第三話 密使
奴隷船を彷彿とさせる、薄暗く閉塞された狭苦しいエコノミークラスの一席に、窮屈そうにディビッド・アシモフ中尉が座っていた。十数時間も人間が密集した空間に居続けなければならないかと思うと、鬱屈した気分になる。こういう時に、すぐに眠りにつける人間が心底羨ましく思えた。飛行機の中ではどうしても眠れなかった。人工的に作られた浮揚感にはどうしても慣れなかった。
彼の他に彼の直属の部下が三人、航空機内に同席していた。彼らは他人を装いつつも、さりげなく彼を防衛できる位置に席を置いていた。彼の所属する部隊は、モサドの諜報活動を担当する「ツォメト」と称される部署。彼は「スズメバチ」と暗号名で呼ばれていた。スズメバチが一匹で付近を探索し餌を狩るように、その任務上現場で状況を判断し、独断で決断して行動する必要があるからだ。
今回の彼の任務はCIAと、イスラム教徒に関わるテロ組織の情報交換をし、それと同時にアメリカやイスラエルに危害が及ぶ、脅威となりうる国家の危険度の確認を行う事である。2000年以前のアメリカは、イスラエルとアラブ諸国の争いに係ることに消極的であった。湾岸戦争では石油や経済の影響上係る必要があったが、地球の裏側にまで派兵する必要をアメリカ人は感じなかったのである。
2001年に発生した航空機のハイジャック、自爆テロ攻撃がアメリカ人の認識を吹き飛ばした。たった数人でアメリカの指揮系統に攻撃し、3000人ものアメリカ人を殺めた行動はアメリカ人を激怒させるのに十分であった。革命後のアメリカに直接攻撃を加えたのは真珠湾を攻撃した日本だけであり、ニューヨークのような大都市を攻撃されたのは歴史上初めてだからだ。しかも民間人を逆殺されたのである。
アメリカは総力を挙げて、「911」を計画実行に移したアルカイダのトップであるビンラディンを追い詰めて殺害。そしてアラブのテロ組織及びイスラム教テロ組織も、アメリカの「脅威」と断定した。そしてこの事件以降、モサドとCIAはこれまで以上に緊密に情報を交換、作戦行動を共にするようになったのである。それが「ホーネット」ことディビットが航空機に乗っている理由である。
ディビットは情報運搬という退屈極まりない任務が大嫌いであった。彼は体を動かしている方が好きな人間だった。しかし任務の重要性も深く理解していた。彼の脳内に入っている情報は確実にCIAに運ばなければならず、敵国に知られてはならない存在だ。その情報は決して表に出してはならない、公式な記録として残ってはいけないものだった。
ディビットは頭の中で報告しなければならない情報をまとめつつ、一番最後に支持された事例の内容を復唱した。一人のアラブ人の異常な行動。異常じゃないアラブ人なんて存在するのか?と彼は歪な笑みを浮かべた。「アラー」と叫びながら殺戮を繰り返して喜んでいる人種としか、彼には思えなかったからだ。一か月で世界を半周?もっとゆっくり、人生を楽しめばいいものを。
任務を終えた後の長期休暇の予定を、ディビットは練り直した。美女、美食、美酒、狩猟。いつ死ぬか分からない稼業なのだ。やりたいことをやって、何が悪い?苦労をした分、楽しい思いをしなければ馬鹿らしいだけだ。今回の任務では危険は少ないだろう。そう見くびっていたが、この任務が彼の人生の上で一番過酷なものになる事を、今の彼が予測できるはずもなかった。




