203X年10月 厦門/東莞/台中
203X年10月
中国・福建省厦門市海滄区 厦門港「台商投資区」海関保税倉庫
巨大なコンテナターミナルの片隅、潮風に晒されて赤錆が浮き始めた保税倉庫の軒先で、台湾人貿易商の陳は、目の前にそびえ立つパレットの山を絶望的な眼差しで見上げていた。
背後には海滄大橋の長大な吊り橋の主塔が、澱んだ海霧の向こうに巨大な十字架のようにそびえ立っている。海滄港区は両岸経済協力の象徴として華々しく建設されたが、今の陳にとってその機能美を誇るガントリークレーンの列は、獲物を逃さない蜘蛛の足のように見えた。パレットには台南の契約農家から買い付けた最高級パイナップルと、高雄港から運び込まれた精密旋盤の部品が、無情な沈黙を守ったまま積み上げられている。
「……まだ許可が下りないのか。もう1週間だぞ。果実は腐り始めている」
陳が、厚い書類束を抱えた現地の通関業者に詰め寄る。業者は困り果てたように視線を泳がせ、声を潜めて答えた。
「陳さん、無理を言わないでください。海関の担当者は『植物防疫上の懸念が払拭できない』の一点張りです。精密部品の方も、今朝になって『国家安全規格に基づく追加の安全検査が必要になった』という通知がシステムに入りました」
倉庫の向こうには厦門本島へ向かう貨物列車が走る海滄鉄道の線路が見えるが、そこに積まれるはずの陳の荷は動く気配すらない。頭上では、かつて観光客を運んだ厦門クルーズセンターへの連絡船が、静まり返った九龍江の河口を横切っていった。
中国・広東省東莞市 工業団地 電子部品製造工場
「……消防法違反? 先月の定期検査では合格したはずだ!」
台湾系大手電子機器受託製造企業の現地法人責任者、林は、執務室に踏み込んできた制服姿の男たちを前に、受話器を握りしめたまま立ち上がった。 窓の外では、広州と深圳を結ぶ広深高速道路の高架を、無数の大型コンテナトレーラーが排気ガスを撒き散らしながら絶え間なく行き交っている。「世界の工場」東莞の心臓部、その一角を占める林の工場を、珠江デルタの湿った灰色のスモッグが不気味に包み込んでいた。
黒い制服に身を包み、鋭い金色の徽章を光らせた東莞市公安局と消防局の男たちは表情一つ変えずに告げる。
「基準が更新されたのだ。貴社の第3棟における非常口の配置、および溶剤貯蔵庫の換気システムは、新基準に照らして重大な欠陥がある。本日付で、当該ラインの操業停止を命じる」
「待ってくれ、今止まれば納期の遅れで数億ドルの損失が出る! 改修なら操業しながらでも……」
「命令に異議があるなら、書面で当局に申し立てよ。ただし、審理には数ヶ月を要する」
工場の重厚なスチール製のメインゲートには、「封印」と書かれた赤い紙がクロスするように貼り付けられた。窓の外では何も知らされていない数千人の工員たちが突然止まったラインに困惑し、青いタイル貼りの寄宿舎棟へと追い出されていく。林のデスクにあるパソコンの画面では、親会社である台北本社の株価がストップ安に向けて真っ逆さまに急落していく。遠く、工業団地の境界に広がる水路の淀んだ水面が、厚い雲に覆われた空を反射して、鉛のように暗く光っていた。
中華民国/台湾・台中市 工業団地
台湾第2の都市、精密機械産業の心臓部としても発展を遂げた台中市。その西側に広がる大肚山の緩やかな傾斜地からは、近代的な高層ビルが林立する「7期再開発区」のスカイラインが一望できる。しかし山の上から吹き下ろす乾いた風は、街を象徴する国家歌劇院の曲線美さえもどこか寒々しく見せていた。
茶館の片隅で数人の経営者たちが小声で話し込んでいる。テーブルに置かれた特産の凍頂烏龍茶はすでに冷めきっていた。
「……あそこの工場も、来月で畳むらしい。大陸側の資産はすべて凍結され、従業員の給与も払えないそうだ」
「我が社も同じだ。寧波に送った工作機械が港から一歩も動かずに1ヶ月経つ。保管料だけで利益が吹き飛んだよ。……結局、政治家たちが威勢のいいことを言うたびに、我々商売人がそのツケを払わされるんだ」
1人が悔しげに拳で机を叩いた。 その衝撃で、茶杯の中の琥珀色の液体が微かに揺れる。台中のアイデンティティとも言える世界屈指の工作機械クラスターは中国大陸からの経済制裁という目に見えない包囲網によって窒息しかけており、台湾各地の商工会議所や同業公会には悲鳴に近い陳情が殺到していた。中国大陸に巨額の投資を行ってきた「台商」たちは人質同然の扱いを受けており、身動きが取れない。
「これでも政府は『両岸の現状維持』だの『全民国防』だのと言うつもりか。このままでは、ミサイルが飛んでくる前に、私たちの生活が先に干上がってしまう」
その不満の火に油を注ぐように、店内の大型テレビから金切り声が響く。 極端な親中路線を掲げていつの間にかSNS上での支持を広げ、今年1月の立法院選挙で初めて議席を得た野党「中華保衛党」の議員が、日米との連携による海峡両岸の現状維持路線へと明確に舵を切った郭総統の国民党政権と、かねてより反中独立志向が強い最大野党・民主進歩党の無策を、激しい口調で糾弾していた。
「長年の国民党への信頼を裏切って民進党と密室で手を握り、浅薄な反中感情に迎合する郭政権の頑なな態度が、大陸の同胞を怒らせ、我々の経済を破壊しているのです!今すぐ北京との対話に応じ、平和統一に向けた協議を開始すべきではありませんか!」
画面の中で振り回される拳。それに呼応するように、SNS上では『#両岸経済協力の再開を』『#自分の生活を守れない政府はいらない』といったハッシュタグが組織的な勢いを持って拡散されていく。
テレビ画面が「快訊」(速報)のテロップと共に切り替わる。
『続いて速報です。上海で貿易会社を経営する台湾人ビジネスマン、林氏が、国家安全部によって拘束されました。容疑は「反間諜法」に違反し、国家安全危害罪に該当するスパイ活動とされています。大陸当局の発表によれば、林氏は長年にわたり大陸の軍事施設周辺で情報収集を行い、台湾当局へ提供していた疑いがあるとのことですが、家族は「不当な拘束だ」と強く訴えています』
「また『台商』が人質に……。これで今月に入って2人目だ。俺の知り合いにも、大陸との取引を急に打ち切られて、行方が分からなくなっている人がいる。大陸に無用に喧嘩を売るからだ!」
かつては「経済は経済、政治は政治」と割り切っていた商工人たちの心に、拭い難い政府不信と、未知の「平和」への甘い誘惑が、じわじわと浸透し始めている。窓の外、夕闇に包まれ始めた工業団地の煙突群が、まるで巨大な墓標のように沈黙していた。




