第九十一話
「……逃げ……ろ」
かすれた声。
黒い兵士の口から漏れた。
その一言に。
誰も動けなかった。
敵なら。
もっと分かりやすかった。
襲ってくれば。
剣を振るえば。
戦えた。
しかし。
目の前の兵士は。
震えていた。
苦しそうに。
必死に。
「逃げろ」と伝えていた。
シオンは一歩近づく。
ナギが止めようとする。
「シオン!」
しかし。
もう遅い。
シオンは兵士の前にしゃがみ込んでいた。
黒い兵士は。
剣を落とした。
カラン。
乾いた音が響く。
「苦しい?」
シオンが尋ねる。
兵士はゆっくり頷く。
黒い泥が。
肩からこぼれ落ちる。
その奥に。
銀色の鎧が見えた。
「鎧……」
ジークが目を見開く。
黒い泥ではない。
誰かが。
泥に覆われている。
シオンはそっと泥へ触れた。
熱い。
しかし。
それ以上に。
悲しみが流れ込んでくる。
「守れ……」
兵士が呟く。
「姫を……」
アカネが息を呑む。
「姫?」
兵士は頷く。
「炎の……姫……」
「アカネ様……」
静寂。
アカネの瞳が揺れる。
兵士は。
自分を守ろうとしていた。
三年間。
ずっと。
泥に飲まれながらも。
なお。
守り続けていた。
その時。
世界樹の診察記録が輝く。
新しい文字が浮かぶ。
『灰の騎士』
『火山の庭を守った近衛騎士たち』
『虚無の泥に侵されながらも、最後の使命を忘れていない』
ナギは拳を握る。
「こんな姿になっても……」
騎士は首を横に振る。
まだ終わっていない。
そう言うように。
その時。
洞窟の奥から。
歌声が強くなる。
優しく。
悲しく。
眠るように。
「……帰ろう」
「もう休もう」
「苦しまなくていい」
甘い歌。
レインがふらつく。
ミルも目を閉じそうになる。
アカネが鈴を鳴らす。
チリン……
歌が少し遠ざかる。
だが。
今度は違った。
黒い騎士たちが。
一斉に頭を抱え始める。
「ぐっ……!」
「うああ……!」
苦しそうな声。
泥が暴れ始める。
歌に反応している。
シオンは気付いた。
「歌じゃない」
ナギが振り向く。
「え?」
「混ざってる」
静寂。
「本当の歌と」
「違う声」
その瞬間。
洞窟全体に。
笑い声が響いた。
ククク……
低く。
冷たい笑い。
「さすがですね」
聞き覚えのない声。
しかし。
どこかエルドに似ていた。
洞窟の奥。
炎の向こうから。
一人の男が現れる。
白い法衣。
灰色の長髪。
穏やかな笑み。
そして。
赤い数珠を首から下げている。
男は静かに一礼した。
「初めまして」
「私は」
「ゼノの弟子」
「カインと申します」
カイン
その笑顔は。
穏やかなのに。
どこか空虚だった。
カインはシオンを見つめる。
そして。
静かに微笑む。
「先生が言っていました」
「薬師だけは」
「決して火山の奥へ行かせるな、と」
そう言って。
カインはゆっくりと手を掲げた。
その瞬間。
炎脈の奥から。
何十人もの灰の騎士が。
黒い泥に操られながら。
ゆっくりと立ち上がった。




