第4話 亡霊
夜明け前、タイ・バンコクのホテルの一室。脂汗を流し呻き声をあげながら、青年は目を見開いた。10歳の頃から毎晩見る悪夢。最初は一人だった。23歳を過ぎてからは二人が現れる。一人は6歳くらいの目がパッチリとした可愛いらしい女の子、もう一人は聡明そうな顔立ちの二十代の女性だった。悪夢の内容はいつも同じだった。
眩い光が目の前を襲った直後、周辺全てが瓦礫の山と化す。瓦礫の片隅に見覚えのある小さな手が、救いを求めるかのように突き出ている。必死になって瓦礫を掘り体を引っ張り出すが、少女はすでに息絶えていた。少し前まで花のように輝いていた笑顔は、泥に汚れて壊れた人形のように虚ろに目を見開いている。口から血を流して歪な笑みをこびり付かせた顔が、毎夜何かを囁きながら青年の脳内に蠢いていた。
しばらくすると、右頭蓋を銃弾で吹き飛ばされた女性が、黒服を破かれた半裸の状態で彷徨い歩く。少女の顔が、女性の口が何かを囁く。それは音声としては聞こえず、聖堂に鳴り響く鐘のように青年の頭に鳴り響く。「私たちは、なぜ死ななければならなかったの?」「なぜ仇を討ってくれないの?」
「何も動かずに、ただ生きているだけなの?」「こんな不公平な世界に、何の意味があるの?」
日々を生きている事が、煉獄の苦しみだった。眠るに落ちることが、何よりも恐怖だった。爽快な目覚めを迎えたことはなく、どんな薬を飲んでも快適な睡眠は得られなかった。死ぬことは何回も試していた。だが、死んだ後に彼女たちと出会うのが怖かった。神も死後の世界も信じてはいないが、もし死後の世界があったとしたら?どんな顔をして彼女たちと出会えるというのか?
なにより、幼少より募っている積年の怨念が。呪われている己の忌まわしい一族の過去が、彼の復讐に力を与え歩むべき道筋を指し示していた。この世界の全ての人間を滅ぼして、人類の愚劣な歴史に終止符を打つ。普通の人が聞いたら正気を疑うだろう。だが青年は心の底から、それを望んでいた。人類が存在する限り、同じような悲劇は繰り返される。それに人類なんて、とうの昔に滅んで然るべきなのだ。
青年はリュックから、売店から購入しておいたペットボトルを取り出した。中身の水の半分を流しに捨てて、キャリーケースからルアーボックスを取り出す。そこから3つルアーを取り出す。そのルアーを壊すと、透明な液体が入った密閉容器が出てきた。その中身を青年はペットボトルに無造作に移していく。中身がペットボトルの液体に溶け込んでいく時の青年は、狂気の笑顔を浮かべていた。
それが終わるとペットボトルの口を白いパテ状の物体で覆っていく。その動きだけは慎重に行わなければならない。その仕掛けこそが彼の計画のもっとも重要な部分であり、世界を破滅に導くための死神の誘いのカウントダウンとなるのだから。青年の計画が上手く進めば、あと一か月で世界全体が回復不能に陥るほどのパンデミックに襲われるのだ。




