第8話 擬態
自然界には生存や繁殖の為に、自身の姿・形・色彩・臭い・行動などを他の生物や枯れ葉、樹皮などの周囲の環境に似せる生物が存在する。コノハチョウやシャクトリムシのように、背景の色や形に同化する生物が挙げられる。花蟷螂もそのような生物の一種。マリア・フォージャーは、その暗号名にふさわしい能力と知能を兼ね備えていた。風貌はパッとしない、中肉中背の眼鏡をかけたアラサー女である。
女性の諜報員と言われて「美女」を想像する人は、諜報の世界には向いていない。007のボンドガールのような高身長の美女は目立ちすぎる。身長や体形は、ある程度なら装着具や靴などでカバーできる。美貌も化粧品やメイクで、かなり見映えを操作できる。女諜報員に必要なのは数か国の言語を操れる事と、その場の状況に置いての判断の的確さと演技力なのだ。一流の役者でなければ諜報員は務まらない。
世界各地を彷徨うアラブ人の家屋を探る任務は、マリアには容易い事であった。アラブ世界での役人の対処は金による買収よりも、上位の役職を偽って恫喝した方が早い。ヒジャブを被り眼鏡をかけた姿は、個人を特定できる特徴が皆無だった。アラブ語も堪能な彼女は、その地の「王蜂」の助けで書類を整えてアラブ人の出生地を確認、その居住地を探ることに着手することができた。
幼少期に家族を亡くしたアラブ人は、裕福な彼の祖父母に育てられ高度な教育を施された。旅行に出発するその日まで、その家で彼は生活していた事が確認されている。その住居は、ごく普通の裕福なアラブ人の住居であった。一回や二階のどの部屋も、時折清掃の手が入っているのか生活感はないが清潔だった。ただ一室だけは、異様な内装であった。アラブ人が生活していた部屋である。
その部屋だけは牢獄を想像させるほど陰鬱で、豪壮な作りの机と椅子、簡素なパイプベッド以外何も無かった。窓は分厚いカーテンで覆われ、電気をつけなければ真っ暗で何も見えないほどだった。机の引き出しの中には、医師の処方箋が必要なほどの強い精神安定剤や睡眠薬が、所狭しと並べられていた。広い引き出しにはカギが掛けられていた。カギとナンバーロックが掛かった珍しい引き出しである。
特殊な諜報員なら、キーピックの技術は身に着けて当然であった。このようなアナログ式な鍵だけではなく、電子ロックなどの解除方法もマスターしていた。特殊なピッキング用具が無くても、針金が何本かあれば数分でカギを解除できた。引き出しの中にあったのは、古びた革表紙の重そうな本であった。
その本は日記で、流麗なアラブ語で細かい字で記載されていた。いくらアラブ語に堪能しているとはいえ、その内容を読んでいる時間はない。彼女はスマホを取り出すと、その日記の内容を画像に収めた。諜報員の所持しているスマホは特殊な機能を内蔵している。機密事項の流出を防ぐため、持ち主の手元を数分離れるだけで内容が消去される機能まで備えているのだ。
すべての内容をスマホに収めると、その本を元の場所に戻し、彼女がその場にいたという痕跡を何も残ない状態にした。彼女の見た光景もまた、スマホ内に映像情報として記録されている。彼女の得た情報は即刻、女王の元に送られた。その日記の内容が世代を渡る悲劇と、世俗の想像を絶する狂気が綴られているものである事を、誰も知る由がなかった。




