203Y年2月8日 世界各地
2月8日
日本 東京都千代田区 大手町
大手町に本社を構える大手総合商社の資源エネルギー部門。フロア内では電話の呼び出し音が鳴りやまず、モニターを見つめる社員たちの荒い息遣いが行き交っていた。
「ペルシャ湾の積み地でタンカー3隻が待機指示のままです。フジャイラが叩かれた影響で、オマーン湾の外に出す迂回ルートも船主が引き受けを拒否しています!」
課長補佐のデスクに駆け寄った若手社員が叫ぶ。
「船主の言い分はなんだ」
「ロイズの戦争保険料率がまた跳ね上がりました。通常運賃の数倍どころじゃありません。1航海あたりの追加保険料だけで億単位が消えます。船長組合もペルシャ湾への進入拒否権を行使しました。これ以上は積めません」
「国内の電力と都市ガス向けはどうなる。JERAからも東京ガスからも今朝から催促の嵐だぞ」
「国内備蓄を取り崩すしかありません。しかし、このまま中東からのリフトが止まれば、3週間後には発電用のLNGが底をつき始めます。すでにスポット価格は指標のJKMで100万BTUあたり40ドルを突破、青天井です」
大手町から日比谷通りを挟んだ自動車メーカーの東京本社でも、同様の混乱が広がっていた。調達本部の役員室に、愛知県の主要工場群を統括する生産管理部長の声がスピーカーフォンから響く。
「……ラインを止めざるを得ません。来週月曜から、高岡と堤の組み立てを全停止します」
「在庫はあと何日分あるんだ。台湾からの空輸枠は確保できないのか」
調達担当役員が食い下がる。
「空輸もへったくれもありません。台北の桃園も高雄も、中国軍の飛行制限区域に指定されて民間貨物機が1機も飛べないんです。TSMCの基板だけじゃありません。車載用のパワー半導体、マイコン、コネクタの端子に至るまで、台湾のサプライヤーからの半導体供給が全て途絶しました」
「千歳のRapidusや韓国のサムスンに代替生産の打診を入れましたが、『ライン変更には半年かかる』と門前払いです。経済安保チームの連中が言うには、防衛省やアメリカ軍も兵器の緊急増産のためにこれら2社の生産枠を抑えており、民需は後回しでしょう。このままでは国内全拠点で新車の生産が止まります」
虎ノ門のオフィス街でも、対中貿易を担う中堅商社の営業フロアで怒号が飛んでいた。
「中国税関がまた通関を止めました。商務部の輸出規制品目リストに該当しないか全数検査に回すとのことです。うちが扱っているのは量販店向けの肌着と靴下ですよ! これが軍事物資に見えるんですか!」
「上海港の外でコンテナ船が何十隻も錨を打ったまま動かない。現場の担当者と連絡がつかん。船が回ってこなければ、来春の納品は全部違約金だ……」
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク市 ウォール街
ニューヨーク証券取引所の立会場。ブロード・ストリートに面した荘厳な新古典主義建築の内部では、開場ベルと同時に売り注文の電子アラートが連打されていた。メインボードに表示されるS&P500、NASDAQ指数の数字が秒単位で削り落とされていく。
「Appleが寄り付きから12パーセント下落!NVDIAは売り気配のまま値がつかない!」
トレーダーがヘッドセットのマイクに向かって叫ぶ。
「半導体の現物はどうなっている!」
「ブローカー間市場でパニック買いが起きています。台湾製のアドバンスドパッケージング品は提示価格すら消えました。東南アジアの流通在庫にある古い汎用チップまで、買い占めで昨日の8倍の値段がついています。現金化を急ぐファンドが、国債もゴールドも関係なくあらゆるアセットを投げ売りしています!」
取引開始からわずか十数分後、市場全体の急落を受けて取引を強制中断する第1段階のサーキットブレーカーが発動した。場内の巨大スクリーンが赤く点滅し、システムが全売買を停止させる。静まり返ったフロアで、フロアブローカーの白髪の男性が汗を拭いながら手元の端末を見つめていた。
「……ブラックマンデーやリーマンショックとも違う。あの時は金融システムの目詰まりだった。今回は物理的な供給網そのものが断ち切られたんだ。iPhoneも、AIデータセンターのGPUも、ミサイルの誘導装置も、大元はあの島で作られていた。在庫が切れる数カ月後、世界の工場は何を作ればいいんだ?」
大手投資銀行のデスクでは、ポートフォリオマネージャーが顧客からの解約要請の処理に追われていた。
「お客様、落ち着いてください。今すべてのポジションを解消すれば損失が確定します……ええ、分かっています。中国に対する経済制裁ですか?欧米政府は国際銀行間通信協会からの中国排除は見送りました。あれをやれば米国の銀行も連鎖破綻しますから。……ええ、制裁は軍民両用品の禁輸と資産凍結にとどまっています。しかし、制裁の軽重に関係なく、海峡が通れないという物理的事実だけで世界貿易の心臓は止まりかけているんです」
インドネシア共和国 ジャカルタ特別州
赤道直下の湿気が澱むジャカルタのメガシティでも、遠い海峡の危機は生活の根底を容赦なく揺るがしていた。
北ジャカルタのパサール・スネン(スネン市場)。普段なら香辛料と生鮮食品の匂い、客引きの掛け声で活気に満ちている通りに、朝から異様な長さの列が伸びていた。政府が放出した備蓄小麦粉と食用油を求める住民たちの列だ。
「小麦粉は一人一袋までです! 押さないでください!」
市場の係員がメガホンで叫ぶが、照りつける日差しの中、数時間並ばされている群衆から苛立ちの声が上がる。
「昨日よりまた値上がりしているじゃないか! テンペも豆腐も、大豆が入ってこないからいつもの倍の値段だぞ!」
「近所の大衆食堂も全部閉まっちまった。油がないから揚げ物が出せないんだとよ。子供に何を食べさせればいいんだ」
家計を支える主婦たちが小銭を握りしめ、配給カウンターの木箱を詰め寄るように囲む。
列の脇で客待ちをするバイクタクシーの運転手たちも、座席に座り込んだままスマートフォンの画面を眺めていた。ガソリンスタンドには給油を待つ二輪車の長い車列が車道を塞ぎ、燃料価格の引き上げを警戒する声が飛び交う。
運転手の一人が、画面に表示された短い動画を仲間に見せた。
「見ろよ、この動画。台湾のせいで海が封鎖されて、物資が届かないんだってよ」
動画では、整った身なりの解説者がインドネシア語で語りかけていた。
『――現在アジア全域で起きている急激な物価高は、アメリカと台湾が中国の正当な管轄権に抵抗しているために引き起こされています。台湾当局が速やかに隔離措置を受け入れれば、バシー海峡の航行は正常化し、燃料も食料も元の価格に戻ります。私たちの生活を脅かしているのは誰なのでしょうか』
「……結局、遠くの島が意地を張ってるから、俺たちが飯を食えなくなってるってことか?」
「アメリカも日本も自分たちの都合ばかりだ。こっちの生活のことなんて考えてないんだよ」
誰ともなく吐き捨てられた言葉が、熱気の中に溶けていく。
生活物資の高騰という現実の重圧が、遠く離れた発展途上国の人々の間から、台湾情勢への関心や同情を急速に奪い去り、苛立ちへとすり替えていた。
通貨の暴落、工場の稼働停止、市場からの食料の消失。台湾をめぐる海上交通網の遮断からわずか5日、世界は戦火の広がりよりも先に、複雑に絡み合ったサプライチェーンの断絶という経済の地殻変動に足元をすくわれていた。




