203Y年2月4日 バシー海峡
203Y年2月4日
バシー海峡
午後の南シナ海の湿った風が、10万トン級石油タンカー「フォルモサ・プライド」の赤錆色の船体を揺らしていた。船首が波を切り裂くたび、深いインディゴブルーの海面に白い飛沫が広がる。
ブリッジの窓越しには群青色の水平線が広がっていたが、その平穏は航海レーダー上の輝点によって破られた。
「船長、4時の方向、距離12マイル(約22km)。船舶自動識別装置に応答がありません。この速力、軍艦です」
フィリピン人の1等航海士リカルドがディスプレイを指差す。台湾人の林船長は使い古された双眼鏡を覗き込んだ。陽炎の向こうの影が、時間を追うごとに太い灰色の船体へと姿を変えていく。
「……『海警3901』、それと052D型駆逐艦か」
林は短く吐き捨てた。高雄港まではあと数時間の航程。船腹に積まれた原油は、発電用燃料の枯渇に怯える台湾にとって文字通りの生命線である。
右舷前方から迫る中国海軍の052D型駆逐艦「厦門」は、艦橋の4面に大型フェーズドアレイレーダーを備え、艦首に130mm単装砲を据える。左舷から並走して威圧をかけるのは、排水量1万2000tの中国海警局巡視船「海警3901」。76mm速射砲と機関砲を備えた巨大な白塗りの船体が、波を押し分けてタンカーへ寄せてくる。
「主砲が、こっちを向いています」
リカルドの声が強張る。052D型の130mm砲が、タンカーのブリッジへ照準を固定していた。甲板の垂直発射システムには、超音速で敵艦艇を破壊する、YJ-18艦対艦ミサイルが収められている。
国際VHF無線のガード・チャンネルがノイズを散らして鳴り響いた。
『Attention, Formosa Pride. This is People's Liberation Army Navy Task Force. Under the current special quarantine regulations, your vessel is prohibited from entering the Kaohsiung port area. Stop your engine immediately for inspection. Repeat, stop your engine.(フォルモサ・プライド号へ告ぐ。こちらは中国人民解放軍海軍任務部隊。特別検疫措置に基づき、貴船の高雄港水域への接近は禁止されている。検査のため直ちに主機を停止せよ。繰り返す、主機を停止せよ)』
「検疫だと。公海上だぞ!」
林がマイクに手を伸ばした瞬間、低周波の射撃音が海を震わせた。
船首から約300m先の海面に、052D型の近接防空火器、H/PJ-11から放たれた30mm弾が着弾し、白い水柱が連鎖して噴き上がる。
「船長、海警船が寄せてきます!」
右舷側では海警3901が舵を切り、舷側を擦り寄せる位置まで詰めていた。甲板に整列した海警隊員が自動小銃を携え、タンカーの乾舷を見上げている。
その時、北の波頭を割り、灰色の軍艦が姿を現した。
中華民国海軍の9500トン級ミサイル駆逐艦、キッド級「基隆」である。煙突から煤煙を噴き上げ、30ノット近い全速力でタンカーと中国艦艇の間に割って入った。長距離音響発生装置の指向性スピーカーから、海上を切り裂く警告が響く。
『こちら中華民国海軍である。当該商船は我が方の管轄下にある。直ちに針路を開けよ。民間船舶への航路妨害は明白な国際法違反である!』
「基隆」の前後に配置された5インチ単装砲が旋回し、052D型へ砲身を向けた。
だが、中国駆逐艦からの無線返答が遮るように重なった。
『国民党海軍の軍艦へ通告する。これは中華人民共和国の国内法に基づく適法な法執行行動である。我が方の法執行を妨害した場合、反国家分裂法に基づく自衛戦闘措置を開始する。1発でも火器を使用すれば、全面戦争の引き金を引いたとみなす。繰り返す。1発でも引き金を引けば、戦争だ
ブリッジに沈黙が降りた。
前方に立ち塞がる「基隆」と052D型、そして海警3901。主砲を向け合った3隻の艦艇が、互いの引き波を浴びながら数千メートルの距離で並航している。冷房の吹き出し口の下で、林船長の額に汗が滲んだ。
「船長……どうしますか。高雄はもう目の前です」
リカルドが問いかける。
林は「基隆」の艦影を見つめた。ここでタンカーが強行突入を試み、中国軍が武器を使用してタンカーを阻止すれば、今度は台湾軍が反撃に出て――、次の瞬間に台湾全土へミサイルの雨が降り注ぐ口実を与えることになる。
「……面舵一杯。機関半速。針路を南へ戻せ」
「しかし船長、この原油を届けなければ発電所が持ちません!」
「ここで最初の火種になるわけにはいかん。本船はシンガポールへ針路を変える」
10万トンの船体が緩慢に舵の効きを拾い、右へと回頭していく。
回頭を見届けた中国駆逐艦は追尾を緩め、海警3901も増速してタンカーの針路から離れていった。
この日、台湾を取り巻く海域の全周で、海上交通が遮断された。
台湾北方、東シナ海から台北や基隆への航路を扼するのは、浙江省寧波から出撃した中国人民解放軍海軍東海艦隊の主力部隊だ。排水量1万トンを超える055型大型ミサイル駆逐艦「南昌」を筆頭に、複数の052D型駆逐艦が与那国島から尖閣諸島周辺に至る海域へ遊弋し、商船の針路を遮蔽する警戒線を敷いていた。
その北方海域の外縁部では、海上自衛隊水上艦隊・佐世保基地第6水上戦隊隷下のイージス護衛艦「ちょうかい」や汎用護衛艦「あきづき」が中国艦隊の動静を監視し、横須賀を母港とする米国海軍第7艦隊のアーレイ・バーク級駆逐艦「ミリウス」も一定の距離を保ちながら東シナ海を遊弋していたが、双方とも中国艦隊に発砲する許可は与えられていなかった。
一方、台湾南方、東南アジアと太平洋・北東アジアを結ぶ大動脈、バシー海峡には、広東省湛江および海南島三亜から進出した南海艦隊の空母「山東」を中心とする空母打撃群が陣取っている。高雄や台南へ向かうタンカーやコンテナ船は海警船と駆逐艦の威嚇によって全て退去させられていた。ルソン海峡最南端のフィリピン領海内に辛うじて狭い通航路が残されていたものの、中国海軍の動向次第でいつでも断絶し得る状態にあった。
ロンドンのロイズ保険組合をはじめとする世界の大手海上保険会社は、台湾周辺海域を即座に「戦争危険水域」に指定し、特別保険料率の引き上げを実施した。海運メガキャリア各社は台湾発着便の運航停止を相次いで決定。バシー海峡や台湾海峡を通航してくる中東からの原油供給が滞る事態を前に、日本と韓国の物流企業や電力・石油関連企業、メーカー、東京の経済産業省やソウルの産業通商資源部は不眠不休での緊急代替調達対応を迫られることとなる。
東方の太平洋側には、東海艦隊の指揮下に入り、数日前に宮古海峡を抜けていた空母「福建」が機動部隊を率いて展開していた。052D型駆逐艦、054A型フリゲート、さらには海中に潜む039A型潜水艦や093型攻撃型原子力潜水艦を伴い、花蓮港など台湾東部への補給路を遮断し、沖縄及びマリアナ諸島方面からの日米艦船接近を牽制する態勢を整えている。
そして台湾海峡の中間線周辺は、中国海警局の大型巡視船によって埋め尽くされ、たまたま航行していた台湾籍の貨物船や漁船への停船命令と強制的な臨検、中国大陸への廻航を繰り返している。
台湾海巡署の巡視船や海軍のフリゲートが封鎖線の内側から中国艦隊に退去を求め、日米の艦艇や航空機が外縁を取り囲む中、台湾周辺の豊かな海は、たった1発の銃弾で火を噴くような均衡のまま張り詰めていた。
「フォルモサ・プライド」の背後で、バシー海峡の灰色のうねりが船尾の航跡を飲み込んでいく。行く手を阻まれたタンカーは、重い船体を南へ滑らせながら、孤立する島を後にした。




