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【新改訂版】T-DAY:台湾戦争  作者: 中央国家安全委員会主席
第1章 融解 T-DAYマイナス149~1日

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203X年11月 台北

203X年11月

中華民国/台湾 台北市大安区 国立台湾大学

「東北季風」と呼ばれる大陸からの冷たい季節風が吹き込み始め、鉛色の雲が低く垂れ込める台北は、湿り気を帯びた肌寒い空気が街路のガジュマルの厚い葉を揺らし、キャンパスを貫く椰林大道を自転車で行き交う学生たちも、半袖のTシャツから薄手のジャケットやパーカー、厚手のフーディーへと衣替えを済ませている。


建築家・伊東豊雄の手による国立台湾大学社会科学院棟。1階に位置する「辜振甫《クーチェンフー》先生紀念図書館」、純白の細い柱が林立したガラス張りのリーディングルーム。

日本の東都大学法学部から交換留学生としてこの地に降り立って2カ月、桜木祐希はステッカーが乱雑に貼られた使い古しのノートPCの画面と、目の前に広がる穏やかな、しかしどこか薄氷を踏むような危うい平穏が同居する光景を交互に眺めていた。


「祐希、また上の空? そのレポート、明日のゼミまでに終わるの?」


弾むような声に顔を上げると、隣で分厚い政治経済学の原書を広げている廖雨婷(リャオ・ユーティン)がタブレットに走らせていたスタイラスペンを止め、いたずらっぽく目を細めていた。艶やかな黒髪をラフなポニーテールにまとめ、大学のロゴが刺繍されたネイビーのフーディーの上から厚手のウールコートを無造作に着こなしている。手元には水滴のついた無糖の四季春茶。知的な眼差しと、時折見せる年相応の幼い笑顔のギャップに祐希は密かに心を動かされていた。彼女はこの社会科学院で国際関係論を学び、外交官を目指しているという俊英だ。父親も政府で働いているらしいが、どこの省庁かと聞いても、「つまらない役所よ」と言うだけで教えてくれなかった。


「いや、ちょっと……。さっきから学内Wi-Fiの調子が悪くてね。接続がブツブツ切れて、文献のダウンロードができないんだ」

「また? 私のスマホも、さっきから決済アプリのQRコードがタイムアウトして学食で使えなかったわ。結局、リュックの底から小銭を探す羽目になったし」


雨婷は困ったように肩をすくめ、手元のタブレットを軽く叩いた。


「ヘイ、二人とも。そんな難しい顔してると、せっかくのタピオカが不味くなるぜ」


黒糖がマーブル状に沈む特大プラスチックカップを手に独特のリズムで近づいてきたのは、交換留学生仲間のマークだった。カリフォルニア州出身の彼は色落ちしたヴィンテージのデニムジャケットにスケーターブランドのキャップという典型的な西海岸の若者といった風貌だが、その実はサイバーセキュリティとメディア論を専攻するギークだ。暇さえあれば小型のジンバル付きカメラを回し、台北留学の日常を動画配信している。フォロワーはそこそこ多いらしい。


「マーク、また撮ってるのか。図書館は撮影禁止だろ」

「今は中断してるよ。見てくれ、今日配信した動画のアナリティクス。昨日、金門島の海底ケーブルがまた切断されたっていうニュースを取り上げてから、3倍に跳ね上がった」


マークが提示したスマートフォンの画面には、英語や繁体字、そして簡体字のコメントが滝のように流れ落ちていた。

ライブラリーの壁に設置されたデジタルサイネージのニュースヘッドラインは、平穏とは程遠い語句を羅列している。


『金門島の海底ケーブル3度目の切断。事故か故意の破壊かは不明と発表』

『中共軍の戦闘機など24機が防空識別区に進入。中間線を越え連日の台湾周回飛行を継続』

『中華保衛党・李《リー》党首、厳《イェン》国防部長の脱税疑惑に対し徹底追及を表明』

『大陸当局、レアメタルの輸出管理強化を発表。資源保護目的と表明。専門家は軍事的思惑を指摘』


テロップに囲まれたテレビ画面の真ん中には、拿捕された漁船の船長が、防弾ベストと小銃で完全武装した中国海警局の係官に両脇を抱えられ、甲板を引きずられるように連行される不鮮明な映像が流されていた。


「ねえ、祐希。最近、変だと思わない? 突然の停電とか、交差点の信号機のフリーズとか、銀行のATMが数分だけ止まるとか。1つ1つはニュースのベタ記事にもならないような些細な不具合だけど」


祐希は、数日前にMRTの改札でICカード「悠遊卡(ヨウヨウカー)」が読み取れず、数百人の乗客が殺気立って足止めを食らった光景を思い出した。駅員は拡声器で「一時的なシステム負荷です!」と繰り返していたが、その表情には隠しきれない困惑が張り付いていた。


「ただの老朽化やケアレスミスにしては、タイミングが良すぎる気がするな」


祐希が答えると、雨婷は窓の外、遠く広がる大安区の古いコンクリートの街並みの向こうに霞んで見える「台北101」の尖塔を見つめながら、声を潜めた。


「まるで、大きな舞台の幕が上がる前の、入念なリハーサルをされているみたい。私たちは、知らないうちにその舞台の上に立たされているんじゃないかしら」


彼女の言葉に含まれた予感は、秋から冬へと向かう澄んだ冷気を一瞬で凍りつかせるような鋭さを持っていた。祐希は、自分の背中を冷たい汗が伝うのを感じた。


「リハーサル、か……」

「そうだとしたら、劇の本番はいつ始まるんだろうな」


マークがタピオカの太いストローを噛みながら、真顔で呟いた。

息苦しさを覚えた3人は、図書館を出てオープンスペースのコンクリートベンチへと移動した。吹き抜けを冷たい北風が吹き抜け、巨大なガラス面が灰色の空を寒々しく反射している。ダウンジャケットの前を合わせた祐希は、手元のスマートフォンを開き、思わず息を呑んだ。


短文投稿型SNSのタイムラインには、まるで悪夢のような光景が氾濫していた。

画面の中で再生されたのは、沖縄の米軍嘉手納飛行場ゲート付近とされる動画だ。画質は粗く落とされ、生々しい手ブレと激しい風切り音が異様な臨場感を煽っている。砂漠戦用の迷彩服に身を包み、タトゥーの刻まれた太い腕を覗かせた数名の白人兵士が、路上で泣き叫ぶ若い女性を強引にカーキ色の軍用車両へ引きずり込む姿が映し出されていた。女性の衣服は無残に引き裂かれ、アスファルトには鮮血の筋が引かれている。


「……っ、なんだよこれ、ありえないだろ」


祐希の指が微かに震える。画面をスクロールすると、今度は陸上自衛隊宮古駐屯地正門前とされる画像が表示された。黒光りする小銃を構え、オリーブドラブの防弾ベストに身を固めた自衛隊員たちが、抗議する高齢者たちを警棒で殴りつけ、頭から血を流す老女を泥濘の中に突き伏せている。隊員の強化ガラス製バイザー越しに見える瞳は機械のように無機質で、その足元には踏み潰された「琉球独立」の旗が虚しく転がっていた。

投稿には、扇情的な多言語のハッシュタグが躍っている。


『日米軍による琉球市民大虐殺』

『沈黙する国際社会、今こそ琉球に自由を』

『#FreeRyukyu』 『#RyukyuNotJapan』 『#OkinawaGenocide』 『解救琉球人民』


「祐希、それを見たか。今、あらゆるSNSが沖縄関連のハッシュタグで飽和状態だ」


隣に座るマークが自分のノートPCをこちらに向けた。彼の画面に映し出された英語圏のタイムラインも、まったく同様の地獄絵図で埋め尽くされている。


「これ、全部デマだよ。日本でこんなことが起きてたら、今頃国中がひっくり返ってる。自衛隊が自国民に銃を向けるなんて、今の日本では絶対にあり得ない」

「わかってる。だが、このディープフェイクは巧妙すぎる。米兵の装備の傷、自衛隊の階級章の細部、天候による光の反射、群衆の悲鳴の音響モデルまで高度にシミュレートされてる。これじゃ専門家でも一瞬で見抜くのは困難だぜ」

「見て、この風刺画も……」


厚手のウールコートの襟を立てた雨婷が声を潜めて指差したのは、中国語のタイムラインに流れてきたイラストだった。星条旗と日の丸を背景に巨大な黒い軍靴が小さな緑の沖縄の島々を粉砕し、そこから溢れ出す血が台湾の東海岸まで流れ着くというおどろおどろしい構図だ。


「日本政府は沖縄を、台湾有事の際の『捨て石』にしようとしている。そしてアメリカはそれを利用するだけ利用して、最後には見捨てる。……いま中華圏のSNS空間では、この『疑米論』が恐ろしいスピードで浸透し始めているの」


その夜。

祐希は留学生寮の自室で、日本にいる家族とビデオ通話を試みた。しかし、パソコン画面の向こうの母親の顔は激しくデジタルノイズにまみれ、やがて不快な電子音と共に「接続不可」の一文字を残して暗転した。

窓を開けると、冷たい夜風が吹き込み、眼下を走る基隆(キールン)路の高架道路には車のテールランプが赤い河のように流れていた。台北の夜景はいつも通り眩いばかりに輝いている。だがその無数の光の粒の一つ一つが、いつか唐突にスイッチを切られたように消えてしまうのではないかという恐怖が、祐希の胸を強く締め付けた。

社会が、日常が、音を立てずに融けていく。その感覚はもはや被害妄想ではなく、肌を刺す現実の予兆として、確実に深まりつつあった。

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