203X年12月 台北
203X年12月
中華民国/台湾 台北市松山区 台北松山空港
台北市街地の北部に位置する松山空港は日本統治時代に開港し、現在は「台北の玄関口」としてアジア圏の各国首都とを結ぶビジネス路線の要となっている。しかし都心から車でわずか15分という利便性を誇るこの空港の出発ロビーは今、沸騰寸前の不穏な空気に包まれていた。
出発ロビーの巨大な電光掲示板には、羽田、成田、シンガポール・チャンギ、ソウル金浦、上海虹橋といった国際路線の横に赤い文字で「延誤(遅延)」あるいは「取消(欠航)」の文字が並ぶ。
「なぜ飛ばないんだ!説明しろ!」
「重要な商談があるんだぞ!あんた責任取ってくれんのか!」
カウンターに詰め寄る乗客たちの怒号が高い天井に反響して不気味な唸り声を上げている。高級なスーツに身を包んだビジネスマンや泣き叫ぶ子供を抱えた家族連れが地上職員に詰め寄り、スマートフォンの画面を突きつけていた。しかし地上職員たちは顔面を蒼白にし、震える手でマニュアルを握りしめながら、「安全上の理由による滑走路の一時閉鎖」という定型文を繰り返すことしかできなかった。
「……消えただと? さっきまで確かに、10滑走路の末端、高度15メートル付近にホバリングしていたはずだ!」
中華民国交通部民用航空局・台北松山機場管制塔。ベテラン管制官は手汗で滑る双眼鏡を必死に動かし、基隆河の対岸にそびえ立つ大直の軍事施設群――国防部の本庁舎や陸軍司令部、そして有事の際に総統が入り込む「衡山指揮所」といった要衝が集中する――や陽明山の稜線を追った。
数分前、空港の航空管制レーダーにはほとんど反応を見せない「ゴースト」が突如として現れたのだ。ごく小さなレーダー反射断面積しか持たない、マットブラックの塗装を施された鳥ほどの大きさの小型ドローン、おそらく市販のクアッドコプターかその改造型が、航空機の離着陸を物理的に阻害する滑走路の正中線上に居座り続けていた。
「基隆河沿いの『飛機巷(飛行機小路)』周辺を検索中だが、操縦者らしき影は発見できない。ドローン本体も、低空を這うようにして河川敷の茂みに消えた。……視界から完全にロストした!」
「飛機巷」こと濱江街180巷は航空ファンが着陸寸前の機体を至近距離で眺められる有名なスポットだが、同時に空港警備上のアキレス腱でもある。そこから飛ばされたたった1機のドローンによって数千億元の経済価値を生む空の便がストップしたのだ。
松山空港は台北心臓部にある交通の要衝であると同時に、中華民国空軍松山基地指揮部が置かれ、総統専用機「空軍1号」も駐機する重要軍事施設だ。このドローンによる数時間の閉鎖は単なる交通の混乱に留まらず、台北の防空網が、わずか数万円の機械1台に鼻先で嘲笑われたことを意味していた。
「……犯人も、機体も、跡形もなしか」
現場に急行した台北市政府警察局松山分局警備隊の分隊長は、ドローンが消えたとされる基隆河の暗い水面をフラッシュライトで照らした。河川敷の向こうには荘厳な中国建築を誇る円山大飯店の赤い柱がライトアップされ、その優雅な姿が泥濁った水面に揺れている。
しかし光の輪が捉えるのは湿った風に揺れる葦の群生と、その先に広がる黒々とした台北の街並みだけだった
ライトの冷たい光を飲み込む夜の街は何も答えず、ただ遠くで台北101の尖塔が、まるで危篤状態の患者を見守るモニターの灯火のように、青白く、弱々しく明滅しているばかりだった。
中華民国/台湾 台北市中正区 総統府
台北市中正区、重慶南路と凱達格蘭大道が交差する一帯「博愛警備管制区」。その中心に鎮座する中華民国総統府はかつて日本統治時代の1919年に台湾総督府庁舎として完成した、歴史の重みと威圧感を放つ傑作建築だ。赤煉瓦と白い花崗岩を交互に配置したバロック様式の外壁が霧雨を吸い込み、鈍い色彩で輝いていた。
上空は飛行禁止空域であり、91式小銃を携え、防弾ベストの上に反射材の入った制服を着こなす憲兵第202指揮部の隊員たちが周囲に鋭い視線を配っている。総統府や周辺の政府庁舎群の屋上には、巧妙に隠蔽された対ドローンシステムの妨害アンテナや近距離防空ミサイルシステムのセンサーユニットが設置され、厳戒態勢を敷いていた。
総統府の周囲には、テロリスト車両の突入を阻止する重連式の鉄条網が蛇のように展開され、路面にはタイヤを強制的にパンクさせるスパイクバーが仕込まれている。庁舎内の長く伸びる廊下では巡回する憲兵の黒いタクティカルブーツが床を叩く乾いた音だけが静寂の中で反響していた。
地下深く、近傍での核爆発にすら耐えうるよう設計された防空施設、「重慶指揮所」内の会議室。円卓の主座に座る郭文耀中華民国総統は深く刻まれた眉間の皺を指先でなぞりながら、目の前の報告書に視線を落とす。
中華民国軍参謀本部軍事情報局局長、陸健民陸軍中将が軍人らしい峻厳な顔つきを崩さず、口を開いた。
「台湾海峡中間線を越える中共軍航空機の活動、および台湾東方海域へ進出する水上艦艇と潜水艦の航行頻度は、前年同月比で概ね2倍に跳ね上がっています。昨日の松山空港事件以外にも、金門島や馬祖島、澎湖列島などで不審なドローンの出現も相次いでいます。しかし、沿岸部における大規模な陸上部隊の集結といった着上陸侵攻の兆候は見られません。単なる演習準備なのか、それともより深刻な軍事挑発の兆候なのか、判別がつかないのが実情です」
「問題は敵の最終的な着地点が判然としない点にあります。中国は2010年代以降、海空軍による威嚇、サイバー攻撃や海底ケーブル切断、認知戦といったハイブリッド戦を幾度となく反復し、我が国民の心理的動揺を狙ってきました。ロシアがバルト3国をはじめとするNATO東部諸国に対し、インフラ妨害工作やドローン侵入、サイバー攻撃を仕掛けて社会を混乱させているのと軌を一にする手法です」
陸中将は手元の資料をめくり、鋭い眼差しを郭総統に向けた。
「敵の真意がどこにあるのか――今回もいつものように大規模軍事演習を派手に行い、時期が過ぎれば潮が引くように演習終了を宣言して平時に戻るのか。あるいは、艦艇や航空機の活動海空域を少しずつ広げながら既成事実化する『サラミスライス戦術』の一環なのか。それとも、金門や馬祖、東沙といった離島への局地攻撃など、より踏み込んだ軍事挑発を行うつもりなのか。軍事情報局としても敵の最終意図を断定しきれません」
陸中将の報告に対し、テーブルの向かい側で鼻を鳴らしたのが経済部長の謝承宗だった。謝は、国民党内の長老派や親中ビジネス界からの強力な後押しを受け、郭総統が「党内力学」のため、苦渋の選択で入閣させた人物である。
「軍事屋の視点では、何でも最悪のシナリオに見えるのかもしれませんがね」
謝は、仕立ての良いスーツの袖口を整えながら口を開いた。
「過去、彼らが海峡で威嚇的なデモンストレーションを繰り返してきたのは周知の事実だ。しかし結局のところ、その大半は演習の枠内に留まり、一定期間を過ぎれば沈静化してきた。今回もその延長線上と見るのが自然ではないか。過剰反応すれば北京を不必要に刺激し、両岸の経済的な生命線を自ら断ち切ることになる。対話のパイプを維持し、平和的な関係を保つことこそが真の国益だ。意図が判然としない段階で軍事的に騒ぎ立て、社会不安と市場の混乱を煽るのは看過できませんな」
「意図が見えないからこそ危険なのだ!」
国防部長の厳大維が、謝を睨みつけながら机を叩き、声を荒らげた。
「演習と挑発の境界を曖昧にし、我々の防衛意識を麻痺させること自体が相手のハイブリッド戦の術中ではないか。対応が後手に回れば取り返しのつかない事態を招く!」
「謝部長、貴公は相手の欺瞞工作を過小評価し、国家の安全を軽視するつもりか」
外交部長の林瑞隆も厳に同調するように深く頷いた。
「常態化した演習の仮面を被ったまま、どの段階で牙を剥くかが分からないからこそ、最悪の軍事挑発に備えるべきだ」
しかし謝部長に同調する親中派の閣僚たちは、執拗に異議を唱え続けた。
「米国がどこまで関与してくれるかも不透明な中、こちらから緊張をエスカレートさせるべきではない」
「単なる定例演習や示威行動だった場合、軍事動員にかかる莫大な経済的損失の責任を誰が取るのか」
「刺激を避けて現状維持のシグナルを送るのが先決だ」
議論は平行線を辿り、室内の空気は澱んでいく。郭総統は、自らの政権を内側から食い破る党内の亀裂が、国家安全保障の岐路で露呈していることに深い苦悶を滲ませていた。
「……諸君、議論は尽くした。敵の真意が演習なのか、それ以上の軍事行動なのか断定できない以上、全面動員や警戒レベルの引き上げは行わない。謝部長が危惧するように、北京への過度な口実を与え、国内市場を混乱させるリスクは避けねばならない」
陸中将と厳部長の顔に深い落胆の影が走る。
「ただし――」
郭総統は厳しい表情で言葉を継いだ。
「万が一、離島への攻撃に踏み切られた場合の隙を放置するわけにはいかない。金門島、馬祖列島、および東沙諸島の各守備隊に対し、弾薬、食料、医療物資の追加搬入を承認する。……これはあくまで平時の定期補給活動の枠内であり、対外的な発表は一切行わない。以上だ」
国家安全会議は散会となった。
総統府の屋上では凍てつくような冷たい雨が降り始めていた。台北の街灯りは、偽りの安らぎの中で眠りに就こうとしていた。




