203Y年2月8日 ワシントン・コロンビア特別区
203Y年2月8日
アメリカ合衆国 ワシントン・コロンビア特別区 ホワイトハウス
鉛色の空から冷たい霙が降り注ぎ、ポトマック河畔のソメイヨシノの枝を濡らしていた。リンカーン記念館の大理石像も、リフレクティング・プールの薄氷越しに霧に煙るナショナル・モールを見つめ、かつてキング牧師が演説した場所から東へそびえるワシントン記念塔のオベリスクの頂部は低い雲に隠れていた。
ペンシルベニア通りを走る公用車が、冷たい水飛沫を上げる。スミソニアン博物館周辺は静まり返り、北側のラファイエット広場では、アンドリュー・ジャクソン大統領の騎馬像が風雨に晒されながら佇んでいた。
大統領執務室。歴史あるレゾリュート・デスクの背もたれに深く身を沈めているのは、アメリカ合衆国大統領ロナルド・ポーカーだった。
前大統領が築き上げたポピュリズムの遺産を受け継ぎつつ、ラストベルトの労働者層の代弁者を自任して政権の座に就いた男だ。「剥きたてのゆで卵」と揶揄されるスキンヘッドが照明を浴びて白く光り、丸みを帯びた輪郭の下半分には赤茶色の顎髭が張り付いている。青白い双眸を落ち着きなく動かしながら、ポーカーは手元のタブレットに表示された激戦州の最新支持率データを指でなぞっていた。
アントニー・ホールデン国務長官が、手元の分厚いブリーフィング用バインダーをデスクに置き、口を開いた。
「ミスター・プレジデント。情勢悪化スピードは我々の予測を超えています。欧州ではロシア軍がバルト国境へ、朝鮮半島では北朝鮮軍が集結、ペルシャ湾でもイランがタンカー拿捕と石油施設攻撃に打って出ました。混乱の震源地は台湾海峡です。第1列島線の蝶番である台湾が北京の手に落ちれば、中国海軍は太平洋へ自由に躍り出ます。米国の西海岸、ハワイ、グアムを直視する海域に彼らの原潜と空母が遊弋することになる。我が国の太平洋防衛ラインは一気に後退します」
「戦略の教科書論は結構だ、アントニー」
腕組みをして周囲をにらみつけていた大統領首席戦略官兼上級顧問のブラッド・スローンが割り込んだ。ポーカーの選挙参謀として中西部の白人労働者票を掻き集めた男は、口元を歪めて嘲笑を浮かべる。
「その『第1列島線』とやらは、ミシガンの自動車工場の雇用を守ってくれるのか? オハイオの鉄鋼労働者の給料を上げてくれるのか? 答えはノーだ。大統領、今朝の世論調査を見ましたね。アジアの領土紛争に対する米軍の直接派遣に、国民の73パーセントが反対している。もし今、台湾や日本の小さな離島のために米国の若者の血を流せば、秋の中間選挙で我が党は議席を半減させますよ。国民が求めているのはインフレの抑制とアメリカ本土の国境警備、不法移民阻止だ。地球の裏側の防衛ではない」
「経済の話をするなら、現実を直視すべきだ、スローン」
大統領補佐官(国家安全保障担当)のイーサン・カークが眼鏡のフレームを押し上げながら反論した。
「台湾積体電路製造のファウンドリが停止すれば、米国内の自動車工場も、アップルの新製品ラインも、ボーイングの航空機組立も、わずか数カ月で立ち往生する。それだけではない。最新鋭のF-35戦闘機や精密誘導ミサイルに組み込まれる最先端半導体の9割はあの島で作られているんだ。サプライチェーンが北京の手に握られれば、我が国の産業基盤と国防力そのものが人質に取られる。これは中西部の労働者にとっても死活問題だ」
「だからこそ、前政権から国内回帰を進めてきたんだろうが」
スローンがデスクに歩み寄る。
「アリゾナの半導体工場に何十億ドルもの補助金を注ぎ込んできたのは何のためだ?台湾のリスクを切り離すためだったはずだ。いま中国と全面戦争を始めたら、それこそ世界経済は心停止する。自ら引き金を引いて大恐慌を招く気か!」
「軍事的な観点からも、座視はあり得ません」
退役陸軍中将であるジェームズ・ミラー国防長官が、顔に隠しようのない苛立ちを刻んで前へ出た。
「大統領、与那国島は日本の施政権下にある領土です。日米安全保障条約第5条の適用対象であることは疑いようがありません。現在、島は通信を完全に遮断され、正体不明の重武装部隊によって占拠されています。日本政府は警察だけでは対応できないとして、軍隊――自衛隊の出動命令に踏み切りました。米軍がここで明確な姿勢を示さなければ、NATOを含む世界中の全同盟国が、アメリカの防衛公約はただの紙切れだと判断します」
ポーカーはタブレットから視線を外し、双眸をぎょろりと動かしてミラーを見上げた。
「ミラー。その日本政府がどう言っているか知っているか?東京の大泉首相は、記者会見で『外国からの攻撃だ』とすら言明していない。連中は法的な理由をつけて、『治安維持のための警察行動』としているだけだ。当の日本人が、中国を名指しして『戦争だ』と叫ぶのを怖がり、国内法をこねくり回して誤魔化す。自分たちで戦争だと認める覚悟すらない国のために、なぜ我が軍の兵士が先に血を流さねばならんのだ?」
「それは中国共産党のハイブリッド戦の罠です!」
ホールデンが声を荒らげた。
「中国はあらかじめ米国の介入ハードルを上げるため、所属標識を隠した武装勢力を使い、北朝鮮やロシアの装備を意図的に配備させているのです。日本側が国際法や国内法の手続きで身動きが取れなくなることを見越した周到な工作です。向こうの土俵に乗せられてはなりません」
「理屈はどうあれ、現実は現実だ」
ポーカーは大統領デスクに肘をつき、指を組んだ。
「台湾も同じだ。台湾軍と中国軍が海戦を始めているわけじゃない。撃ち合いも始まっていない段階で、なぜ米軍が先制攻撃を仕掛けて第3次世界大戦の火蓋を切る? アメリカ人の血は、アメリカ人のためにしか流させない。ラストベルトの母親たちに『あなたの息子は遠い異国の小島のために死にました』と手紙を書くのは、君たちではなく私なんだ」
「大統領……」
ミラーがなおも食い下がろうとしたが、ポーカーは大きな手を振り、遮った。
「結論は出ている。地域の米国民の安全確保、および不測事態への警戒態勢は許可する。だが、米軍部隊が展開していいのは後方の防衛ラインまでだ。台湾周辺海域、および紛争地域への直接進入は一切認めん。まずは日本と台湾が自らの領土を守るためにどれだけ戦えるのか、その意志を証明してみせろ。それまでは1機の戦闘機も、1隻の駆逐艦も、火中の栗を拾いには行かせない」
冷え切った執務室に、大統領の決定が重く落ちた。スローンが満足げに口元を緩め、ホールデンとミラーは悔しさに唇を噛み締めて視線を落とした。
マサチューセッツ通り 在アメリカ合衆国日本国大使館
ワシントンDCの日本大使館では、夜を徹した外交戦が続いていた。2月4日以来、東京の外務省本省からは、かつて総理としてウクライナ危機に対処した経験を持つ岸山外務大臣から、直電による緊急訓令が相次いでいた。
「ポーカー政権の国内重視の姿勢に押し流されるな。連邦議会、国防総省、国務省に主要シンクタンクの全チャンネルを稼働させろ。与那国を失うことが米国の太平洋戦略にどれほどのコストをもたらすか、連中の頭に叩き込むんだ」
特命全権大使の北川和之の指揮のもと、政務公使の小林徹也、防衛駐在官の山本秀樹1等海佐をはじめとする館員たちが、手分けしてDCの要路へと足を運んでいた。
小林公使が、大使館を留守にしている北川に代わって本省の岸山との電話に応対している。
「先ほど、北川大使が連邦議会の上院軍事委員会筆頭補佐官、マーク・スティーブンスと接触しました。下院外交委のインド太平洋小委員会とも協議を終えています。『南西諸島に対する武力攻撃は日米安保条約第5条の対象であり、米国は直ちに必要な措置を執るべきである』とする超党派決議案の策定に向け、すり合わせに入りました」
一方、電話の受話器を握る防衛駐在官の山本1佐は、ペンタゴンの統合参謀本部第5部(J-5:戦略計画・政策)に詰める米海軍大佐との折衝に追われていた。
「……そうです、ハドソン大佐。自衛隊の治安出動は、我が国の法体系において部隊を動かすための最速の選択でした。しかし、北朝鮮製やロシア製の対空・対艦ミサイルが展開している以上、実質的な軍事作戦です。米軍のプレゼンスが不可欠なのです」
受話器の向こうから、ハドソン大佐の苦渋に満ちた声が返ってくる。
『ペンタゴンの制服組は誰もが事態の深刻さを骨身にしみて理解している。太平洋艦隊も第7艦隊も、今すぐにでも部隊を前進させたい。だが、ホワイトハウス西翼の政治顧問連中がブレーキを踏んでいるんだ。彼らは大統領に世論調査の数字を見せ続け、手足を縛っている。議会からの突き上げがなければ、大統領の命令は下りない』
「議会工作なら、今まさに総動員で展開しています」
小林公使の手元のメモには、今日接触した要人の名がびっしりと書き込まれていた。戦略国際問題研究所理事長への緊急ヒアリング依頼、ブルッキングス研究所の上級研究員を通じたワシントン・ポストへの緊急オピニオン寄稿、そしてFOXニュースの安全保障解説者に対する「東シナ海封鎖が米国のガソリン価格と半導体供給に与える壊滅的影響」の詳細なレクチャー。
しかし、霙がアスファルトを濡らすワシントンの夜の中で、外交官たちが動かそうとしている巨大な同盟国の意思は、内向きの政治力学という分厚い壁に阻まれたまま、軋みを上げていた。




