大学校舎をどんよりとした薄幕で包み込んでいる。
「……祐希! こっちよ!」
椰子並木道の入り口、赤レンガと洗出し仕上げの門柱脇で、人波に抗うように立っている雨婷の姿を見つけた。 ポニーテールは少し乱れ、その白い頬は寒さと興奮で赤らんでいる。
「雨婷、無事だったか? 地下にいたから、全然連絡がつかなくて」
「大丈夫。私は図書館の地階にいたの。マークも一緒だったけど、彼は今、さっきのスクランブルの映像をアップロードするって言って、メディアセンターの方へ走っていったわ」
雨婷は努めて明るい声を出し無理に口角を上げた。しかし、細い指先が握りしめたスマートフォンのケースを白くなるほど強く圧迫しているのを祐希は見逃さなかった。 周囲の学生たちも足取りはどこか危うく、視線は絶えず陽明山方面から流れてくる上空の雲の切れ間を彷徨っている。
2人は並んで、巨大な琉球松とヤシの木が両側にそびえる椰林大道へと歩き出した。図書館前の広場に設置された屋外デジタルサイネージには「防空警報」の赤い文字が消え、ニュース番組が再開されていた。
『……国防部は、空軍は定められた手順に従って迅速に対応しており、今回の接近により地上に危険が及ぶ恐れはほぼなかったと発表しました。なお――』
「ねえ、祐希。日本にいた頃のあなたは、こんなこと想像もしていなかったでしょう?」
雨婷が文学院校舎の古びたベンチに座り込み、遠くの振興草坪を見つめた。
「……ああ。平和とか安全っていうのは、もっと空気みたいに当たり前にあるものだと思ってた。でも、ここでは平和っていうのは、誰かが必死に繋ぎ止めていないと、すぐに融けて消えてしまう、脆い氷みたいなものなんだって、ようやく分かってきたよ」
図書館の壁面には、依然「防空避難訓練」の赤いポスターが剥がれかかったまま揺れている。ニュースキャスターは、台北株式市場の株価がドローン事件を受けて過去最大級の下げ幅を記録した、と伝えていた。
「……行こう。次の国際政治経済史の講義、遅れちゃうわ」
雨婷が先に立ち上がり、服についた埃を払った。祐希は頷き、彼女の背中を追った。 頭上ではまた別のミラージュ戦闘機が空気を引き裂くような爆音を響かせて、灰色の雲の彼方――台湾海峡へと消えていった。




