2.前世の記憶
カタカタカタカタ
真っ暗な闇の中で、シェリルは不思議な音を聞いた。
何の音なのか分からない。
聞いたことのない音だったはずだ。
だけど不意に思った。
(タイピングの音? ……というか、どうしてこの音がタイピングだと分かるのかしら? 聞いたことない音よね? いや、毎日聞いていた音だわ)
記憶がだんだん混濁していく。
知らない? いや、知っている?
そんな曖昧な感覚の中、シェリルの視界に一人の女性の姿がぼんやりと浮かび上がった。
「あー、どうしてこの挙動になるのかなぁ? メニュー画面の出力なんて基礎中の基礎なのに! どうして出力時の演出が上手くいかないの!?」
そう言ってその女性は「はぁ」と大きなため息をついた。
だが、胸の前でパチンと手を合わせると、気持ちを切り替えたようにして再び作業を始めた。
(そうそう。あそこの処理は結構面倒だったのよね。結局夜中までかかってようやく実装できたんだった……ってあれ? これって……もしかして私の前世の記憶?)
戸惑いながらもシェリルは少しずつ思い出してきた。
そう。
自分の前世は21世紀の社会人でゲームプログラマーをしていた。
名前は寺田葉月。
26歳。
新入社員を卒業し、ようやく一人前として仕事を任されるようになった頃だった。
ゲームプログラマーの仕事はC#などのプログラミング言語を使って、ゲームを動かすために必要な基本機能を作る仕事だ。
今取り組んでいるのは「レーブ・サン・ファン」という乙女ゲームの開発だ。
ゲームの開発は納期との闘いで、時として激務な時もあった。
だが、乙女ゲームを開発するのが夢だった葉月は、大好きな乙女ゲームの開発に携われているというだけで頑張れた。
だから無理が祟ったのだ。
納期が迫っていて、このプログラムがなければ全体の開発が遅れてしまうという状況で、毎日エナジードリンクを飲みながら必死に作業を続けた結果、過労死してしまったのだ。
突然目の前が真っ暗になって、倒れた時の衝撃を今でも覚えている。
そしてぼんやりと思ったのだ。
(私、死ぬんだ。……せめて、「レーブ・サン・ファン」の完成まで生きたかったなぁ。どんな風に完成したのか、見たかったな)
そうして視界が暗闇に包まれた。
※
ピチュピチュ
セキレイの高く愛らしい囀りが聞こえる。
そして目の前が明るくて、うっすらと目を開けると眩しい光に思わず顔を顰めた。
ゆっくりと目を開けると、徐々に視界がはっきりとしてきた。
「ここは……?」
そう思って勢いよくガバリと起き上がると、自分がふかふかのベッドに寝ていたことに気づいた。
天蓋付きのベッドには白い紗のカーテンが掛けられており、それをそっとめくってみると、薄紫色の壁紙が目に入った。
ガラスのテーブルや白地にピンクの薔薇の刺繍が入ったソファ、化粧台や机などの家具はベージュで統一された落ち着いた雰囲気の部屋だった。
(なんか、見覚えのある部屋なんだけど。というか私はなんでここにいるの?)
混乱していると、ドアがノックされ、メイドのアイリが部屋に入ってきた。
「シェリル様、おはようございます」
アイリは入り口でにっこりと微笑みながらそう挨拶すると、カーテンを開け始めた。
その様子を見つめながら、シェリルはアイリの言葉に首を傾げた。
「シェリル……様?」
訝しげに呟くと、不意に鏡に映る自分の姿が目に入り、それを見て思わず息を呑んでしまった。
鏡の中には白に近い薄紫色の絹のような髪の少女がいる。
サファイアのような青色の瞳の大きな目は、猫のように少し吊り上がっている。
この顔には見覚えがあった。
それは葉月が開発を担当していた乙女ゲーム「レーブ・サン・ファン」の登場人物にして悪役令嬢キャラであるシェリル・バートンだ。
「ええええ!?」
思わず叫んでペタペタと顔を触ってしまう。
すると鏡の中のシェリルも同じ動きをし、確かに肌の感覚もあった。
その様子を見たアイリが垂れがちの目を大きく見開いて、不思議そうにこちらを見つめる。
「シェリル様、どうなさったのですか?」
「えっと、な、なんでもないわ」
「そうですか? さぁ、今日は入学式ですから、早くご準備をいたしましょう」
アイリの言葉を聞いたシェリルは息を呑んだ。
「入学式……? 今日、入学式なの!?」
「そうでございますよ。お忘れになりましたか?」
「えっ? そ、そんなことないわ。ちゃんと覚えているわ」
はははと乾いた笑いをして何とか答えたシェリルだったが、内心は混乱していた。
シェリルが断罪されたのは王太子ベルスアークの卒業を祝うパーティの時だ。
つまり、今日が本当に入学式というのであれば、シェリルは3年前に戻っているということになる。
(ウソでしょ……)
信じられない思いでいると、アイリはシェリルを化粧台に座らせ、慣れた手つきで髪を梳かし始めた。
「実は、旦那様から入学のお祝いに、こちらのバレッタを預かっております。早速お付けしますね」
そう言って見せられたのは、確かに入学式の日に父親からプレゼントされたパールのバレッタだった。
それを見たシェリルは確信した。
自分が断罪前の過去に戻ってきたことを。
(ちょっとゆっくり考えないと。脳がキャパオーバーだわ)
かと言ってアイリがそばにいては考えに集中できない。
「ねぇ、アイリ。ちょっと喉が渇いてしまったの。紅茶を準備してもらえるかしら?」
「まぁ、そうなのですね。朝食の準備が整っておりますので、そちらでお召し上がりになりますか?」
「朝食はいらないわ。入学式だから緊張してしまったの。部屋で紅茶だけ飲むことにするわ」
「大丈夫でございますか?」
「ええ、心配しないで。じゃあ、よろしくね」
「かしこまりました」
アイリはシェリルの指示に従い、一つ礼をしてから部屋を出て行った。
パタンとドアが閉まると同時に、シェリルは大きなため息をついた。
(どういうこと? 過去に戻っているってことよね? というか、そもそもここは「レーブ・サン・ファン」の世界ってこと? えっと、整理すると……)
シェリルは現在自分の身に2つの出来事が起こっていることに気づいた。
一つは自分が過去に戻っていること。
二つ目は乙女ゲームの世界に転生していることだ。
一つの出来事でさえ混乱するというのに、ライトノベルにあるような設定が二つも入っている。
いくらなんでも盛りすぎだ。
(ダメだわ。一旦落ち着きましょう)
シェリルは気持ちを切り替えようといつもの癖でパンと胸の前で手を合わせた。
すると、突然目の前に水色に発光する操作パネルが浮かび上がったのだ。
さながらSFの世界のように、空中に表示された操作パネルをシェリルは呆然として見つめた。
「な、何よこれ……」
そこにはいくつかのボタンが並んでおり、ボタンには「好感度」「フローチャート」「リプレイ」「エンディングリスト」と書かれている。
まるでゲームのメニュー画面のような内容だった。
シェリルは逡巡すると、恐る恐る「好感度」のボタンを押してみた。
すると、ピコンという電子音がして、操作パネルの文字が変わった。
画面に現れたのは3人の男性のイラストだった。
(これって、「レーブ・サン・ファン」の攻略キャラだわ)
そしてイラストの隣には「好感度」と表示され、その数値は全員0であった。
次にシェリルは「エンディングリスト」のボタンを押してみた。
すると1つだけエンディングタイトルが明らかになっていた。
〝デッドエンド――毒殺の代償〟
(これって、もしかしてあの断罪された時の話?)
続いて「フローチャート」のボタンを押してみると、四角と丸が線で繋がれたフローチャートと思われる図が表示された。
そして最後にエンディングリストにあった〝デッドエンド――毒殺の代償〟の文字で終わっていた。
どうやらこれがシェリルの辿ったルートなのだろう。
もしこの世界が「レーブ・サン・ファン」だとしたら、好感度によってエンディングが変わるということだろうか?
「レーブ・サン・ファン」の大筋のストーリーは3人の攻略対象の好感度を上げてエンディングを目指すという一般的な乙女ゲームだ。
ストーリーは大筋で分かっている。
もちろん発生イベントも。
だけど問題は自分が悪役令嬢であるということだ。
悪役令嬢側のイベントなんて何があるかも分からないし、どの選択肢が正解なのかも分からないのだ。
だが、一回目の人生ではシェリルは断罪されて死んだ。
ベルスアークの殺気に満ちた目と胸に走った鋭い痛みを思い出し、ぶるりと体が震えた。
もう二度とあんな死に方はしたくない。
(この機能を使って今度は断罪を回避できないかしら?)
成功するかは分からないが、やってみる価値はある。
ゲームの内容を考えると、好感度を上げつつ断罪を回避する必要があるのだろう。
そうして、シェリルはその日から、フローチャートでゲームの進捗を確認し、好感度を見ながら日々を過ごした。




